かっこわるい大人のかっこいい言い訳《週刊READING LIFE Vol.80「かっこいい」大人論》
記事:黒崎良英(READING LIFE編集部公認ライター)
何かを得るためにはリスクを伴うのが常である。そして「かっこわるい大人」になることも、そのリスクの一つである。
兼行法師の『徒然草』に、このような記述がある。
「或人の云はく、年五十になるまで上手に至らざらん芸をば捨つべきなり。励み習ふべき行末もなし。老人の事をば、人もえ笑はず。衆に交りたるも、あいなく、見ぐるし。大方、万のしわざは止めて、暇あるこそ、めやすく、あらまほしけれ。世俗の事に携はりて生涯を暮すは、下愚の人なり。ゆかしく覚えん事は、学び訊くとも、その趣を知りなば、おぼつかなからずして止むべし。もとより、望むことなくして止まんは、第一の事なり」(151段)
50歳(現在の70〜80歳くらいのイメージ)になるまでに上手にならない芸や技術というものは、諦めて捨てるべきである。高齢なので、習い励んでも先が無いのだから。老人なので、周りは気を遣って笑うこともない。しかし大衆に交じってやっている姿は、痛々しくて見苦しい。大体、老人になったら全てのことをやめて、ゆったりまったりして過ごすことが理想的である。世俗のことに関わって生涯を送るのは愚か者だ。例え、知りたい、学びたいことがあっても、概要を知って、何となくわかった程度でやめておくべきである。(老人は)本当なら初めから、何も望まないことが一番なのだ。
まあ、現代では中々受け入れられないような主張であろう。「生涯学習」なんて言葉もあるし、現代のトレンドは「死ぬまで勉強」である。
だがそれらとは別に、我々は、縁側でのほほんとお茶をすすっている老人こそが、その年齢に相応しい姿と思ってはいないだろうか。イメージ的に、そう、あくまでイメージとして、その姿が理想的だという、脈々と受け継がれてきたような、そんな認識がある。
老いてなお様々なことにチャレンジする人を、我々は讃える一方で、のんびりまったり余生を過ごしている姿こそ、俗世の何者にも囚われぬ姿こそ、我々がその年齢の、高齢者の理想像としている姿ではないだろうか。
いつまで経っても衰えぬチャレンジ精神を讃えながらも、その扱いに困惑してしまうというのが、程度の差こそあれ、現実なのではないだろうか。
もちろん、全てにおいてその限りではない。私個人の勝手な思い込みかもしれぬ。しかしどうやら、その年齢にはふさわしい理想像、すなわち「かっこいい大人像」というものがあるらしい。
例えば、私も当てはまる30代〜40代の男性の、「かっこいい大人像」とはどういったものであろうか。
社会に出て最前線で働き、家庭には愛する伴侶と子どもがいる。その家庭を守るために頑張って働く。あくまで「かっこいい」像なので、仕事に対しての苦楽はさしたる問題ではない。仕事に打ち込むその姿こそが「かっこいい」のだ。
社会や家庭といった、自分が関わる他者のために頑張っている、その姿こそが「かっこいい」と思う。
要約すると、「誰か他者のために社会の中で頑張っている姿」といったものが、この年齢層の理想像であると考えられる。「誰か」が「家族」だと尚更かっこいい。
さて、それを踏まえた上で、翻って自分の身を考えてみると、もちろんこれに当てはまらない。そもそも独り身だし。いや、そこを差し引いても、私は「他者のため」に働いているわけではない。結果としてそうなったとしても、結局は「自分のため」に働いている。
この「自分のため」というのが、どうも世の中では美化されがちである。
すなわち、「自分の夢を掴むため」のような解釈がされるのである。何と美しい言葉であることか。
「自分の夢を追う」というのは、「現実を見ずに夢を諦められない」状態と表裏一体である。言い方やあり方の問題だ。
「夢を追う」。
大いに素晴らしい。
「いつまでもチャレンジし続ける」。
大いに結構。
しかし、それには夢が叶って、あるいはチャレンジし続けて、然るべき年齢というものがある。
なるほど、40代でも夢を追い続け、挑戦している人は、かっこいいと思う。しかし40代になっても芽が出ないのなら、果たしてそれはどうなのだろうか?
さらに言うなら、夢を追い続ける人をかっこいいと言うのは、他人事だからではないだろうか。考えてみて欲しい。あなたの家族が、「やっぱり夢を諦められない!」と言って、家族を顧みず何かに没頭していったら。
他人の「挑戦し続ける心」「夢を諦めない意思」には寛容であっても、身内のこととなると危機感を持つことであろう。
端的に言えば、「いい歳をしてみっともない」という話だ。
そして、それが私に当てはまる状態である。
不惑も近いが迷ってばかりいる最中である。
恥の多い生涯を送っている真っ只中である。
私には文を以って食っていきたいという夢があるのだ。
いや、良いではないか、とおっしゃってくださるあなた。先ほど言ったように、これが身内だと思っていただきたい。
途端に「え……」となるのではないだろうか。
口に出してこそ言わないが、何とかして欲しいと思うのではないだろうか。
そんなことは諦めて、しっかり仕事に専念して、家庭を作り地に足をついた生活を云々。
おそらくそのように思ってしまうのではないだろうか。
私は思ってしまう。我が事ながら思ってしまう。
かっこいい大人とはかけ離れた、かっこわるい大人であると認識する。
いつまで経ってもダラダラと、甘ったれた生活に慣れきってしまい、恵まれた環境に全力で寄りかかっている。
精神の一つも病んでいればまだか格好がつくかもしれないが、心は驚くほど頑丈である。心の病を抱えたことは一度たりともなかった。体は弱っちいのに。
「かっこいい大人」というものは、様々な解釈もされるし、ある意味概念上の存在である。はっきりこれとは断言できない。
にもかかわらず、私たちはこの「かっこいい大人像」を知っている。逆にある「かっこわるい大人像」も知っている。
当然私も知っている。それが正解か不正解かは問題ではない。その人がそう思っているならば、それがかっこいいorかっこわるい大人像である。
それに照らして言えば、「夢を追いかけ挑戦し続ける」のは、“私の年齢では”かっこわるい大人である。間違いない。
「いい歳なんだから」という言葉があるし、それぞれの年齢に而立(30歳)や不惑(40歳)という名前が付いているのは、先達が戒めとして残している言葉でもあると思う。孔子も余計なことを言ったものだ。
夢を叶えるには年齢制限がある。高齢になってそれが叶ったとして、それは結果論でしかない。いつまでも情けなく足掻き続けるのは、かっこわるい大人である。
その上で、大きな声で言おう。
それがどうした!
確かに私はかっこわるい大人である。大いにかっこわるい。恥の上塗りである。対して上達もしないことを、これから延々と、みっともなく続けていくであろう。最終的に叶うか叶わないかは問題ではない。
かっこわるい大人、それは「負って然るべきリスク」である。
大人という歳で何かを叶えよう、挑戦しようというのなら、常につきまとうリスクである。
ならばそのリスクは払おう。喜んで払おう。
万が一にも夢が叶うのならば、安すぎるリスクである。(あんまり)人に迷惑をかけてはいない、はずだし……
私はリスクを払った。いや、払い続けている。現在進行形でとても恥ずかしい生き様を晒しているかっこわるい大人である。
なら、やるしかないではないか。リスクは払ったのだから。もう、進むしかないではないか。
まだ道は半ばにすら至っていないようだし、いつまでかかるか分からない。
それでも“仕方がない”のだ。
でも進み続けていいだろう。だって代価は払っているのだから。
『徒然草』を書いた兼行法師は、もしかしたら、そんなかっこわるい老人を実際に見たのかもしれない。
現代でも、引退したはずなのにまだ前線に出ようとしている人や、口を挟んでくる人というのは往々にして存在するものである。
だが、その人たちにも、まだ追い求めて止まない何かがあるのかもしれない。そして自分がかっこわるいと分かっているのかもしれない。
それをリスクとして、なお何かを続けたいのである。
縁側でお茶飲んでぼーっとするのは、一つの生き方であって理想ではないのだ。
「かっこわるい大人になる」というリスクを払ったものだけが、手に入れられるものがある。
「開き直り」も、こう言った方がかっこいいから、そう思うようにしよう。
□ライターズプロフィール
黒崎良英(READING LIFE編集部公認ライター)
山梨県在住。大学にて国文学を専攻する傍ら、情報科の教員免許を取得。現在は故郷山梨の高校に勤務している。また、大学在学中、夏目漱石の孫である夏目房之介教授の、現代マンガ学講義を受け、オタクコンテンツの教育的利用を考えるようになる。ただし未だに効果的な授業になった試しが無い。デジタルとアナログの融合を図るデジタル好きなアナログ人間。趣味は広く浅くで多岐にわたる。
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