玄関先でサヨナラ《週刊READING LIFE vol.123「怒り・嫉妬・承認欲求」》
2021/04/12/公開
記事:花井夢乃(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
*この作品はフィクションです。
その頃の僕はどうしょうもないほど疲れていた。何をやっても手ごたえを感じてなかったし、結果も出なった。周りの同僚や後輩がどんどん成果を上げて結果を出している姿をただ見ていることしかできなかった。一生懸命足を動かして前に、前にと足を運ぶのに同じところを走っていて景色が変わらないような感じ。なのに、どんどん周りの人たちが僕を追い抜いて走り去っていく。何人の背中を見送ったのだろう。焦って走るけど前には進んでない。
『これがどん底の景色なのだろうか?』
景色が変わらないこのどん底からなんとか抜け出したいと思いながらも何も変わらない日々だった。
仕事が終わってから会社近くの公園に一人ベンチに座る。古びた木製のベンチの背もたれに自分の体を預けて目線の桜を見ていた。開花予報があったのはいつだろう。仕事に追われて気が付いたら桜が満開になっていた。それぐらい周りも、自分も見えてなかった。
「もう、辞めようか」
自分に言って、自分に『いいよ』って言って欲しかった。でも、もう一人の自分は何も返事はしてくれなかった。『そういう奴だよな、お前は』と寂しく心の中で自分が自分に言った。
営業に異動になって2年目が終わった。3年目に差し掛かろうとしている春。
こんなにもできない自分になんだか情けなくなってくる。うちに帰っても妻と小1の息子に合わす顔もなくなってきた。妻は落ち込んだ僕をいつも励ましてくれるし、おいしいご飯だって用意して待ってくれていた。でも、その優しさが逆に居心地悪かった。そう思う自分が甘えていたと今なら思える。でもその頃の僕はとても疲れていた。
誰とも顔を合わせたくなかったし、言葉を交わすことも、めんどくさかった。
「今夜は遅くなるから晩御飯いらないよ。先に寝てて」
メールを送信すると電源を切って鞄に入れた。古びたベンチに座って背もたれに寄りかかって桜を見た。風に揺られて花びらが風に舞う。満開のピークを迎えた桜はすでに散る準備を始めているようだった。
「あの桜のように風に乗ってどこかに行きたい……」
疲れた僕の心はどこまでも落ちていく。底が見えない暗い深海の奥底に沈んでいく感じ。
どん底の底はまだなのだろか? どん底まで落ちたらどれだけ楽なのだろう。こんな時の僕はどこまでもマイナス思考だ。メンタルが弱い自分が本当に嫌いだった。
「成瀬(なるせ)さん?」
声のする方に振り向く。
「あ、やっぱり成瀬さんだ」
飲み友達の川崎(かわさき)だった。小柄で小学生に間違えられそうな背丈の彼女はいつも大きな声で笑っておいしそうにビールを呑む姿が印象的な女性だった。
友達を交えて数回飲んだことがあったが、個人的なことは何も知らない子だった。
「おう。何、今帰るところ?」
僕は精一杯の元気な声を出した。
『とっさにうまく出たな』と自分でも思うぐらい自然な声が出た。弱音を自分に言っていたことは悟られないような顔をしたつもりだ。
「そうなのですよ。私、家こっちなのです」と言って彼女は人差し指を右にさした。
「なんかマイナスオーラが漂っている人がいるなーって思っていたら、成瀬さんだったからどうしたのかなって思って」
精一杯元気を出して声を出したけど、元気がなかったことはすぐにばれていた。それなら仕方ないと開き直った僕はそのままの気持ちをポロっと言ってしまった。
「なんか何もかもうまくいかなくて。ここがどん底の景色なのかもしれないって思って一人で凹んでいたのだよね」
すると彼女は最初びっくりしてすぐに大きな声で笑った。
「こんなにきれいな桜が咲いているのになんでここがどん底なのですか!」
僕の説明が足りないというか、例え話なのだけど。僕の心がどん底なだけで、この満開の桜の風景がどん底と言いたいわけではなかった。慌てて言葉を補おうと声を出そうとした。すると彼女は座っている僕の隣に立って桜を見上げて言った。
「今年も桜が満開ですね」
その桜を見上げる彼女の横顔がとても美しいと思ったことを今でも思い出す。
数週間が経った。新しい葉が付いた桜の下でいつものように項垂れていた時だった。
「冷たっ」と大きな声を上げて顔を上げた。
そこには右手に酎ハイと、左手にビールを持った彼女が少し悪い顔をして笑って立っていた。僕の首筋にどちらかを押し当ててびっくりさせたのは間違いなく彼女だった。
「お疲れ様です」と言って笑う彼女に連れて笑う僕がいた。
「どっち、飲みますか?」と言って右手と左手を交互に僕の目の前に差し出してくれた。
「ありがとう」と言って右手の酎ハイを取る。確か彼女はビールが好きなはずだったから。
ベンチに並んで座って飲んだ。彼女は僕には何があったか何も聞いてこない。それが彼女なりの気遣いだと思ったら僕は嬉しかった。今の僕が口を開いたら暗くて重い話しか出てこない。だから彼女の話を聞いていたかった。仕事の愚痴や友達の事、今日のお昼に食べた定食が最高においしかったこと。楽しそうに話す彼女とそれを聞く僕。
その時間だけは僕はいやなことも忘れて思い切り笑った。
そんな時間が何度か続いた。
それはとても暑い夏の日だった。昼間の熱風が夜になっても辺りを漂っていた。首筋に汗がじんわりと出てくる。今日は僕がビールと酎ハイを用意する順番だった。会うときは交互に飲み物を持って来る約束がなんとなくできていた。
「お疲れさまです」と言っていつものように彼女は現れた。
「お疲れー」と言ってビールを差し出すと彼女もそれを受け取って隣に座る。
でもいつもと様子が違った。元気そうな振りをして無理に笑っているような気がした。
最初のころの僕もこんな感じだったのだろうか?
「どうした? なんかあった?」僕は彼女の顔を覗き込んで聞いた。
彼女は『ばれた』って顔をしたけど、どんどん泣きそうな顔になっていく。
そんな顔を見たら僕はとっさに彼女の手を握っていた。 力強く、ギュッと握ることしかできなかった。頭で考えるのではなく、心がそうさせた。彼女は僕の手を、いや薬指の結婚指輪を見ていた。その目線が指輪からだんだんと上がってきて僕の目と合った。そして彼女は眼を閉じてキスをしてきた。
一瞬の出来事だった。僕は初めて女性からキスをされた。こんなこと今までなかった。
体が固まってしまって動けなかった。今までのどんな女性よりも彼女の唇は柔らかくて気持ち良かった。僕の唇から離れて恥ずかしそうに下を向いていた彼女を見ると、もう理性と言うストッパーは機能しなくなった。
その後、僕たちは彼女の部屋に行ってお互いを求めあった。それは自然な流れだった。
外がだんだんと冷たい風が吹き始めた。
あれから彼女と会うのは公園ではなくなっていた。
「今日、家にいる?」
僕がメールを送ると彼女はほとんど断ることもなく「いるよ」とだけ返信があった。
お互いの仕事が同じぐらいに終わる木曜日の夜に会うことが多くなっていた。
彼女はまっすぐ僕を見てぶつかってくる。そのまっすぐな気持ちが最初は嬉しかったが、だんだんと怖くなってきた。
自分の家庭を放り投げてまで彼女に飛び込む勇気はなかったからだ。
でも、妻や子どもとは別のところで彼女のことは本当に好きだった。
そんなズルい気持ちから僕は彼女に言ってしまった。
「僕のことは好きになったらだめだよ。早く彼氏つくれよ」
弱い僕は先に防衛線を張ったのだ。僕なんかよりもちゃんと大切にしてくれる彼氏ができてくれたら・・・・・・。正直、他力本願な考えだけどそう思っていた。彼女だって僕の薬指を見ていたからその言葉の意味を分かってくれていた。いや、それは僕の勝手な考えだったと思う。
彼女はその言葉を聞いて怒ったような、悲しいような顔で言った。
「最初から好きじゃないもん」
だんだんと仕事がうまく回るようになってきた。心にも余裕ができたら周りも見えてきていい方向に進んで行った。仕事がうまく行くようになってくると反対に彼女との関係はぎくしゃくした。
あの言葉を言ってから彼女からの連絡はなくなった。僕から連絡すると会うこともあったがだんだんと心は離れていくような気がした。
身勝手なことを言ったのは僕の方だ。でも、彼女を欲しがる僕がいた。こんな年になって馬鹿みたいに彼女を追いかけている。でも彼女に追いかけられそうになったら逃げる。自分でも何がしたいのかもうわからなくなっていた。
自分の中で訳の分からない感情が渦巻いている。僕は彼女に連絡をした。なんとか会ってもらいたくて。「あんなこと言ってごめん」と一言どうしても言いたかった。それが自分のためにも彼女のためにもならないともわかっていたけれど・・・・・・。
もう寝ているかもしれない。スマフォから彼女の番号を出してかけた。電話のコールが鳴るが電話には出ない。あきらめの悪い僕は何回もかけなおした。でも出ない。歩きながら電話をかけていた僕はとうとう彼女の部屋の前まで来た。そして一か八かピンポン押す。
とても長く感じた。しばらくしてドアの施錠を外す音がして、寝起きの彼女が眠そうに顔を出した。
「こんな遅くに何? 電話してくれたの? 疲れて寝てたよ」
彼女の顔を見たら安心したと同時に会ってくれたことがとても嬉しかった。
眠そうな彼女の顔を見たらもう我慢できなくて玄関先でキスをした。そのままなだれ込むように一気にベットまで行った。その間、僕は無我夢中で彼女の唇を求めた。
彼女は最初嫌そうにしていたが、だんだんと体を僕に委ねてきた。
そして僕は唇の次に体も求めた。
もう静かに夜は更けていた。帰る支度をしてスーツの上着を着た。なんとなくいつもと違うとぼんやりと思った。
言葉では言い表せないその正体がわからなかった。
「なんだろう?いつもと違う……」
帰ろうと鞄を持った時、その違和感に気が付いてしまった。
煙草だ。
彼女の机の上に置いてあったお香立てのお皿の上にマイルドセブンと書かれた2本の煙草の吸い殻が置かれていた。
彼女は煙草を吸わない。女友達かもしれない。でも、煙草に口紅は付いていなかった。僕の頭の中には男がここで煙草を吸ったとしか思えなかった。
楽しそうにこの部屋で彼女が男と話している姿を想像すると腹が立ってきた。
でも、彼女に「早く彼氏を作れよ」と言ったのは間違いなく僕な訳で、腹が立つことは間違っている。彼女は僕の言ったとおりに行動しただけだ。
いろんな気持ちがグルグルしていた。
自分が嫉妬していることに気が付くのに時間がかかった。
それと同時に彼女のことを真剣に好きだったことを今更気が付いた。
煙草に気が付かないふりをして玄関に向かった。
僕を見送るために女が後ろを歩く。今、返って彼女を問い詰めたい衝動に駆られた。
「あのたばこ、誰の?」
そんな言葉が頭を過る。でもその一言を彼女にぶつけることは間違っている事は確かだ。
頭の中でその言葉を消した。
玄関先で彼女と向かい合う。先に彼女が口を開いた。
「もうこれで終わりにしたいと思っている」
体が強張った。不意打ちで投げてきた言葉は僕の嫉妬心の真ん中にぶつかった。
「好きになってもいいよって言ってくれる人がいるから、その人を好きになる」
彼女はまっすぐ僕を見て言った。決心した目だった。
「そうか。それがいいと思う。うん……」
彼女に言ったようで、自分にそう言い聞かす。
「今日でおわり! 最後……会うのも最後」
彼女はそう言って下を向く。今度は彼女が自分に言い聞かせていた。
僕は彼女の顔を見れなかった。嫉妬心と諦めで心も頭もおかしくなりそうだった。もう一度、激しく彼女の唇を奪いたい気持ちだった。でも、もう彼女の心は僕にないのはよくわかった。まっすぐ前を見てドアノブを回して外に出た。
その瞬間、後ろから声が聞こえた。
「今までありがとう」
背中にその言葉が当たったが、僕は振り返らず右手だけ軽く上げた。
その後、僕は深夜の街を走って帰った。彼女への気持ちをかき消したくて一心不乱に走った。
あれから二年の時間が流れた。
営業成績も順調に伸びて、仕事が軌道に乗った手ごたえを感じていた。
今は何人かの部下を引き連れて仕事をするまでになった。
二年前の自分とはずいぶん変わった。
あれから僕は仕事に集中した。頭の中を何かでいっぱいにしないとすぐに彼女がでてきた。
考える隙を与えないようにした。その隙間を全て仕事で埋めた。
仕事が早く終わった日。会社を出て公園に向かった。彼女と一緒に見たあの桜が今年も満開を迎えていた。二人で見たあの桜は、あの時と変わらず美しい。
コンビニで買ってきた酎ハイを飲みながら、今日だけは彼女のことを思い出す。
「ごめんな。傷つけて」
満開の桜を見ながら、あの時言えなかった一言をつぶやく。
桜の花びらに乗せて彼女に届いて欲しいと願いながら酎ハイを飲んだ。
□ライターズプロフィール
花井夢乃 はないゆめの (REIDEING LIFE編集部ライターズ俱楽部)
徳島県出身。滋賀県在住。
40歳を機に本当の自分の人生を歩む決意をする。
書くことで自分自身を俯瞰で見る力をつけることに面白さを感じている。
趣味はお散歩と銭湯
この記事は、人生を変える天狼院「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」をご受講の方が書きました。 ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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