不死鳥の輝き《週刊READING LIFE vol.115「溜飲が下がる」》
2021/02/15/公開
記事:ユウスケ(READING LIFE編集部ライダーズ倶楽部)
※この物語はすべてフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係がありません。
今思えば、その男との出会い方は最悪だった。俺はその日行きつけの居酒屋に入り、カウンターでビールを飲みながら遅めの夕食をとっていた。奴も一人で、隣の席でビールを飲んでいたんだが、あの野郎、手をひっかけて自分のビールをぶちまけやがった。ビールが洪水みたいにカウンターの上を流れて、運悪くその大半が俺のほうに来た。着ていたセーターはびしょ濡れになって、ズボンはパンツまで濡れた。
「す、すみません! 大丈夫ですか?」
三十代前半の若い男だった。妙にがっちりしていて、身長は185センチくらいあるだろう。筋骨隆々、短く切った髪が顔に一段と凛々しさを与えていた。
ビールのシャワーを浴びて大丈夫な奴があるか! と怒鳴ってやりたかったが、その男も悪気はなさそうだったから、
「大丈夫。気にしないでよ」と俺は言った。
それでも、奴は必死に謝り倒し、クリーニング代を出すと言って聞かなかった。札入れから万札を抜き出し、俺に押し付けてきやがった。そんなことされても気分が悪い。俺は何度も断ったが、奴は「受け取ってください」の一点張りだ。
しばらく押し問答の末、ようやく「次の1杯を俺におごる」ってことで話がついた。
「じゃあ、店員さん。ビールもう一つ!」俺がそう言った。
「ちょ、もっと高いの頼んでくださいよ! 日本酒でも、焼酎でも、お好きなものを……」
「いいの! 俺はビールが好きなの! これでチャラな」
男は渋々承知した。
変なきっかけだったがそこから会話が始まった。奴の出身を聞いてみると大分県(俺も大分出身だった)で、実家が俺とめちゃくちゃ近所だった。俺たちは馬があい、会話が弾み、気づけば閉店近くまで盛り上がっていた。
「とんでもない出会いだったけど楽しかったよ。あの店にはよく来るの?」
帰り際、俺は奴にそう尋ねた。
「ええ。シーズン中でなければ。この辺に住んでるので。よかったらまた飲みましょう」
シーズン中? 妙な言い方をするやつだと思ったが、俺と奴はがっちりと握手をして別れた。奴の手はマメだらけだった。
『次のニュースです。先日移籍したTが先発のマウンドに上がりました。8回を投げて、打たれたヒットはわずか三つ。見事、移籍初戦を白星で飾りました』
俺は自宅で夕食を食いながらニュースを見ていた。スポーツコーナーで今年移籍したプロ野球選手を紹介している。Tっていう投手が、東京が本拠地の球団に移籍したようだ。彼は大卒でプロ入りして今年で十年目。伸びのある速球と鋭いスライダーを武器に三振の山を築くピッチャー。全盛期からの衰えはあるものの、力強さは健在。移籍先でも十分な戦力になると思われる、云々。
俺は飯を食いながら、ぼんやりとキャスターの説明を聞いていたが、T投手の顔がテレビに映し出されて度肝を抜いた。
おいおい、こいつ、こないだ俺にビールをぶっかけた奴じゃねえか……。
俺はテレビにくぎ付けになった。おお! あいつ、プロ野球選手だったのか。通りで体がごつかった訳だ。インタビューの受け答えも好青年振りがあふれ出ていやがる。いや、とんだ縁があったもんだ。
俺はこれまで野球なんか興味なかったが、Tを知って急に親近感が湧いた。なんてったって、ビールをかけられた仲だ。こりゃ、応援するっきゃない!
というわけで俺はその年Tのチームの戦績をずっと追い、Tが先発する試合はすべて観た(試合を観るために俺はプロ野球専門の動画配信サービスにも加入したんだ!)。
その年のTは絶好調だった。終わってみれば10勝以上の勝星を挙げた。投手タイトルこそ取れなかったものの、『移籍一年目で大活躍』という見出しがスポーツ新聞をにぎわせた。
俺はTとは一回しか会ったことがない。でもTが活躍する度に、うれしくなったものだ。
その年の暮れ、俺はあの店でTと再会した。俺が店に入ると、Tはこの間と同じ席に座ってビールを飲んでいた。俺は声をかけた。
「よう、このあいだはビールをどうも!」
「あれっ! お久しぶりです。いや、あの節はすみませんでした。どうぞ、隣座ってくださいよ」
Tと会うのはほぼ一年振りだったが、なぜかこいつとは話が尽きない。今回は奴の「職業」の話になった。俺はテレビで見かけて以来、野球が好きになり、ずっと応援していたことを伝え、今シーズンのピッチングの出来栄えに賛辞を贈った。Tは恥ずかしそうに俺の話を聞いていた。
「来年もまた投げるんだろう? 次は球場に行こうかな?」
「ぜひ来てください。チケット取りますから!」奴はそう言った。
俺は奴からいろんな話を聞いた。プロ野球の華々しいイメージとは裏腹に、奴はシーズン中、修行僧みたいな生活を送っていた。登板がない日もビデオで対戦相手を研究し、体のメンテナンスは毎日欠かさず、酒は一滴も飲まないそうだ。家と球場を往復する毎日。そして、各地への転戦。俺みたいな一般人には到底まねできない。
「じゃあ、オフぐらいか。ゆっくりできるのは」
「そうですね。でもついつい、野球のこと考えちゃうんですよ。しかも、決まって悔しい場面ばかり思い出しちゃって。大量失点の試合とか、全然制球が定まらなかった日とか。本当は体を休める期間なんですけど、どうしても練習したくなっちゃうんです」
奴は本当に自分の仕事にストイックだった。だからこそ素晴らしい成績をあげられるのかもしれない。俺たちはTの来シーズンの成功を祈って乾杯した。そして帰りに連絡先を交換した。
それから俺たちは時々会って、飯に行ったり、飲みに行ったりした。どうして奴が、俺にこんなに親しくしてくれるんだろうと思ったが、ある時奴はこんなこと言っていた。
「僕の知り合いって、90パーセントが野球関係なんですよ。だから野球以外の人と接する機会があまりなくて。変なきっかけでしたけど、僕はこの縁を大切にしたい」
うれしいことをいってくれる奴だ。次のシーズンは絶対にTの投げる姿を球場に見に行こう。俺はそう思っていた。
でも、それは叶わなかった。
それはTが5月に名古屋で先発した試合だった。俺はいつもと同じく、仕事が終わると家に帰って動画配信サービスで奴が投げるのを見守った。
その日も立ち上がりは順調だった。一回、二回はパーフェクト。しかし三回裏、先頭打者に投げた二球目がキャッチャーの構えたところから大きく右に逸れ、バックネットに突き刺さった。そして投げ終わったTはマウンドで右肘を押さえてうずくまった。キャッチャーが審判にタイムを要求して駆け寄る。
『T、どうしたでしょうか? ボールが大きく逸れましたが……。スタッフもベンチからマウンド上に向かいます』
実況のアナウンサーがそう言った。今では内野手も全員がマウンドに集まっていた。
『あーっと。Tは首を横に振っています。何ということでしょう。ここで降板のようです。アクシデントでしょうか?』
画面では、肘を押さえながらマウンドを降りるTの姿がアップで映し出されていた。深刻そうな表情で、顔には冷や汗を浮かべていた。
やはりそれはアクシデントだった。右肘靭帯の損傷。翌日のスポーツ誌は『今シーズン復帰は絶望』と報じていた。俺は奴のケガについて調べたが、どうやら大きな手術が必要なようだった。手術が無事終わったとしても、復帰まで相当長い期間リハビリをしなければならないらしい。
Tは三十歳をすでに越え、プロ野球選手としては若くない年齢だった。だから、メディアはみんなこう書きたてた。
『Tは再起不能』『このまま引退か?』『球団はTと契約更新するのか?』
俺はそれを見るたびに心が痛んだ。もちろんTはもっとしんどい思いをしているだろう。俺なんかじゃ計り知れない。そんなつらい思いを……。
それから数日して奴は肘の手術を受けることになった。事前に病院をTから知らされていたので、俺は見舞いに行くことにした。
俺が病室に着いたとき、奴はベッドに横になっていた。
「どう? 体調は?」俺はそう聞いた。
「まあ、万全とは言えないですね」Tは少し投げやりな感じでそう言った。
「そうか」
それから、Tは自分の思いを打ち明け始めた。手術が成功するかどうか不安なこと、成功しても選手として復帰できるかどうか、復帰しても以前のように投げられるかどうか。
「怖いんです。本当に。このまま終わってしまうかもしれないと思うと。僕には野球しかない。これで生きてきたんです。でも、どうなるか分からない。この先がすごく怖いんです」
俺は何て返せばいい? そもそもTと俺は住む世界が全く違う。けれど、こいつも結局は俺と同じ人間だった。特出した能力を持っているかもしれないが、不安にもなるし、心配もする。俺は何とかこういった。
「お前はまだ終わっちゃいないさ。本当に終わったかどうか、それは手術を受けてリハビリをして、本当にダメだった時に判断すりゃいいだろう。俺は単なるお前のファンで、お前じゃないから自分勝手なことしか言えない。でも、あきらめないでくれよ。だって、俺、まだお前が投げるとこ一度も生で観てないんだぜ」
結局そのシーズンはそれで終わったが、大方の予想に反して球団側は次の年も彼と契約を結んだ。
ただ、世間は相変わらずだった。『球団はTを放出しないのか?』『再起は不能』『ベテランは切って、新たな選手を入れたらどうか?』とか言いやがる。俺の周りの野球好きな連中も、『Tは終わった』だとか、『もうチャンスはない』とかぬかしていやがった。でもこいつらにTの何がわかる。あいつの気持ちが、あいつの今感じている恐怖が……。
けれども、Tはあきらめなかった。手術は成功し、リハビリを続けた。俺は時々奴に会いに行って、リハビリの姿を見守った。奴は何かに憑りつかれたような真剣な表情をして、トレーニングに励んでいた。俺はもちろん野球は素人だし、スポーツ医学の知識も皆無だが、奴の眼差し、表情を見て、こいつはまだ終わってないんだ、まだ立ち上がるんだ、やれるんだ。そう、直感的に思った。
それから奴は順調に回復し、球を投げられるまでになった。けれどもそこには以前の勢いはなかった。球速も10キロくらい落ちた。しばらくは二軍での調整がつづいた。そして次のシーズンの9月頭に奴から連絡がとどいた。
『今度、一軍の試合で先発します。ぜひ来てください!』
その日は平日のナイトゲームで、俺は何とか仕事を早引きして球場に向かった。
まだ残暑は続いていたが、夜になると涼しかった。どことなく秋の雰囲気を感じさせるよく晴れた夜だった。俺は一塁側の内野席に腰を下ろし、試合が始まるのを見守った。すでに両チームとも試合前の練習が終わって、プレイボールを待つばかりだ。
照明が球場全体を華々しく照らしている。外野席からは応援団の歓声が聞こえる。場内アナウンスが選手を紹介する。Tは最後に紹介されて出てきた。ゆっくりと、土のグラウンドの感触を確かめるかのように、マウンドに上がった。
奴は初回から一球一球丁寧に投げ込んだ。そこには以前の球速もノビもなかったが、制球力と、緩急をつけた投球で、次々打者を打ち取っていった。ゴロと、フライでアウトを積み重ね、あっという間に相手の攻撃が終わっていく。気づけば、七回が終了していた。
「あれ、そういえば、まだヒット一本もなくね?」
俺の斜め後ろの座席の男が、連れに声をかけるのが聞こえた。
「確かに。ひょっとしたら、ノーヒットノーランいけるかも、いや、でもまさかね……」
連れがボソッと呟いた。
そして、八回も三者凡退で終わり、チームは九回もTをマウンドに送った。その頃までには球場は一種のトランス状態にあった。スタンドの観客全員がTの姿を、息をのんで見守っている。
最初の打者は内野フライ。そして次の打者もサードゴロに打ち取って残りは打者一人になった。相手は敵チームの四番打者だった。
一球目は高めのボール球。二球目はファウル。三球目は低めのスライダーがギリギリに決まった。そこから打者は粘った。四球目、五球目、六球目とすべてファウルにして、七球目。打者が捉えた打球が大きく弧を描いてスタンドに飛んでいく。球場全体の呼吸が止まる。しかしその打球はほんの少しそれてファウルになった。球場全体に溜息がこぼれる。
そして八球目。Tは少し間をおいてボールを投げた。それはTの渾身のストレートだった。すこし高めになったが、スイングしたバットが空を切る……。空振り、三振。
スイングと同時に、スタンドはどよめき、歓声が沸き起こり、異様な空気がはじけた。そして、グラウンドではチームの仲間全員が彼に駆け寄ってTに手厚い祝福を加えていた。その中心には、Tがいた。Tは喜びと安堵を混ぜ合わせたような表情を浮かべて、チームメイトと喜びを分かち合っていた。
復帰直後にノーヒットノーランを達成する奴が一体どこにいる? こんなこと誰が信じていただろう? でも奴はやり遂げた。スタンドからは割れんばかりの歓声がいつまでも続いていた。
試合後のインタビューで記者からの質問に対し、こんなことをTは語っていた。
「実は僕の飲み友達で、リハビリ中、精神的に支えてくれた人がいるんです。でもその人は僕の試合を観に来たことがなくって。で、今日招待して、このスタンドのどこかで観てくれていると思います」
翌日のスポーツ誌は全紙Tの劇的な復帰登板を報じていた。
『T、完全復活!』『圧倒的な登板』『復帰一試合目でノーヒットノーラン達成』
全くほんとうに都合がいい。つい数日前までTの復帰を信じていたのは俺くらいだったというのに。まあ、いいか……。翌日会社に行く前、コンビニにそんなスポーツ誌の見出しが並んでいるのを見て、俺はニヤッと笑った。
□ライターズプロフィール
ユウスケ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
愛知県生まれ。東京在住のサラリーマン(転勤族)。人生模索中。
山と小説と酒が好き。
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