青い帽子と本《週刊READING LIFE Vol.69 「とにかく私を泣かせてくれ」》
記事:中野ヤスイチ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
手元にカタチある物として残ったのは、青い帽子と本だけだった。
僕の中にあるいくつかの時計の中で、1つの時計がある日を境に、動かなくなってしまった。
時計が止まったのは、いつだったのか、覚えていない。
覚えているのは12月20日という事だけ。
その日、僕の父親はこの世を去った……。
信じられなかった、父親が死んだという事実を。
ただ、自分の目から流れてくる涙だけは、その事を受け入れているようだった。
人が死ぬ時に立ち会った事があるだろうか。
初めてだった、人が死ぬ瞬間に立ち会ったのは。
目の前には、ベットに横たわっている父親の姿だけが、そこにあった。
テレビで映されているような心拍数を映し出す機械は置かれていなかった。
ただ、父親が目を薄っすら、口を開けて、上向きに眠っていた。
人が死ぬ瞬間は、幽体離脱するというのを、映画やドラマで観たことがあるが、
まさに、口から魂が抜けていくようだった。
僕にできた事は、もう何秒もしないうちに心臓が止まってしまう、父親の手を握る事だけだった。
「いままで、ありがとう、お父さん……」
言葉は出て来なかった。
近くにいた母親が、ベットの上に横になって口を開けている父親に、
「よかったわ、やっくんが来てくれましたよ、間に合いましたよ、お父さん、ご苦労さまでした」と言いながら、いつものように、父親の顔を撫でていた。
そして、父親と過ごした時計の針は、父親は静かに息を引き取ったと同時に、止まってしまった。
「12月20日○○時○○分」と父の脈を取った医師が時刻を告げた
僕の父親は島根県生まれの一人っ子だった。
小さい頃、父親は身体も小さく、身体も弱く、頭も悪かったが、長距離を走ることだけは、早かった。と、笑顔でお婆ちゃんが田舎に帰る度に、僕ら兄弟に話をしてくれていた。
その話を聞いている父親は照れながらも、笑顔だった。
一人っ子だった父親は、友達と良く遊んでいたらしい。
そのため、ほとんど勉強をしなかった。
その結果、行きたかった高校にはもちろん入れず、滑り止めの高校にも入れずに、水産高校に入いる事になった。
その時、父親は悔しさのあまり涙を流しながら、お婆ちゃんに、こんな事を言ったらしい。
「お母ちゃん、お母ちゃん、堪忍してや、気持ちを切り替えて、頑張るけい、1日も休まずに、学校に行くけい、お母ちゃん、それだけは約束するけい、見取ってください」
その約束を守る為に、父親は毎日何十キロも離れた学校に、雨の日も雪の日も自転車で毎日通った。
ある日、父親が高熱を出して、家に帰ってきた。
すぐに近くの病院に連れていって欲しいとお婆ちゃんにお願いして、病院向かい、診察してもらうと、「この身体では、明日、学校を休んだ方がいい」と医者が言った。
それを聞いた父親は、
「先生、何を言うんですか、僕は明日も学校に行かなくてはいけないんです、熱を下げる注射を打ってください、お願いします、僕は約束を守らないといけないです」と言ったらしい。
注射を打ってもらった父親は、次の日も、万全では無いものの休まずに学校に通った。
ある日、お婆ちゃんは父親の担任の先生から、学校に呼び出された。
お婆ちゃんは何か悪いことをしたんじゃないかと、内心思ったらしい。
「あなたの息子さんは本当に良く頑張っている、どうか、大学に行かせてあげてくれませんか」と担任の先生から頭を下げてお願いされた。
それを、お婆ちゃんは嬉しそうに、僕らに言って聞かせてくれた。
当時の事を考えると、水産高校を卒業したら、すぐに働きに出るのが当たり前だった。
それを聞いてから、お爺ちゃん・お婆ちゃんが二人で頑張って、父親の学費を貯めて、大学へ進学を応援した。
故郷である島根県を離れて、栃木県にある大学に進学した父親は、両親からの仕送りを大切にしながら、今で言う「バイオマス、エネルギー」の研究に励んでいた。
すると、研究室の教授から、「君が日本で君が学ぶ事はもうない、どうだ!? アメリカに留学しないか」と言われ、両親に教授が手紙を書いてくれたらしい。
それを読んだ、お爺ちゃん・お婆ちゃんは驚いて、父親に「本当にアメリカに行きたいのかい?」と聞いた。
父親は「アメリカで勉強したい、どうなるか、わからないけど頑張る」と言って、頭を下げて両親にお願いをした。
当時の家には、1ドル300円もするアメリカに父親を留学させてあげられる程のお金はなかった。
そんな中、お爺ちゃんは、息子の為に、近所の人に頭を下げて、金を借りて、父親のアメリカに行く資金をなんとか作り、息子をアメリカに送り出した。
「お父さん、お母さん、ありがとう、頑張ってくる」と言って、父親は渡米した。
今とは違い、インターネットはなく、電話もほとんど通じない時代、唯一の連絡手段は手紙を書く事だった。
ただ、お金は掛かるし、日本からアメリカに手紙を送る方法も、お爺ちゃん・お婆ちゃんにはわからなかった為、父親がアメリカでどのような生活を送っているのか、ほとんど知らなかったらしい。
アメリカから、無事に日本に帰国して、英語を流暢に話せるようになったは父親はお爺ちゃん・お婆ちゃんに感謝の言葉を伝え、アメリカでの生活について話した。
想像を絶するほど、言葉の通じない世界での過酷な日々を送り、何度、日本に帰りたいと思ったらしい。
日本に帰国した父親に待っていたのは、就職氷河期だった。
英語も流暢に話せるのに、仕事が無かった。
色々と当たって、入社したのがゴム関連の会社。
その頃に、僕のお母さんと結婚して、子供が生まれ、
兄と僕の二人の子供を養わないといけなくなり、安い給料で本当に大変だったらしい。
ある日、電車のホームで道に迷っている外国人がいて、英語で道案内をしてあげてたら、
とても喜んでくれたらしい。
その外国人は、去り際に「僕はヘットハンティングしているです、またご連絡します」と父親に告げた。
後日、その外国人から電話があり、会社を紹介された。
当時、日本にはなかった輸入レーザーの会社で、アメリカにいる先生にも確認を取ったが、知らないと言われた。
それでも、何かの縁だからと、父親はその会社を受けて、内定をもらい、大安の日に入社する事に決めた。
結果、その輸入レーザーの会社に定年を迎えるまで働いた。
会社と定年後の延長契約を結んだ頃、父親の身体に異変が起きていた……。
段々と手に力が入らなくなってきた。
疲れているからだろうか……。
近くの病院に言っても、検査に行っても、異常は見当たらなかった。
ただ、手に力が入らない。
昔から仲の良かった先生に観てもらったら、大きな病院の神経内科を紹介された。
その時には、すでにリュックを背負うことも厳しくなり、トランクを持って、会社に向かうようになった。
神経内科を受診して、検査結果を聞いた。
「あなたの病気は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)です」と医師が診断名をつけた。
その瞬間、父親は何かを悟ったかのように、作った笑顔でお礼を伝えた。
そこから、壮絶な闘病生活が始まった。
どんどん筋肉が壊れていく病気の為、すぐに自分一人では歩くことも、食べることも、トイレに行くことすら、出来なくなり、ベットに寝たきりになった。
常に母親が看病し続け、精神的にもどんどんと追い込まれていた。
それを見かねて、父親は「早く死にたい、脅かしい」と僕が会いに行く度に、口ずさむようになった。
そのような状況の中、父の日を迎えた。
僕は、嫁と一緒に父親にプレゼントを買った。
「お父さん、外にできる時に、この青い帽子を被ったら似合うよ」と言って、プレゼントを渡した。
その青い帽子を渡した時以来、一度も被る事なく、父親はこの世を去った。
父親がこの世を去った後、母親は魂が抜けたように、元気をなくしていた。
ただ、僕らに会う時だけは、無理して笑顔を作っていた。
「今まで、食生活に気を使って生きてきたけど、もう好きに生きるわ」と開き直った素振りを見せて。
そして、母親から父親に渡した青い帽子を返された。
「この家に置いておいても、もったいないわ、お父さんの変わりにあなたが被りなさい」
と母親は言った。
家に帰って、手元に返ってきた青い帽子を本棚に置いた。
すると、1つの本が目に入ってきた、「菜根譚」(洪自誠 祐木亜子訳 ディスカヴァー)である。
これは、22歳の誕生日の時に、父親がくれた誕生日プレゼントである。
その年、僕も父親と同じように、勉強をする為に、奈良県で一人暮らしをする事に決まっていた。
まさか、父親と一緒に暮らせる最後になるとは、その時の僕は思ってもいなかったが……。
その本の表紙の裏に、
「22才の誕生日おめでとう、我々からの人生で一度しかないプレゼントは、命と名前です、
今後も大切にしてください」
と父親の字で書かれている。
22才の時は、深く考えたりする事は無かった。
父親がこの世をさり、青い帽子とこの本を見る度に、今の僕は父親の姿を思い出す。
1つ約束も守る事からはじめ、多くの人の期待を背負いながら生き、誰かの役に立ちたいと常に願い、家族の為に一生懸命生きた父親はもうこの世にいない。
親孝行をさせて欲しかった……。
その想いを受け継ぐ者として、今を一生懸命に生きていきたい。
努力は必ず報われる。
「教えてくれて、ありがとう、お父さん」
◽︎中野ヤスイチ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
島根県生まれ、東京都在住、会社員、妻と子供の3人暮らし、東京薬科大学卒業、奈良先端科学技術大学院大学卒業、バイオサイエンス修士。父親の転勤の影響もあり、島根県、千葉県、兵庫県、埼玉県、奈良県、佐賀県、大分県、東京都と全国を転々としている。現在は、理想の働き方と生活を実現すべく、コアクティブ・コーチングを実践しながら、ライティングを勉強中。ライティングを始めたきっかけは、天狼院書店の「フルスロットル仕事術」を受講した事
この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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