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週刊READING LIFE vol,116

塞翁が馬はマインドフルネスだ《週刊READING LIFE vol.116「人間万事塞翁が馬」》

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2021/02/22/公開
記事:吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
「佐藤くん。12月から、内部監査室に異動ね」
 
確か、新卒で入社した会社の二年目の秋だったと思う。
評価面談の時期でもないのに、上司から面談がしたいとアポイントの調整を依頼された時点でなんとなく察しはついていたが、告げられた言葉はそれでも言葉を失うほどの衝撃を私に。心優しい当時の上司は、気遣うような目線と共にそれらしい理由を並べ立てて何か喋っているが、全く耳に入ってこない。ミーティングテーブルに広げた自前のノートに、震える手で「内部監査室 12月」と書き留めるのが精一杯だった。
 
内部監査室って、……何?
 
有用なことも、上司の励ましも何一つメモできなかったノートをもって自席に戻ると、会社の社内ポータルを開き、共有文書から社内組織図を開いてみる。内部監査室……内部監査室……あった。社員数が数百人にも及ぶ規模の会社でいろいろな部署がひしめき合っている組織図の端っこの方に、小さく小さく「内部監査室」と記載され、所属する人として二人名前が載っていた。一人は監査役の米谷さん。もう一人は内部監査室長の澤口さん。……どちらも名前を見ただけではピンとこない。現在の私の所属は総務で本社勤務なので、代表電話の取次で話したことがある人達だろうか。内線配置図を手に取ってみてみると、フロアの隅っこに、たくさんの棚に囲まれた小さな小さなスペースがあり、そこに米谷さんと澤口さんの名前を見つけた。……一度か二度、電話を取り次いだことがあるかもしれない。米谷さんはおじいさんと言っても差し支えのない年齢、澤口さんは年齢不詳だが40代くらいの男性だったはず。どちらも、コピー機に書類をコピーする時か、コーヒーをお代わりしに来る時くらいしか見かけたことがない。
 
おじいさんとおじさんしかいない、小さな小さな離れ小島の部署、内部監査室。
 
「…………なんで…………」
 
新卒二年目、二十五歳の私には到底すんなりと納得できる辞令ではなかった。当時私は伝言ミスから書類の数字の記載間違いまで、あらゆるミスのデパート状態だったので、人事評価が芳しくないのは自覚していた。発達障害ではないかと自分で疑い、心療内科の門戸を叩くのはもっと後の話だ。だからって、こんな隅っこの、みんなから隔絶されたような席の部署に異動だなんてあんまりだ。その日は取り乱してもう仕事にならなかったし、帰り道も家に帰ってからも自分の不甲斐なさと不幸を嘆いてさめざめと泣いた。今思い返してみれば、もちろん人事評価も一因ではあろうが、それ以上に法改正などで内部監査室で人手が必要になる時期だったのだ。当時の私は総務に異動して半年と少しなので重要な案件を抱えておらず、かつ現場での経験も少しあるので、外部から採用するよりは使い勝手の良い人材だったのだろう。だが当時の私にはそんなことは全く思いつきもせず、自分が無能で役立たずだからよく分からない部署に異動させられたのだ、と信じて疑わなかった。
 
監査役の米谷さんも内部監査室長の澤口さんも、意気消沈した小娘を温かく迎え入れてくれた。まずはとにもかくにも簿記の資格をとることと言い渡されて必死に勉強する羽目になる。仕事内容としては澤口さんのアシスタントとして監査に同行したり、営業所の金庫の現金をカウントしたりすることが主だった。一か月もしないうちに、今度は外部からの中途採用で森山さんという人が入社してきた。この人も米谷さんと同じくらいのおじいさんだ。彼は今回の法改正にともない、社内で内部統制制度を構築するためのプロジェクトマネージャーになるらしい。私は彼の下で事務的なサポートをするようにと言い渡され、彼が作成したExcel表の罫線を引き直したり、矢印で図形と図形を繋いだりするのが主な仕事になった。
 
森山さんは法改正に合わせた新体制構築のため、全部署の業務をヒアリングして回り、それを業務フロー図と業務記述書というものにしたためているのだった。たった一人で膨大な量の業務をとりまとめ、文章と図に起こした能力は感服するが、いかんせんExcelは不得手なようだった。作業自体は単純なものだったが、フロー図の一つ一つに書かれた「〇〇を△△が決裁」「□□を作成、◇◇に提出、承認」といった内容は、会社の仕組みが分かるようで面白く、ついつい読み込んでしまうこともしばしばだった。
 
へえ、この会議って、こういうことを決めてるんだな。
経理に書類が回るには、この役職の人が確認しないといけないんだ。
 
この書類はすごいことが書いてあるけど、私はそれの罫線直しが仕事かあ……。
 
そうこうしているうちに森山さんはあっさりと会社を辞めてしまった。理由は定かではないが、業務上なのか給与上なのか、とにかく何かが入社前と話が違ったそうで、どうしても折り合いがつかなかったらしい。もともと定年退職後の再就職先として入社されていたので、ここは自分の居場所ではないと判断するや実にあっさりとしたものだった。森山さんは、新体制構築の後任者を特に指名せずに退社していった。困ったのは残された内部監査室長と監査役である。どちらも役職上、新体制である内部統制の責任者になることは禁じられており、彼らは資料の内容をあまり把握していない。今から異動なり採用なりで適任者を探すには時間がなさすぎる。思いもよらない事態に頭を抱える澤口さんは、苦渋の決断をした。
 
「……けいちゃん。しばらく、内部統制やってくれる?」
「…………はい」
 
なんとなくそんな気はしていたんだ。もはや社内でこの一連の文書のどこに何が書いてあるのかを理解しているのは私しかいないのだから、私が何かしら関わらなければいけないのは自明の理だった。ただ、内容的にとても責任があることなので、新卒数年目の平社員が堂々と担当者だと名乗っていいものではないのも理解していた。ただただ次の責任者が来るまでの代行という体歳で、森山さんの書類を必死に読み込み、彼の真似事をして書類を後進することになった。
 
この新体制──内部統制とは、会社が不正を防止する仕組みを保持していることを株主に掲示するための一連の仕組みだ。森山さんが作っていた書類は、会社のすべての業務をヒアリングして文書にしたものと、それを更にフロー図という図式に落とし込んだものだった。当時成長著しい当社はどんどん新組織やシステムが導入されていくので、毎年文書とフロー図を更新しなければいけない。更に、ゆくゆくはその文書とフロー図をもとに、テストのようなものをして監査法人に提出しなければいけないのだという。
 
それを、次の人が見つかるまで、代行で私が担当する。
 
「……大変なことになってきたな……」
 
事の重大さと責任の重さを自覚したのは、了承の返事をしてからどれくらい経った頃だっただろうか。ただただ必死にやった、としか言えない数年間があっという間に過ぎた。文書更新のため、各部署にヒアリングのお願いをして、アポイントをとる。本社に来ていただいたり、現場に出向いたりしてヒアリングする。必死にメモした内容を文書に起こして、既存の文書を更新していく。使いにくい書式を直す。文書からテストを作り、テストを実施し、監査法人に提出する。今思えば、簿記の資格すらも持っていない、大学は文学部で商学系の勉強など全くしたことがなかった私がよくやったと思う。数年もすれば仕事ぶりも板についてきて、新しい人は結局入ってこず、いつの間にか私が主担当だと堂々と名乗るようになっていた。
 
ただ、仕事が楽しいと思える瞬間はあまりなかった。ADHDと診断され、ヌケモレの多い仕事ぶりの私には、内部統制文書の更新は過分に負担の多い業務だった。ヒアリングをお願いするのは大抵目上の人ばかりで、忙しいスケジュールの合間を縫って時間をいただく。失礼にならないように気を配りながら必死に話を聞き、不足部分や曖昧な部分を突っ込んで質問する。曖昧な部分とは大抵当人としては誤魔化したい部分なので、質問をすると不機嫌になられることが多い。できるだけ不機嫌にならないように聞くにはどうしたらいいかな。負担にならないよう、ヒアリング時間を短くするには、事前にどんな準備をしたらいいだろう……。テストの資料提出のお願いもしなくちゃ。こんどの全体会議までに報告書も作らなくちゃ……。成り行きで担当することになった内部統制という仕事から、毎日山のようにタスクが生成されて、それらに溺れないように、監査法人を困らせないように必死にこなしていく、そんな感覚だった。
 
夫と結婚が決まり、夫の会社を本格的に手伝うことになり、私は新卒で入社した会社を退職した。ちょうどまる10年が経過していて、そのうちの8年はずっと内部統制担当者だった。ようやく、ようやくこの辛い仕事から解放される! そう思うととても心が軽くなった。夫は最初は内部統制コンサルティング的な活躍を期待していたようだが、私はのらりくらりとかわし、のんびりと経理の仕事をこなしていった。誰かのあら探しをして回るような仕事をしなくていいって、なんて幸せなんだろうと思っていた。
 
二度と、二度とやるもんか、内部統制。
ヒアリングなんてまっぴらごめんだ。
 
数年して私は子供を産み、仕事が完全な在宅ワークに移行した。それまでは経理の他に研修業のサポートなどの業務もあったのだが、それらがほぼ完全になくなり、家から出かける機会が一気に減った。世界が狭まってしまったような感覚に陥った私は、何か他の仕事もしたいと思い立ち、考えた末にライター業はどうだろうと、天狼院書店のライティング系ゼミを軒並み受講し、掲載された課題を見た知人からいくつか仕事もいただいた。
 
その中に、インタビューの月間連載の依頼があった。
 
「インタビューか……」
 
初めてだけど、上手くできるかな。
 
対象者と連絡を取り、日取りを決めて待ち合わせる。ノートとICレコーダーをもってお話を聞く。気になるところがあれば突っ込んで聞いてみる。終わったら、録音を聞き返しながら記事にしていく……。人生で初めての取材は、思いのほかスムーズに進み、対象者の方も生き生きと話してくれたように感じられた。話していた言葉を書き起こして記事にするにあたって、想いが伝わるように表現や文字数を工夫することも楽しかった。インタビューをしたのは正真正銘生まれて初めてのはずなのに、どの作業も不思議と躊躇いはなくスムーズに実施することが出来た。対象者が話しているうちに笑顔になってくれること、掲載された記事を見てまた喜んでくださったこと、そうしたことが励みになり、次のインタビューのモチベーションへとつながっていった。
 
インタビュー、楽しい。天職なのかもしれない。
 
それにしても、私はどうしてこんなにすんなり話を聞けるんだろう。もともと企画がしっかりしているから話を聞きやすいのもあるかもしれない。でも不思議と、ここを突っ込んで聞いたらもっと面白い話が聞けるぞ、という勘所が働いている気がする。相手が本当に話したいことを話しているな、と言う時と、お世辞で話している時の違いが分かる気がする。
 
そして何より、この感覚を、私はどこかで知っていた気がする。
 
「…………」
 
記憶の中で、どこかの営業所の経理事務の方の笑顔が思い浮かぶ。
吉田さんにお話を聞いていただけるのを毎年楽しみにしているんです、と言っていた人だ。
 
そうだ。
私、内部統制でたくさんたくさん、ヒアリングをしていたんだ。
表面的な話だけ聞くのではなく、何が重要なのか、何に困っているのかを知りたくて、自分なりに工夫して必死に挑んだヒアリングだった。ヒアリングまでのアポイントも段取りも、全部全部インタビューをするのと同じじゃないか。
 
嫌だ、二度とやりたくないと思っていた内部統制だけど、それが今、こんな形で活きてくるなんて。大好きなライターの能力を引き上げてくれたのなら、あの辛かった8年間は無駄ではなかったのかもしれない。
 
「……何事も経験、って、こういうことかなあ」
 
あるいは、人間万事塞翁が馬、というやつか。
出来上がったばかりのインタビュー原稿を眺めながら、そんなことをひとり呟いたのだった。

 

 

 

塞翁が馬の諺は有名だがなかなか使いにくい。幸せの絶頂の人に「まあ、塞翁が馬なんていうしね」なぞ言おうものなら、諺の意味としては正しくても、その人のことを僻んでいる、と取られかねないだろう。大抵は、不幸や凶事が続く人に「塞翁が馬というし、この苦境もいつか終わるから……」と励ましの意味合いで伝えることが多いのではないかと思う。私も内部統制を担当していた頃のことは、今だからこそ糧になったものもあると言えるが、当時は本当にただただ辛いの一言に尽きるとしか思えなかった。辛いことの真っ只中にいる人にとっては、それが塞翁の馬のように幸福に転じるかもしれない、と、簡単に思えるものではないのだ。
 
そういう意味では「不幸が幸福に転じるかもしれない」という塞翁のものの捉え方は、現代で言うマインドフルネスに通じるものがあるのではないかという気がしてくる。「幸福が不幸になるかもしれない」というのも、勝って兜の緒を締めよ、ではないが、幸せな時も気を引き締めていなさい、という戒めなのではないか。幸福も不幸も後から振り返るとその真価が分かるものだが、塞翁のような心がけでいれば、今現在起こっていることの捉え方を変えることも可能なのではないか。内部統制が大嫌いで辛かった私も、こんな風に考えられたら、もっともっと多くのことを学べていたのかもしれない。今思うと勿体ないことをしたと思う。
 
コロナ禍が続く今日、私たちを取り巻く環境は依然として厳しいままだが、塞翁が馬の故事に倣い、心穏やかに乗り越えていけたらよいのではないかなと思う。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)

1982年生まれ、神奈川県在住。早稲田大学第一文学部卒、会社員を経て早稲田大学商学部商学研究科卒。在宅ワークと育児の傍ら、天狼院READING LIFE編集部ライターズ倶楽部に参加。趣味は歌と占いと庭いじり、ものづくり。得意なことはExcel。苦手なことは片付け。天狼院書店にて小説「株式会社ドッペルゲンガー」、取材小説「明日この時間に、湘南カフェで」を連載。
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2021-02-22 | Posted in 週刊READING LIFE vol,116

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