週刊READING LIFE vol.69

効率化は涙の天敵《週刊READING LIFE Vol.69 「とにかく私を泣かせてくれ」》


記事:山田THX将治(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 

私は、映画を観ることが好きだ。他人(ひと)から見れば、気が振れたと思える程だろう。昨年も、353本の映画を観た。勿論、映画館で。本当は、365本観たかったのだが、まあ、自分に合格点をあげられる量だろう。
「よくそんなに、映画を観られますね」
と、声を掛けられることが有る。私が、SNS等にアップする写真を見てそう言って下さるのだろう。その言葉の裏には、誉め言葉と飽きれ顔が同居していることを、私は知っている。そんな時、
「お酒を嗜む人が、毎日お酒を呑むのと一緒ですよ」
と、言い訳がましく答えることにしている。
 
21世紀に入るまで、日本には、数々の個性的映画館が在った。勿論、それぞれの映画館は、一館に付き1つか2つのスクリーンしかなかった。そこには、追加料金を支払って観易い席を確保する‘指定席’が有ったが、大半の席は自由席だった。しかも、入れ替え制(1回の上映しか観ることが出来ないこと)では無かったので、気に入った映画を朝から晩まで観続けることが可能だった。
もっとも、物好きな私でも、どんなに気に入った作品でも、2回、せいぜい3回続けて観るのが限界だった。気分では、もっと観たくとも、旧式の映画館の椅子は、現代に比べると大変座り辛く、3回も連続して観ようものなら、腰か辛くて立ち上がれない程だった。
もっとも、人間は適当なもので、3本立ての映画を安い料金で観ることが出来る名画座には、好き好んで通ったし喜んで3本続けて映画を観たりしていた。時には、‘オールナイト上映’で土曜の夜に4本も5本も観る時が有った。
それも、座り辛い旧式の椅子でだ。
ただ幸いなことに、当時の音響は現在程クリアではなく、何処かこもって聞こえていた。御蔭で、耳が辛くなることはなかった。また勿論、3Dや4D上映館も無かったので、目にも優しかった。画面だって、フイルムによるアナログ上映だったので、現代程明る過ぎることはなかった。長時間の観賞には、向いていた筈だ。
 
好都合なこともあった。先ず、食べ物飲み物の持ち込みが自由だった。飲食物持ち込みを、興業の場で初めて禁止したのは、1983(昭和58)年に開業したTDLが初めてだったと記憶している。
「自分で作ったお弁当が持ち込めないのか!」
と、社会的な問題にまで発展した。
現代では、テロ等の問題もあり、人が集まる場所や旅客機への飲食物持ち込みを規制されても、さほど問題視されることはない。その為か、どこのシネコンでも、他店舗の飲食物の持ち込みお断りのテロップが流れる。
シネコン化する前の映画館では、平気で近くのマクドナルドでハンバーガーとドリンクを買い、それを場内で食べることが可能だった。観客も、それが当然の行為と思っていた。その背景には、当時の映画館の売店には、ロクな飲み物も食べ物も売っていなかった。その反対に、浅草や三軒茶屋に在った名画座では、映画と映画の合間に、
「飯食ってきます」
といえば、平気で外出させてくれる緩い映画館もあったりした。
 
その結果、映画の観客も減ったことも手伝って、映画館はどんどんとシネコンに生まれ変わっていった。戦後すぐに建てられた様な古い映画館が、建て替えをせずに、最新のショッピングモールの一角に入る様になった。しかもシネコンには、いくつものスクリーンがあり、最新作が何種類も同時に上映可能となった。しかも、入場口が一か所なので人件費も掛からず、経営効率が格段に良くなった。売店だって、最新式の什器が入り、多彩な飲食物を販売出来る様になった。
しかも、昭和の時代にはアメリカの映画館にしかなかった大型のポップコーンマシーンを多く見掛ける様になり、夢でしかなかったポップコーンを食べながらの映画観賞が可能になった。これなら、特段の飲食物持ち込み禁止を言わなくても、売店で十分事が足りるし、いつもと同じコンビニの弁当を持ち込む方がダサく感じたりもする。
 
ただこのシネコンは、良い面ばかりではない。まず、人件費を抑える為、スタッフにアルバイトが多くなり、客への対応がマニュアル通りの画一になる。そうなると、何らかのトラブルが起こると急な対処が出来なくなる。
先日のこと、私もそんなトラブルに見舞われた。予告編が流れるシネコンの席に着くと、すぐ後ろで赤ん坊が泣いているのだ。少子化の昨今、子育てに協力したいところだが、赤ん坊の泣き声の中での映画観賞は勘弁だ。スタッフ(アルバイト風)にその旨を伝えると、あっさりと、
「では、返金させて頂きます」
と、答えてきた。金銭的にはそれで済むかもしれないが、時間をやりくりしてシネコンへやって来た、私の時間はどうなるのだろう。しかも、その作品を観賞するには、日を変えて再び訪れるしかない。私もそこまで暇ではないし、そもそも私の時給はアルバイトよりは高い筈だ。それは全て、私の損失だ。
シネコンのアルバイトスタッフに、そんなことを訴えても、ラチが空くことはないので、私は諦めざるを得なかった。泣くに泣けないことだった。結局その映画は、観ることが叶わなかった。
 
長年映画を観ていると、感動のあまり涙するを通り越して、号泣・嗚咽してしまう作品に出会うことが有る。
1977年4月のこと、大学1年生だった私は、同級生の発言に憤慨し残りの講義を自主的に休講にした。学校に残っているのが嫌で、帰ってしまったのだ。
そんな時に気分を変えるには、良い映画を観るのが一番だ。
選んだ映画は、『ROCKY』。アカデミー賞を受賞した、伝説のボクシング・ヒーロー映画だ。当時の習慣で情報誌をめくり上映時間を調べると、丁度間に合うのは渋谷の映画館だった。
現在‘渋谷ヒカリエ’になっている場所に、当時、東急文化会館という建物が建っていて、その中に4館の大きめな映画館が入っていた。『ROCKY』はその中の1館で上映されていた。
上映中、私はそれまでの心がすさんでいたこと等すっかり忘れ、映画の後半になると泣きっぱなしになった。感動で、嗚咽が漏れるのを必死にハンカチで抑える状態になった。
 
『ROCKY』のエンドクレジットが流れても、私は全く泣き止むことが出来なかった。まだ18歳だったとはいえ、男が人前で泣くのはみっともないと思われている時代だったので、何とか涙を止めようと私は試みた。しかし、無理だった。
仕方なく私は、エンドクレジットが流れる中、映画館の最前列の端っこの席へ移動した。
次回の上映が始まる迄、しばしの休憩時間が有る。静かな音楽も流れる。次回を観ようと、新たな観客が入場してくる。しかし、昔の映画館で最前列前の通路を通ろうとする者は居ない。ほとんどの場合、映画館の入場口は、劇場の最後部に在ったからだ。
私は、最前列の席で、誰にも泣いていることを悟られぬ様に、落ち着こうとした。幸い、周りに近付いてくる人は居なかった。休憩時間が終わり、再び映画館が暗くなり、CM・予告編が始まった。
やっと泣き止み、落ち着きを取り戻した私は、暗闇の中、映画館を抜け出した。充分に泣いたせいか、気分は晴れやかだった。
 
映画館がシネコン化した現在でも、数年に一度、涙が止まらなくなる映画に出会うものだ。
効率化され便利になったシネコンに私は、こんな時、困ったことになる。涙が止まらないのに、明るくなった場内を退場するように迫られるからだ。
しかも、清掃に来るアルバイトスタッフは、こちらの感動迄気を配ってはくれない。
私は仕方なく、良い大人が泣き腫らした目で、トボトボと退場する羽目になるのだ。
 
こんな時、こう叫びたくなる。
「もう少しでいいから、泣いている私を放っといてくれ!」
と。

 
 
 
 

◽︎山田THX将治( 山田 将治 (Shoji Thx Yamada)
天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
1959年、東京生まれ東京育ち 食品会社代表取締役
幼少の頃からの映画狂 現在までの映画観賞本数15,000余
映画解説者・淀川長治師が創設した「東京映画友の会」の事務局を40年にわたり務め続けている 自称、淀川最後の直弟子 『映画感想芸人』を名乗る
これまで、雑誌やTVに映画紹介記事を寄稿
ミドルネーム「THX」は、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ』)監督の処女作『THX-1138』からきている
本格的ライティングは、天狼院に通いだしてから学ぶ いわば、「50の手習い」
映画の他に、海外スポーツ・車・ファッションに一家言あり
現在、Web READING LIFEで、前回の東京オリンピックを伝えて好評を頂いている『2020に伝えたい1964』を連載中
加えて同Webに、本業である麺と小麦に関する薀蓄(うんちく)を落語仕立てにした『こな落語』を連載する

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2020-02-17 | Posted in 週刊READING LIFE vol.69

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