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週刊READING LIFE vol,100

3歳児が満足するまで、永遠にかかるような気がしていた《週刊READING LIFE vol,100 「1分」の使い方》


記事:吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
それは、近所のファミレスで昼食をとった帰りのことだった。
 
「ん、ん、ん!」
 
一人称が「ゆーたん」から「ぼく」に変わって幼児の雰囲気を醸してきた三歳の息子が、ファミレスの駐車場で夫の手を必死に引っ張った。夫は車に行くよ、と息子を引き戻すが、息子は更に頑なにどこかに行こうと半ばぶら下がるように夫を引っ張る。後ろから二人を追いかける形の私には、息子が三十センチもない塀を目指しているのだと見て取れた。ファミレスの壁に掲げられたファミレス名の看板を、遠くからよく見えるように空間を確保するためのコンクリート塀。よくあるブロックを積み上げて塗り固めただけの低い塀は、三歳くらいの子供からみれば、その上を平均台よろしく歩くのにちょうどよさそうに見えるだろう。このファミレスはわが家から徒歩圏内にあるので、もっとよちよち歩きの頃に散歩に来て、褒められたことではないが「にんじゃごっこ」をしたこともあった。きっと息子はそれを覚えていて、今日もやりたいと思ったのだろう。
 
「ゆーたん、車いくよ!」
 
夫は苛立ったような、いや焦ったような声音で息子を引っ張ったが、腕力のついた息子も一筋縄では引き戻されない。夫を「にんじゃごっこ」の舞台に引っ張っていけないと知るや、今度は両手を振り回して拘束を解こうと試みる。夫の隙をついて息子の小さな掌が解放されたが、彼が塀に辿り着くよりも早く、夫が掬い上げるように息子を抱き上げた。
 
「帰るよ!」
「…………!!!!!!」
 
みるみる真っ赤になる息子の顔、次いで解き放たれた絶叫。抱える側の都合など一切考えずに、手足を最大限ばたつかせ、体をよじって降りよう降りようと暴れまくる。この状態の子供を「とれたてのマグロ」と表現するらしいが、傍目にもよくできた比喩だなと感心してしまう。夫は腕力にまかせて息子を抱えて車まで辿り着き、なんとかチャイルドシートに乗せることに成功した。泣きわめき続ける息子に、夫は努めて冷静に声をかけていく。
 
「駐車場で遊んじゃいけないの!」
 
……かつてにんじゃごっこをさせてしまった身としては耳が痛い。
 
「今日はご用事あるから、パパたち急いでるの!」
 
そう、今日はこの後に用事があって、その時間が迫っている。それは私も重々承知していたので、夫の腕力による解決に任せてしまった。きっとあそこで「にんじゃごっこ」をしたら、かつてのように何往復もしてずいぶん時間を費やしてしまうに違いない。大人の都合で息子には悪いが、約束事に遅れるわけにはいかなかった。
 
「うわあーーー!!! わあーーーーん!!!!!」
 
息子はもちろんのこと聞く耳持たず、泣くことに全力を尽くしている。こうなってはもう仕方ない、幸いチャイルドシートのシートベルトまではなんとかできているし、泣き止むまでなだめていたら、その後の用事に間に合わなくなってしまう。かくなる上は、この絶叫をBGMに目的地までドライブするしかない……。夫も私も、どちらがそう言ったわけではないが、互いに目配せをして着席、目的地へと走り始めた。
 
この時の決断を、私たちは後悔することになる。
 
私たちに足りなかったのは、たった1分の余裕だったのだから。

 

 

 

道すがらドライブするにつれて息子は泣き止んで落ち着いてきた。窓から外の景色を眺めているうちに、泣きつかれたのもあってかウトウトしだし、やがて眠ってしまった。
 
「ゆーたん、眠かったんだねえ」
「そうかあ」
 
後部座席から運転席に話しかけると、夫もどこか安堵したような答えを返す。
 
「眠かったから機嫌悪かったんだねえ」
 
お地蔵さんのような寝顔に、まだかすかに涙の後が残っている。午前中もたくさん遊び、久々のファミレスにも大喜びだったので、きっと疲れたのだろう。親の都合としては、休日のこの時間に昼寝をしてくれると一息つける、なんて目論見もある。このまま用事を済ませ、家に着いてそっと布団に寝かせれば、一、二時間くらいは私も夫ものんびりできるかもしれないな。涙の後を指先で拭い、そんな自分本位なことを考えているうちに、車はあっという間に自宅まで戻ってきた。いつもの駐車場に、夫が難なく駐車、エンジンを切る。車と一緒にため息をついたような感覚の後、夫と私は顔を見合わせた。
 
絶対に、お昼寝を成功させたい。
 
「……私が抱っこするね」
 
息子は眠い時などは「ママがいい」とぐずることが多々ある。眠い時にぐずって、眠気が飛んで行ってしまうこともよくある。さきほど泣き疲れて寝入ってから十分ほどだろうか。まだまだ眠りが深いとは言えない、ぐずりからの覚醒の可能性は十分にあった。ならば、余計なぐずり要素を与えず、ママが速攻で布団に連れていくのが最適解というものだ。夫もそれを察したのだろう、私の宣言に無言で頷き返してきた。
 
チャイルドシート側から車の扉を開け、そっとベルトのロックを外す。
 
がちゃ。
「……むぅ」
 
目を閉じたまま息子は身じろぎをした。ロックを外すのはどんなに気を付けても音がしてしまうのは仕方がない。ここでもたもたするより、ママがいると認識させた方が得策だ。私は息子をがっしと抱き上げ、背中をとんとんしながら足早に自宅、寝室を目指す。
 
「……うああ」
 
まずい、泣き出した!
 
「ゆーたん眠いね、ねんねしようね、ママいるからね」
「わあー」
 
眠いところを起こされたら誰だって不機嫌になる。できるだけ優しい声で話しかけ、背中をさすり、頭をなで、小さなスニーカーをポンポンと脱がせて寝室を目指す。息子の頬をまた涙が伝う。大丈夫、眠いから泣いてるだけだ。早く寝かせてあげよう。
 
「ぼく、ゆめやん、いくのぉ」
「えっ、夢庵?」
 
思いがけない言葉に思わず聞き返すと、「……うん」と小さな返事が返ってきた。さきほど、駐車場で大泣きしたファミレスにもう一度行きたいという。寝室に向かう階段を上らずに腰かけ、ぎゅっと目をつぶって泣き続けている息子の顔を覗き込むと、息子はもう一度はっきりと言葉を発した。
 
「……ゆめやん、いくの」
「夢庵行きたいの?」
「ゆめやん……」
 
ゆめやんいくの、ゆめやん。眠さではなく、ファミレスに行くのだと訴えている息子。
 
「…………」
 
うろたえて彼の背中をさするしかできない私の脳裏に、昔読んだ育児メルマガの記事が思い出された。輝きベビーアカデミーの創立者、伊藤美佳氏による育児情報メルマガだ。
 
『保育園の帰り、子供がいつも公園に寄りたいと泣くんです。もう夜も遅く真っ暗なので、いつもはダメだよ! ときつく言って引っ張るように連れ帰っていましたが、体力的にも精神的にも負担に感じる日々でした』
 
確か息子が新生児の頃に読んだ記事で、メルマガ読者から寄せられたメッセージの紹介だったはずだ。
 
『でもある日、もう思い切って公園に寄ってみたんです。そしたら子供は私の手を引いて、真っ暗な公園を、ぐるぐる三回歩いて回りました』
 
『そうしたら、子供が自分から、もういいよ、といってあっさり帰ってくれたんです。時間にしたらほんの数分のことでした。たったこれだけのことで、この子が満足してくれるだなんて、思いもよりませんでした』
 
そこから、伊藤美佳氏の持論の一つ、「子供が満足するまで遊ばせてあげましょう」の解説文が続いていたような気がする。持論の方は流し読みしてしまったが、新米ママの私にこのエピソードは鮮烈で、今の今まで頭の隅に残り続けていた。
 
あの頃は、保育園になると言葉でわがままを言うんだな、大変だな、くらいにしか思っていなかったけれど。
 
「……ゆめやん」
 
この子はおそらく、あの塀で「にんじゃごっこ」をしたかった。以前やった時は、散歩そのものが目的ということもあり、それこそ数十分はずっと塀の上を行ったり来たりしていた。「にんじゃごっこ」をずっとやる。その印象が強いからこそ、夫が息子を無理にでも連れていくのを咎めはしなかった、用事に遅れてはいけないという焦りが私にもあった。
 
幸いもう用事は済んだ。私の体調もすこぶる良い、まだまだ動ける。
 
「……ゆーたん、じゃあ、ママとお散歩でもう一回夢庵いく?」
「……うん」
 
息子は小さく頷くと、私の首にしがみついてきた。荷物を下ろしていた夫に事情を話し、今度は自転車に息子を乗せて、さきほど立ち去ったばかりのファミレスに舞い戻る。その間息子はずっと仏頂面で何も喋らず、自転車の行く先をただじっと睨むように見つめていた。
 
「夢庵、来たよ」
「ゆめやん」
 
駐輪場に自転車を止めて、息子を下ろす。息子は仏頂面のまま私と手を繋ぐと、あの塀を目指してずんずんと歩き始めた。駐輪場は塀のすぐ傍なのでほんの数歩で塀の端まで辿り着き、息子は私に更に手を差し出してくる、登るから手伝えという意図なのだろう。両手を握り、塀の上に立つのを助けてやると、ふん、と息子はどこか満足げに鼻を鳴らした。
 
僅かにコの字のような形の塀の全長、三メートルほどだろうか。
 
「…………」
 
息子は泣き腫らした目で自分の足が歩く先を見つめ、塀の端から端まで、しっかりと「にんじゃごっこ」をした。終点に辿り着き、反対向きになって往復するかなと私が思ったとき、息子はぴょんと塀から飛び降りた。
 
「もういい」
「えっ、もういいの?」
 
ファミレスに戻って、1分も経っただろうか。
 
「おうちかえる」
 
経っていない気がする。
呆然とする私を、今度は自転車の方に向かって引っ張る息子。
 
「え、あれ、ゆーたん、いいの? ほかにお散歩する?」
「おうちかえるの!」
 
今度は私が怒られてしまった! 息子が言うがままにヘルメットをつけさせ、子供座席に乗せて、家へとまた帰る。予想以上に速い帰宅に夫も驚く。その後、息子は泣いていたのが嘘のように穏やかになり、昼寝こそしなかったが、庭や自室で楽しく遊んでいた。
 
息子がやりたかった「にんじゃごっこ」は、たった1分のことだった。
 
もしも最初にファミレスを出た時に「にんじゃごっこ」をさせていたら、息子はあんなに泣くことはなかっただろう。私と息子がもう一度ファミレスに戻ることもなかっただろう。三歳になった息子は、大人が思う以上に言葉を理解しているし、場の空気も読む。大人たちが何かに急いでいるのも察していたことだろう。だけど、前に遊んだことのあるここで、ほんの少しだけ楽しいことをしたい。少しでいいんだ、お願いだよ。
 
あの時、そんな思いで、夫の腕を引っ張っていたのではなかろうか。
 
用事があるといっても、まだ遅れるような時間ではなかった。ほんの1分だと分かっていれば、息子の戯れに付き合うくらいの余裕はあった。
 
なかったのは、私と夫の余裕だ。
 
少しならいいかなと思える余裕。息子はもう三歳で、状況を説明すれば分かる、我を通して延々と遊び続けるわけではないと理解するだけの余裕。その余裕のなさが、あんなにも息子を泣かせてしまっていたのだ。
 
たった、たった1分、待ってあげられていたら。
彼はどんなにかハッピーな気持ちになっていただろう。
 
「……ゆーたん」
 
次からは、1分待てるだけの余裕を持とう。
寝かしつけた後の寝顔を見ていたたまれなくなり、私は息子を抱きしめたのだった。

 

 

 

次に試される時は意外とすぐにやってきた。ある朝保育園の登園準備をして、さあ出発だと玄関に向かい始めた時、息子が「ママとあそぶ!」と自室で地団駄を踏んだのだ。
 
「…………」
 
私と夫は顔を見合わせる。
私は次いで、壁の時計を見上げる。登園で家を出る時間まで、あとわずか数分。余計なことをしていたら遅刻になってしまう。
 
1分。
たった1分だ。
 
「……ゆーたん、これから保育園に行くから、1分だけ遊ぼうか。あの長くて細い針が、ぐるっと一周するだけね」
「……うん」
「よーし!」
 
顔を輝かせた息子。スーパー戦隊のおもちゃをさっと息子に渡す私。荷物を自転車に積み始める夫。悪者役がぬいぐるみをいじめる、10秒。キラメイチェンジと決めポーズ、20秒。パンチとキックをお見舞いして悪者がやられる、40秒。助かったよ、ありがとう、協力してやっつけたぞ、決めポーズ……1分!
 
「わあ、ゆーたん、1分経ったよ、行こう!」
「うん、いこう!」
 
満足げな、嬉しそうな、晴れがましい笑顔。
 
息子は元気よく玄関に走り出し、玄関で待っていた夫に飛びついてスニーカーを履かせてもらった。前と同じように無理やり引っ張っていったら、大泣きしてとても自転車には載せられなかっただろう。ぎりぎりの状況だったが、1分だけならと思えたことが、結果として息子にも私たちにも余裕をもたらしてくれたのだ。もちろんどんなケースにも当てはまるというわけではなく、やってみたら1分では済まなかった、という時もあるだろう。でもそれは、試してみるまではどちらに転ぶかは分からない。ならば、試してみた方が、うまくいく可能性はより高くなるということだ。
 
「……たった1分、されど1分」
 
息子のあの笑顔を、自転車を漕ぎながら胸に深く刻んだのだった。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)

1982年生まれ、神奈川県在住。早稲田大学第一文学部卒、会社員を経て早稲田大学商学部商学研究科卒。在宅ワークと育児の傍ら、天狼院READING LIFE編集部ライターズ倶楽部に参加。趣味は歌と占いと庭いじり、ものづくり。得意なことはExcel。苦手なことは片付け。天狼院書店にて小説「株式会社ドッペルゲンガー」、取材小説「明日この時間に、湘南カフェで」を連載。
https://tenro-in.com/category/doppelganger-company
 
https://tenro-in.com/category/shonan-cafe
 

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2020-10-19 | Posted in 週刊READING LIFE vol,100

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