ウルトラトレイルランナー最大の敵との戦い《週刊READING LIFE vol.127「すべらない文章」》
2021/05/10/公開
記事:佐藤謙介(READING LIFE編集部公認ライター)
「もう耐えられない、我慢の限界だ!!」
私は山の中をゴールに向かって走っていた。
走った距離は既に150km。ゴールまではあと10km。しかし、これまで走ってきた距離に比べたらあとわずかだ。
しかし足は既に限界を超え、走るたびに太ももに痛みが走り、下りの衝撃に何度も悲鳴を上げそうになった。そのうえ、最悪なことにこの数時間、激しい下痢に襲われ、エイドステーション(休憩地点)に行くたびにトイレに駆け込んでいた。
そう、私が参加している「トレイルランニング」とは山を走る山岳レースなのだが、実は選手は「下痢」と戦うことを宿命づけられていると言っても過言ではないのである。
今回は「トレイルランニング」と「下痢」の関係について話してみたい。
トレイルランニングとは先ほども書いた通り、山の中を走るレースである。「トレイル」とは「不整地」という意味でアスファルトの上を走る通常のマラソンとは違い、舗装されていない山道や林道を走る競技である。
一言に山道と言っても様々な場所がある。
標高数百メートルの里山であれば、ハイカーさんたちも歩くような比較的走りやすい土が踏み固められた道もあれば、両手も使ってしがみつかないと登れないような岩場などもある。時には川を渡る場合もあり、そんな時は膝ぐらいのところまで水に浸かる場合もある。
また天気によっても山道はその表情を一変させる。
晴れていれば気持ちよく走ることが出来る土道も、雨が降ればぬかるみ非常に滑りやすくなり何度も転倒することもある。私も過去何度も雨の中を走ったが、あまりの豪雨で山道は滝のように水が流れ、一歩間違えば滑って転び、下まで転げ落ちるような場所を走ったこともある。
そんな場所を数十キロに渡って走る必要もあるのだ。
特に私が好んで参加しているレースが「ウルトラトレイルランニング」と呼ばれる全長100kmを超える超ロングレースだ。その中でも「100マイルレース」と呼ばれる「160km」走るレースがトレイルランニングの中でも世界中で人気があるカテゴリーなのだ。
これだけの長距離を様々な条件下で山道を走るのである。
当然体にも大きなダメージを受けることになる。一般的には上りがキツイと思われるかもしれないが、実際に身体にダメージが大きいのは下りである。特に100マイルレースになると、長時間にわたって下りを走るため、自分の体重プラス重力が加わり、足の太ももにかかる衝撃はとてつもないダメージを与える。最悪は前を向きながら走ることが出来なくなり、後ろ向きにでしか降りられなくなることもある。
そして数ある痛みの中でも選手を最も悩ませることの一つが「下痢」だ。
ウルトラトレイルランニングに参加している選手の中で最も恐れられている状況と言ってもいいだろう。
「下痢」が始まってしまうと、もう走るたびにお腹に衝撃が加わるので、それはもう大変なことになる。ただでさえ足には力を入れなければいけない場面が多いのに、肛門括約筋(お尻の穴を閉めるための筋肉)にも力を入れながら走らなければいけないのだ。
汚い話で恐縮だが、あなたもこれまでに何度かトイレを我慢して肛門括約筋に力を入れながらトイレを探した経験があるだろう。あの苦しみを抱えながら山の中を走るのだから、その苦痛、苦悩、不安は想像に難くないはずだ。
しかもしれは一回では済まないのが「下痢」の状態だ。
「下痢」は一度始まってしまうと、何度も腹痛が襲ってくる。
「なぜだ!? さっきしたばかりじゃないか」
または
「なぜさっきのエイドステーションの時には来なかったんだ(大丈夫だと思ってトイレをスルーしてしまったじゃないか)」
と走りながら自分自身の体に激しい怒りをぶつけるのだ。
しかもエイドステーションはだいたい10kmに一つ、長い時には20kmや30kmエイドステーションがない時もある。時間にしたら短くても1時間半~2時間。最悪5時間近くエイドステーションがない場合もあるのだ。
しかも運が良ければ途中で一回山を下り、村や町の中を走るときもある。こういう時は公衆トイレを利用したり、時にはコンビニエンスストアでトイレをお借りすることも出来るが、これはレアなケースだ。
殆どの場合は次のエイドステーションまで「我慢」だ。
「でも、途中でどうしても我慢できない時もあるでしょ?」
「そんな時はどうするの?」
とても良い質問だ。
そう、途中でどうしても我慢できないときはある。そんな時は最終手段しかない。
お山の中に出させていただくのだ。
これは何もトレイルランナーに限った話ではない。
一般のハイカーさんも同じ状況になる。そのため、山に入る時には携帯トレイや、トイレットペーパーを持っていることは常識となっている。特にレースとなれば大勢のランナーが山の中に入るので、全員があたりかまわずし始めたらとんでもないことになる。そのため、エチケットとして緊急事態用に携帯トイレ、おしりふき、そして山の中に捨てないように汚れ物を入れるビニール袋を持って走るのは、ランナーにとっての最低限のマナーになっているのだ。
ちなみに、この山の中で用を足す行為には昔から名前が付けられている。
男性の場合は「雉(きじ)を撃つ」、女性場合は「お花摘み」と名付けられている。これは用を足すときの格好をから名づけられているようだが、その名称がいつ、誰が着けたのかは定かではない。
しかし、ランナーたちはお腹が痛くなり限界を迎えると
「ちょっと雉撃ってくるわ」
と、コースから外れて人の目が届かないところに入って行くのが山のマナーなのである。
もしあなたの周りにもトイレに行くときに「雉撃ってくるね」「お花摘んでくるね」という人がいたら、その人や「山の人」だと思ってもらって間違いないだろう。
ここまで書けば、ウルトラトレイルランナーにとって「下痢」がどれほど恐ろしいものか分かっていただけたと思う。
冗談抜きに「下痢」は本当に恐ろしいのだ。実は用を足すことだけでなく、「下痢」が激しくなると、エネルギー補給が上手くできなくなるという問題も出てくる。私たちは食べたものを体に吸収する際に、小腸や大腸でエネルギーで吸収するのだが、下痢が始まるとこの腸の活動が鈍くなってしまう。
選手はレース中はエネルギージェルと呼ばれる高カロリーのジェルを食べながら走っているのだが、下痢になるとこのエネルギージェルを体が吸収してくれなくなるのだ。そのため、途中で体がエネルギー切れの状態になり、まったく走れなくなってしまう。
そのため下痢が酷くなってレースを棄権する選手も必ず出てくる。これは世界のトップランナーたちですら同じ状態になり、「下痢が酷くなり棄権した」というランナーは数多くいるのだ。
そして私もある100マイルレースで強烈な下痢と戦った経験がある。
それは「ONTAKE100」と呼ばれる長野県王滝村で開催される100マイルレースでの出来事だ。このレースの特徴は延々と160kmの林道をひたすら走るというものだ。林道とは車も走ることが出来る山道を想像してもらいたい。アスファルトで舗装がされていないが砂利道や車が一台通れるような山道である。
このレースは他のトレイルレースのように、岩場を登ったり、木の根が張り巡らされた走りにくい場所がない分、比較的「走れるレース」なのである。
しかも、20時間近くずっと同じような林道を走り続けるため、別名「走る座禅」と呼ばれている。
選手は長時間にわたってひたすら林道を走るのだが、あまりにも長い時間自分自身と向き合い続けるため、むかし途中で悟りを開きそうになった選手がいたことからこの名がつけられたのだ(由来には諸説ある)
しかもこのレースは夜の20時からスタートするため、最初から夜間を走らなければならない。王滝村は比較的標高が高いところにあるため、夏場とは言え夜はそれなりに冷える。しかも走り始めて汗をかくため、これが腹回りを冷やし、より下痢を誘発しやすい状況を作り出すのだ。
私は以前同じレースの「100kmの部」に参加したことがあったので、コンディションはよく分かっていた。しかもあいにくレースは前日の比較的強めの雨が降り、レース当日も雨が降ったり止んだりを繰り返していた。当然雨が降れば気温はさらに下がるし、選手の体も冷やすことになる。
下痢をしやすい選手にとっては、最悪の状況と言ってもよかった。そのため私も万全の準備をした。レインウエアだけでなく、途中で着替えが出来るように、コース中間点にあるデポバックという自分の荷物を置いておける場所に替えのウェアを入れておいた。
そしてもちろん背中のザックの中には「雉撃ちセット」もしのばせていた。
これでいざという時に対処できると自信を持ってスタート地点に立った。
そしてレースがスタートした。
思った通り7月にも関わらず気温は低く、スタート地点で10度しかなかった。小雨が降り続き、走っても体温がそれほど上がらなかった。さらに汗をかくため体は冷え想像していた通りのコンディションだった。
「予想していた通りだな」
私は自分の読みが当たったことに走りながらちょっとニヤッとした。
そしてもう一つ予想通りのことが起きた。
「下痢」が始まったのだ。
しかも、予想よりだいぶ早く……
レース開始から1時間、私はさっそくしたくなった。
「あれ? スタート前にしっかりしたんだけどな」
そう思ったが、そんな事実とは関係なしに腹痛はやってきた。
しかし最初のエイドステーションまではあと2時間近くある。なんとレース開始早々、いきなり「雉撃ちタイム」が訪れた。
しかしこのレース最大の難関は実は「コース上に隠れるところが少ない」ことだった。このコースは林道が延々と続くのだが、左右が崖になっているところが殆どで、通常の山の中のようにコースを外れて他の選手から見えないところに行くことが殆どできないのである。
しかも夜中である。頭にはヘッドライトを着けているので、前の選手が突然横道にそれたら後続の選手は全員その方向を向いてしまう。夜中に後続の選手からヘッドライトで照らされながら「雉を撃つ」そんなことはまっぴらごめんだ。
私は必死で隠れる場所を探して、さっと隠れて雉撃ちを行った。
やっとの思いで用を足すことに成功したが、その後は「下痢」との戦いだった。エイドステーションに着くたびにまずはトイレに駆け込んだ。体が冷え始めると、だんだんと感覚が短くなっていった。
1、2回もすればお腹の中にはほとんど出すものが無くなる。しかし下痢の恐ろしいところは出すものが無くても、したくなるところだ。しかもエネルギーは取り続けないと走ることが出来ないので、エネルギージェルを途中で何個も食べた。
しかしそれが体に吸収されずにそのまま出てきているのではないかというほど、何度も腹痛が襲ってきた。
そしてレース開始から16時間が経過し150km地点まで来た。
これまでにトイレに駆け込んだ回数、雉撃ちをした回数はもう数えられなかった。そして次が最後のエイドステーションである。ここを過ぎればあとはゴールまであと10km。もうここまでくれば気合で乗り切るしかない。
そう思っていた矢先、もう何度目か分からない腹痛が襲ってきた。
痛みが走るたびに襲ってきた。肛門括約筋はこれまでに使いすぎて既にバカになっている。
止めているはずなのに、急に緩んでちょっと出そうになる。
それを必死で食い止めながら、私はエイドステーションを目指した。
しかし、なかなか着かない。
「あと少しで着くはずなのに」
そう思うがもう限界だった。
私は急ぎ隠れる場所を探した。しかし案の定なかなか見つからない。
その時、週十メートル先に分岐点があるのが見えた。
「もうあそこしかない」
そう思い、コースとは違うもう一つの道に入った。しかし見晴らしが良い。数メートルでは後続の選手に丸見えだ。私は後続選手が見えなくなるまで100メートル以上走った。
そしてやっと隠れられるわずかなスペースを見つけて、そこに飛び込み、ズボンを下した。これほどの痛みはこのレース中初めてだ。やっと出してあげられる。
そしてしゃがみこんだ瞬間!!
「ぷう」
とガスが出た。
なんとこれほどの痛みを作り出していたのは、物ではなくガスだったのだ。
その瞬間私は
「屁かよ!!」
と叫んだ。
そして屁とともに痛みは和らぎ、私はコースに戻っていった。
そして分岐点まで戻って、少し走るとエイドステーションに着いた。
僅か1分で着いた。
その後は無事に走り、私は100マイルを完走することが出来た。
これほどの下痢は後にも先にもこのレースだけだった。
しかし、私はこのレースのおかげで自分の身体と何度も会話することが出来た。
もしかしたらもう少ししたら悟りも開けたのかもしれない。
しかし、それは羞恥心を捨て、人間としての自尊心を失うことかもしれない。
いまはそうならなくて良かったと思うのだ。
□ライターズプロフィール
佐藤謙介(READING LIFE編集部公認ライター)
静岡県生まれ。鎌倉市在住。
大手人材ビジネス会社でマネジメントの仕事に就いた後、独立起業。しかし大失敗し無一文に。その後友人から誘われた障害者支援の仕事をする中で、今の社会にある不平等さに疑問を持ち、自ら「日本の障害者雇用の成功モデルを作る」ために特例子会社に転職。350名以上の障害者の雇用を創出する中でマネジメント手法の開発やテクノロジーを使った仕事の創出を行う。現在は企業に対して障害者雇用のコンサルティングや講演を行いながらコーチとして個人の自己変革のためにコーチングを行っている。
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