週刊READING LIFE vol.80

かっこいいあの人に届けたいかっこ悪いメール《週刊READING LIFE Vol.80 2020年の「かっこいい大人」論》


記事:井村ゆうこ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
大人になんてなりたくない。
大学3年生になり就職活動が本格化していく中、私はそんな風に感じていた。今から20年以上前の話だ。バブル経済の崩壊から続く、長い景気後退期の真っただ中、私たち学生は氷河期と呼ばれる就職戦線に立たされていた。OB訪問先の先輩の顔にも、企業の採用担当者の顔にもにじむのは厳しさと疲れ。なんとしても内定をもらい、社会人にならなければと焦る反面、学生という心地よい水の中から抜け出したくないと願ってしまう自分もいた。大学に合格して上京するとき、親戚の伯父に言われた言葉が思い出された。
人生で遊んでいられるのは学生のうちだけだ、大いに楽しめ。社会にでたら、自分のやりたいようにはできなくなるのだから。
 
リクルートスーツに身を包んで、読みなれない日経新聞をかばんに入れながら、私は思わずにはいられなかった。社会に出て働き、一人前の大人になりたい、ならなくてはならない。だけどもし、大人になるということが、つまらない人生のスタートと同義なら、大人になんてなりたくない。諦めとか妥協とかを着て歩く、そんなかっこ悪い大人になるくらいなら、大人になんてなりたくない。
私はそのときまだ、大人の定義も、かっこいい大人の意味も、何にもわかっていない、未熟な子どもだった。

 

 

 

私がはじめて、かっこいい大人に出会ったのは、入社2年目のことだ。人事異動後、新しく配属されてきた課長は一見、どこにでもいそうな印象の中堅社員だった。中年太り気味の体とおしゃれとは程遠いスーツの着こなしが、かっこいい上司像からはかけ離れていた。ところが、外見とは裏腹に、この課長が実にかっこいい男だったのだ。常に数字という結果を求められる営業部門の長にありながら、私たち課員を追いつめるような言動は一切なかった。課長からの指示やアドバイスから、プレッシャーを感じたことはなく、やる気だけがみなぎった。優秀な営業マンとしても、頼りがいのある管理職としても社内で知られる存在だったにもかかわらず、驕ったところはなく、よく冗談を口にしていた。いつも誰よりもよくしゃべり、誰よりもよく笑い、誰よりも楽しそうだった。決して楽なことばかりではないはずのサラリーマン人生を、こころから楽しんでいる課長の姿が、私にはたまらなくかっこよく見えた。大人になっても、つまらない人生なんて送るつもりはみじんもない、といった様子が、実にかっこよく見えた。
 
課長はさまざまな言葉で、仕事や人間としての成長としあわせについて教えてくれた。「課長語録」として先輩がまとめてくれた紙を、私はまだ捨てずに持っている。その中からいくつか紹介したい。
 
・自分の人生の主役は自分である
・人間にとっていちばん大切なのは可愛げであり、律儀・誠実はその次
・大切なのは、IQより愛嬌
・人生に必要なのは、希望と勇気とsome money
・勇気とは良いと思うことをすぐやること、悪いことはすぐやめること
・人生にとっていちばんだめなことは、ケチで臆病なこと
・本当の幸福とは、自分のこころが感じている平安な状態
 
有名な学者でも、カリスマ的経営者でもない、ひとりのサラリーマンの言葉は、スルメみたいだ。噛めば噛むほど、のみ込めばのみ込むほど、自分をつくる一部になる。課長はよく、軽快なテンポで、韻を踏んだ単語の羅列を歌うように口にしていた。人生で大切なのは「栄養・休養・教養」「共感・好感・親近感」「ミッション・テンション・モチベーション」「妬むな・嫉むな・羨むな」
声に出してなぞってみると、こちらの反応を楽しむ、いたずらっこみたいな課長の笑顔がまぶたの裏に浮かぶ。自分の人生をこころから楽しむ、かっこいい大人の姿が、間違いなくそこにはあった。

 

 

 

「あれ? 課長って、今日休みだっけ?」
前の席に座る同僚が、後ろを振り返って問いかけてきたとき、時計の針は8時半を指していた。
「どうだろう。休暇って話しは聞いてないけど」
毎朝7時半には出社してくる課長が、8時半になっても姿を現さないのは、はじめてのことだった。課長以下、課員全員の予定が書かれたホワイボードに目をやる。課長のネームプレートの横に「休暇」も「出張」の文字を見えなかった。
「まさか寝坊したとか?」
多くの管理職と同様、家族とは離れて暮らす単身赴任中の課長が、寝坊で遅刻したことはない。
「それはないでしょ」
返事をする私の声をかき消すように、会議室に集まるように、という課長補佐の声が部屋に響いた。
全員立ち上がって、同じフロアにある会議室へと移動した。
 
「これからする話しは、この会議室を出たら、それぞれの胸に収めて他言しないこと。そして、速やかに業務にとりかかるように」
いつもは課長と漫才コンビのような掛け合いを演じて、場の空気を和ませる役を買っていた課長補佐の顔が、いつになく硬かった。
「昨日の夜、課長のご子息が亡くなった。みんなには本当のことを伝えるよう、課長から言われているので話すが、自宅のマンションから飛び降りて亡くなられた。課長は昨晩タクシーで自宅のある大阪に帰った。しばらくは休むことになる」
息をのむ私たちに向かって、課長のためにも動揺せず、いつもどおり業務に励むようにと繰り返し、課長補佐は話を終えた。
 
私は席に戻り、顔をパソコンに向けた。目線を右に動かすと、向かい合わせに置かれた課長のデスクが目に入る。脳が、見るなと命令するのに、目が課長の姿を探してしまう。いつもの笑顔を探してしまう。大学を卒業した長男が入社式を終えたと、うれしそうに話していたのは、つい一週間前のことだったのに。どうして、どうして、どうして。赴任先の長野から大阪へ戻る深夜のタクシーの中、きっと課長も繰り返したに違いない言葉が頭を離れなかった。
 
二週間後に出社してきた課長の顔は、同じ人間とは思えないほど変わっていた。いつもまっすぐにこちらを見つめてきた目は、どこか遠くを眺めているかのように、ぼんやりと開かれていた。いつも滑らかに動いていた口は、電波の悪いラジオみたいに、途切れ途切れに音を発した。
「課長、今度の異動で大阪へ転勤するかもしれないって」
そんな噂がささやかれるようになるまで、時間はかからなかった。課長には、亡くなった長男の他に、子どもがふたりいた。奥さんと子どもがいる大阪へ異動させる。会社が示した温情だった。
 
課長が長野を離れる前、一度だけ、課長とふたりきりになる機会があった。課の中で、私がいちばん自身の子どもと年齢が近かったからだろうか、課長は以前から私のことを気にかけてくれていた。そのときも、仕事について的確なアドバイスをしてくれた。
「一度、お前のお母さんと話しがしたかったな」
課長がポツンとつぶやいた。目は窓に向けられていた。窓からは遠くに山が見えた。
私には、なぜ課長が母と話しをしたいと言ったのか、その理由がわかった。子どもを亡くした同じ親として母と話したかった。課長はそう思っていたに違いない。私の姉は3年前にがんで死んでいた。
 
課長の名を、会議室でふたたび耳にしたのは、課長が大阪に転勤してから数カ月後のことだ。いつもと同じ慌ただしい朝、いつもと同じ顔ぶれが、課長代理の号令によって会議室に集められた。
「これから話すことは、この会議室を出たら、それぞれの胸に収めて他言しないように。それから、いつものように、業務に取りかかって欲しい」
デジャブかと思うほど、いつかと同じようなセリフを、課長代理が口にする。元ラガーマンの大きな体から出る声が、どことなく震えていた。私は喉の奥から、苦い何かがせり上がってくるのを感じた。
「大阪に戻られた○○課長が、昨日亡くなった。ご子息と同じ亡くなり方だ」
声を絞り出した課長代理が大きく息を吐いた。つかの間、天を仰ぎ、顔を元に戻す。
「ご家族の意向で、通夜と告別式への参列は遠慮してもらいたいとのことだ。みんな、それぞれ心の中で課長とお別れをして欲しい」
新しく課長の席に座っていた上司の掛け声で、朝の短い会議は終わった。
 
会議室を出て、自分のデスクには戻らず、トイレへ急ぐ先輩たちの姿が目に入った。営業かばんを手にうつむき、急ぎ足で部屋をでていく同僚たちを見送った。私は自分の席へ戻った。パソコンの画面に映る数字を眺めた。何の意味も読み取れない数字の羅列を無視し、社内メールを開いた。新規メール作成ボタンを押す。送信先ボックスに課長のアドレスを入れたところで手が止まった。
課長に聞きたいことが、教えて欲しいことが、ぶつけたい気持ちが、あるはずなのに。そのときの私には、どんなことばを選べばいいのか、わからなかった。どんな気持ちを課長に届けたいのか、自分でもまったくわからなかった。
 
私にとって、課長ははじめて会った、かっこいい大人だ。自分の人生をおもいきり楽しんでいる課長に出会えたからこそ、私は大人になるって悪くないと思えるようになれた。ケチで臆病なこころを捨て、希望と勇気をもって生きていこうと、前を向くことができた。
私にとって、かっこいい大人とは、大人であることを自らが思いきり楽しみ、大人であることのよろこびを、周りに伝えてくれる人間のことだ。子どもや若者に「大人っておもしろいから、怖がらずにこっちへおいで」と、背中をそっと押してくれる大人のことだ。
 
社会人として巣立ったばかりの息子に先立たれた課長の苦しみが、親となった今なら、少しはわかる。
精一杯大人として生きている自分の後ろ姿を、いちばん近くで見ていたはずの子どもが、自らの意思で大人になることをあきらめた。その事実が、どれほど課長にとって衝撃だったか、親となった今なら、少しは想像することができる。
 
だからこそ、私は言わずにはいられない。
どうして、どうして、どうして。
 
それでも、私は課長に伝えたい。
大人であり続けることが、たとえ、苦しみや悲しみの連続だとしても、
あなたのようなかっこいい大人に、私はなりたい。
あなたが教えてくれた、かっこいい大人になって、私はもう一度あなたに会いたい。
 
あのとき送れなかったメールを、2020年の今、あなたに届けたい。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
井村ゆう子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

転勤族の夫と共に、全国を渡り歩くこと、13年目。現在2回目の大阪生活満喫中。
育児と両立できる仕事を模索する中で、天狼院書店のライティングゼミを受講。
「書くこと」で人生を変えたいと、ライターズ俱楽部に挑戦中。
天狼院メディアグランプリ30th season総合優勝。
趣味は、未練たっぷりの短歌を詠むことと、甘さたっぷりのお菓子を作ること。

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2020-05-18 | Posted in 週刊READING LIFE vol.80

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