週刊READING LIFE vol.69

厳しかった父が残した置き土産《週刊READING LIFE Vol.69 「とにかく私を泣かせてくれ」》


記事:武田かおる(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

死因が「出血性ショック死」あるいは「失血死」と聞いて、何を想像するだろうか。
 
誰かに刺された、あるいは事故か? 世間知らずの私は不慮の事故しか連想できなかった。けれど、父はその時総合病院に入院していた。輸血はすぐできたはずだ。
 
その時、父に何が起こったのか。すべてを理解しないと父の死を受け入れることはできないと私は思った。

 

 

 

弟からライン電話が入ったのは、私が住むアメリカの時間で昼の1時だった。その時、日本時間は夜中の2時。普段滅多に連絡などない弟からの電話に嫌な予感しかしなかった。
 
「お父さんが危篤なんや……」
 
弟の声は震えていた。父の入院先の病院から至急来るようにと連絡があり、母と一緒に病院に来ているということだった。
 
「詳しいことはわからない……。また連絡する」
 
弟も状況がつかめていなかった。
ただ、その時、主治医が父に心臓マッサージをを行っているということだった。
 
当時父は73歳で亡くなるにはまだ早い年齢だった。
 
父は亡くなる1週間ほど前に脚の血管のバイパス手術を受けた。手術は成功で、術後、すぐリハビリにも取り組んで順調に回復している、また、父の状況は命に関わるものではないとも母から聞いていた。だからこの父の急変に頭がついていっていなかった。父はまだ亡くなったわけじゃないと僅かな望みにすがりつくような思いで弟からの電話を待った。
 
数分後、弟からの2回目の電話で父の死を確認した。

 

 

 

翌日私は父の葬儀に参列するため、1人アメリカから日本に向かう機内にいた。
 
父のことを思うと、どうしようにも抑えきれない辛さと行き場の無い怒り、寂しさが一緒くたになって涙となった。私は座席前のテーブルに突っ伏してむせび泣いた。周りの人にどう思われようが、泣けてくるのだから仕方がなかった。大人なのだから、感情をコントロールすることぐらいできるはずだと思っていた。だが、突然肉親をなくした私に、そんな綺麗事は通用しなかった。機内がエンジン音でうるさかったことは私にとって少し救いとなった。
 
できることなら、父が生きている間に、ただ一言「ありがとう」と言いたかった。遠方に住んでいるため直接言えないなら電話やスカイプでも良かった。そんなわずかな願いももう叶えることができないのかと思うと、「無念」という言葉しか思い浮かばなかった。
 
命に関わる状態だったなら早めに父に会いに行ったのに、
なぜ父はそんなに急に逝かないといけなかったのか。
 
父は母や子供である私達や孫に言いたいことはなかったのだろうか。
 
死ぬときは苦しかったのだろうか。
 
父も私と同様に無念だったのだろうか……。
 
誰にも答えることのできない問ばかりが頭に渦巻いた。

 

 

 

「お前が親になればわかる」
 
それが父の口癖だった。
 
父は、亭主関白で曲がったことが嫌いな人だった。いつも家族に厳しく、ムスッとした表情で、一度怒り出したら延々と説教が続いた。私は父が家にいる時は、なるべく顔を合わせないように自室にこもった。父は大人になっても、私の言動に小言を言ってきた。結婚後、たまに実家に帰った時でさえも小言を言われるので、それに対して私は反発ばかりしていた。
 
今、親になって、やっと父の言葉を理解できるようになった。
 
親はいくつになっても子供が心配だから小言を言ってしまう。子供に対して無関心だったら、好きなようにさせておけばいい。その方が、親にとっても楽だからだ。子供を叱ったり、小言を言うのもエネルギーが必要だ。敢えてそうやって声をかけていたのは愛情の裏返しだったと親になってから気がついた。
 
父の捨て台詞、「親になればわかる」は、小言を言った後の、不器用な父なりの私へのフォローだったのかもしれない。

 

 

 

通夜も葬儀も滞り無く終わり、私はアメリカに一旦戻ったが、元々その翌週に、父のお見舞いも兼ねて子どもたちと一緒に1ヶ月ほど里帰りする予定だったので、また日本へ向かった。
 
母は父の死後、落ち込んではいたが、少しづつ父の最後の状況を私に話してくれた。それでも空白の部分があった。私はどうしても納得ができなかったので、担当医に直々に説明を依頼した。担当医師からも、不明点は聞いてくださいと言われていたからだ。状況を聞いたところで父が帰ってくるわけではない。ただ、状況を理解できないと、いつまで経っても父の死を受け入れることができないと思った。
 
病院と母の話を時系列にまとめると次のようになった。
 
亡くなる約3時間前の夜11時ごろに、自宅に父から電話が入る。
 
「出血が多いので、寝間着が汚れてきている。明日の朝、着替えを持ってきてほしい」
 
これが母が父と交わした最後の会話となった。その時、死につながる出血はすでに始まっていた。
 
父はその後、少ししてからナースコールを押した。おそらく父も出血の量の異常さに気が付いたのだろう。
 
夜間で看護師の数が手薄のためか、しばらく看護師が来なかった。
 
看護師がコールに気が付き、父を確認しに行った時点で、すでに大量出血している状態で父の意識はなかった。
 
当直の医師が処置にあたった。その医師は担当医ではなかったので、適切な処置ができなかった。
 
看護師が担当医に連絡し、担当医が病院に当着したときにはもう手遅れの状態で、心肺蘇生法が行われた。
 
担当医は、もし自分が当直であれば、破れた血管を指でつまんだとしても出血を止めたと説明した。
 
起こったことを理解した後に、医療関係に素人の私が感じたことは、父が昼間に出血して看護師の発見も早く、担当医が病院にいたとしたら父は助かっていたのかも知れないということだった。
 
父の状況が命に関わる状態だと聞いていなかったことに関しては、医師は母に「もしものことがあるかもしれない」と説明したと言った。
 
母は、医師の話を聞き逃したのかもしれない。あるいは母自身が、もしもの事と命に関わることを意図的につなげなかったのかも知れない。本当のことはわからないが、医師と母の間でコミュニケーションミスがあったことははっきりした。
 
父に何が起こったのか、徐々にそれが視覚化されて、気持ちが少し救われた。だが、父の死を運が悪かったという一言で片付けたくなかった。何かもやもやした気持ちが残った。

 

 

 

その後、日本にいる間に数名の知人に父の死について話を聞いてもらった。
 
医師ではないが病院に長年勤めていた知人が私にこう言った。
 
「医師は人の命を助けるのが仕事。
 
もし、仮に今回お父さんの命が助かっていたとしても、
その後、植物人間になったり、体や脳に障害がでるなどの後遺症が残ったかもしれない。お父さんが元の元気な状態に戻れたかどうかはわからない。
 
その場合、残された家族は、いつまで続くかわからない介護に追われる生活が始まる。
 
お父さんの死に方が良かったとは言わないけれど、
命が助かったとしても、元気なお父さんに戻れたという保証は無い。
 
そうなったら大変なのはあなたのお母さんになる」
 
父が入院してから亡くなるまでの数週間、母が毎日父のところへ看病に行っていた。車を運転しない母は公共機関を乗り継いで、自宅から一時間ほどの病院へ毎日通っていた。
 
母の話によると、入院中少しでも母が予定より遅れて病院に当着すると、父の機嫌が悪くなり、母にあたっていたそうだ。医師からは難しい治療法の説明や手術の説明が続き、母は身体的な疲労だけではなく、精神的にも疲れていただろう。私も母が家にいる頃を狙って毎日電話をかけて、父の様子を確認していたからそれにも母は対応しなければならなかった。私が電話をかけたとき、いつも母は疲れ切った声音だった。
 
父が入院中、大変だったのは父だけではなかった。母も老体に鞭をうちながら、休みなくいつ終わるかわからない父の看病をしていたのだ。
 
最後まで父は母に優しくできなかった。けれど、知人の話を聞いて、こんな風に突然あの世に行ってしまったことで、母を介護から一気に解放した。それは母に対する最後の優しさだったのではないかと思えた。

 

 

 

医師と話し、知人の話を聞いて、私は少しづつ父の死を受け入れる事ができるようになっていった。
 
ただ、母の落ち込みようはひどかった。
 
生前の父はいつも母に命令口調で偉そうだった。
 
私が子供の頃、母が熱でうなされて寝ているときでも
「俺の晩飯は?」
とぶっきらぼうに母に聞いていたことを今でも覚えている。
 
こんな父の母に対する傲慢さは、今思えば寝込んでいる母にさえも頼らないと生きていけないという自分の弱さ隠すための鎧だったように思えた。
 
先にも書いたが、父は入院中も、当初伝えていた時間よりも遅れてきた母に対して怒っていたそうだ。長引く治療と大掛かりな手術で父も不安でストレスだったのだと思う。だから、気を許せる母に少しでも早く来てもらって一緒にいてほしいかったに違いない。その話を母から聞いて、素直に気持ちを伝えられず、逆の行動を取っていた父は反抗期の子供のように思えた。
 
それでも、母の落ち込みが長引く様子を見て、母は父を慕っていて、父は母を必要としていた。そして、父と母の間には、私にはわからない夫婦の絆があり、夫婦間の愛情表現や優しさは人それぞれ違うのだと気づかされた。

 

 

 

父が亡くなった後、落ち込んで一人暮らしになる母が心配だった。普段は、2年か1年に1度しか日本に里帰りすることはできなかったが、父が亡くなってから半年後に母の様子を見に行くために、日本に1週間単身で帰国することにした。
 
その時に、ずっと受けたかった日本でのヨーガの指導者資格の研修も受けることにした。この資格試験では、まず1月に2泊3日研修があり、半年後に2泊3日の実技試験がある。実技試験を合格すると、論文の筆記試験に進む。1年に2回もアメリカから日本に帰省することは不可能だったので、今まで諦めていた資格だった。だが、今回父が亡くなったことで、母の様子を見に行くという目的と共に2泊3日の研修を受ける事ができ、結果、1年をかけて、そのヨーガ指導者の資格を取ることができたのだった。
 
このように父は、私が諦めていた資格を取れるようにきっかけを与えてくれて、私の背中を押してくれたような気がした。

 

 

 

父はぶっきらぼうで家族に厳しかったけれど、この世を去ると同時に私達にいくつかの優しさに満ちた置き土産をくれた。
 
まず、母を介護から解放した。そして、弟と私への愛情、母への愛情は、一般的な優しさや愛情とは形が違ったけれど、亡くなってから十分感じることができた。また、私がやりたかったヨーガの資格を取得するきっかけを作ってくれた。父が他界する前に、感謝の気持ちを伝えることはできなかったけれど、父からの気持ちは十分に受け取ったような気がする。
 
父が亡くなってから、不思議と以前よりも父との距離が縮まったような気がしている。
 
ふと、鏡に映る自分を見たときにそこに父の面影を見つけたり、自分の写真を見て、父に似ているなと思うことがある。
 
我が子にも心配だからこそ、ついつい厳しく接して、小言を言ってしまうとき、私の中に父の血が流れていることを実感し、同時に当時の父の気持ちを痛いほど感じる。
 
子どもたちが小言に対して私へ反発すると、私は最後に、言い過ぎたかなと反省の意味も込めて、
 
「あんたたちも、親になったらわかる」
 
と、父と同じ捨て台詞で、フォローしているときがある。
 
そんなとき、父が私に乗り移っているのではと鳥肌が立つ。
 
父は他界してしまったけれど、こんなふうに時折顔を出してきて、私の中で生き続けているように思う。

 
 
 
 

◽︎武田かおる(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
アメリカ在住。
日本を離れてから、母国語である日本語の表現の美しさや面白さを再認識する。その母国語をキープするために2019年8月から天狼院書店のライティング・ゼミに参加。同年12月より引き続きライターズ倶楽部にて書くことを学んでいる。
『ただ生きるという愛情表現』、『夢を語り続ける時、その先にあるもの』、2作品で天狼院メディアグランプリ1位を獲得する。

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2020-02-17 | Posted in 週刊READING LIFE vol.69

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