週刊READING LIFE vol.127

けつ《週刊READING LIFE vol.127「すべらない文章」》


2021/05/10/公開
記事:福浦由希(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)
 
 
ふと見ると、彼のケツが出ていた。いつものことである。
 
かつて私は彼氏と同棲していた。彼氏は身長が高めで少々ふくよかだった。私が帰宅すると、大抵彼は自室で寝転がっていた。スマホを手に横たわり、仕事のやり取りをしていた。
彼はいつもパンツ一丁だった。理由は知らぬが、解放的な方が仕事が捗るせいかもしれない。パンツはいつもほんの少しずり下がっており、そこからケツの上部が顔を出していた。
 
そんな姿はどこかユーモラスだった。顔立ちはワイルドな彼だが、お尻が出ていることで”抜け感”が加わるのだ。セイウチのように迫力とキュートさを両立させる彼は、隠しきれぬ溢れんばかりの愛嬌を持ち、それはスギ花粉のように充満して私を虜にした。
 
彼のケツは大変プリチーだった。アンモナイトの輪郭のように美しい曲線を描いていた。彼の身体を描くなだらかな曲線の中で、ケツが突出して美しいラインを誇っていた。パリの街並みにそびえ立つエッフェル塔のような、堂々とした佇まいであった。
 
私はよく彼のケツを褒めた。彼はその度に照れて、気を良くするとウェストを大きく振るダンスを披露してくれた。サザエさんのエンディングにて、果物を上下に割って出現するタマのような振りだ。サービス精神にあふれ、陽気な男であった。

 

 

 

その後、色々な事情があって彼とは別れることになった。私はだいぶ落ち込んでいた。熟成されたぬか漬けのように彼の魅力に漬かり切っていたので、気持ちを切り替えることができなかったのだ。不眠症になり、仕事にも身が入らないほどズタボロな精神状態だった。
 
しかし、別れてしまったものは仕方ない。彼にはだいぶお世話になったし、せめてキレイな気持ちでさよならしようじゃないか……。健気にも決心した私は、未練を断ち切る方法を調べるため、様々な書籍を漁った。すると、こんな方法が見つかった。
 
まず、縁を断ちたい相手へ伝えたい最後のメッセージを、紙にしたためる。そして暗くて静かな部屋で独りになり、目を閉じる。できれば火のついたロウソクを用意するとよい。集中して相手の姿を思い浮かべたら、紙に書いた内容を読み上げる。その内容を受けて、相手がどのような反応をするかも同時に想像してみる。読み終わったら、心の中の相手に丁寧にお礼を伝え、ロウソクの火で紙を燃やす。これにて儀式終了である。
 
これだ、これしかない。私の思いは荘厳な方法で葬るのがふさわしい。
私はこの方法を試すことに決めた。しかし、実際に火を使うのは怖いので、火のついたロウソクも想像で補うことにした。
 
草木も眠る丑三つ時。私は部屋の電気を消し、儀式の準備を始めた。心は夜の湖のように静かだった。私は彼に本当のさよならをして、生まれ変わるのだ。天命のため玉砕を覚悟した侍のように、身の引き締まる思いだった。
 
暗い部屋の中で何度か深呼吸をし、まぶたを閉じる。
「……いざ!」
掛け声で士気を高め、彼の姿を思い浮かべ始めた。

 

 

 

「う~ん……」
しばらくすると、私は困惑して儀式を中断した。
 
こんなに真剣な気持ちで臨んでいるのに、心の中にはパンツ一丁の彼しか浮かばないのである。同棲中、散々パンツ姿を見ていたせいだろうか。
 
暗闇の中に、ワイルドなパンツ一丁の男が、神妙な面持ちでたたずんでいる光景。こちとら侍になりきっているというのに、こんな男相手では雰囲気が出ないではないか。なんとか心の中の彼を説得し、ジャケットを着てもらうことにした。

 

 

 

「……う~ん……」
努力も虚しく、彼が服を着ることはなかった。どんなにお願いしても、ジャケットどころかTシャツすら着てくれない。更には、笑顔であのサザエさんダンスを始める始末。もうめちゃくちゃだ。別れたとはいえ、服くらい着てくれてもいいじゃないか。想像の中でさえ、彼とは上手くいかないのか。
 
しばらくすると彼は踊りに息切れして、笑顔でこう言った。
「オレさ、肌が弱いから服着たくないんだよね。忘れたの?」
 
ああ、そうだった。彼は肌が弱かったんだった。だから家では服を脱いでいたのだ!
心の中でパンツ一丁男が汗だくでダンスしている状況なのに、不覚にも胸が締め付けられた。
それは、肌荒れ一つにも尊い思い出がセットになっていたからだ。一緒に肌荒れの薬を買い、彼の背中に薬を塗ってあげたこともある。あのときはすごく感謝してくれたっけ……。
侍の心は、あっという間にセンチメンタルに押し流されていった。
 
―――いかんいかん! 未練を断ち切る儀式をしているのに、これでは本末転倒ではないか。
 
あんなに気合いを入れて儀式を始めたというのに、情けない。
侍の精神を再び奮い立たせ、私は強制的に儀式を続けることにした。次の段取りに進もう。心の中に火のついたロウソクも思い浮かべ、お別れの言葉を読み始めることにする。この際、相手の服装(といっても下着だけだが)は気にしない。
 
「今まで色々なことがあったね。素敵な思い出をありがとう……」
私は神妙な面持ちで、彼へのメッセージを読み上げていった。結婚式で行われる子から親へのスピーチのように、しみじみとした雰囲気が漂い始めた。その光景を支えるように、心の中のロウソクが煌々と燃えていた。
私の眼には、未練の涙ではなく、感謝や感動の涙があふれはじめた。これだ、これこそ私の期待していた儀式だ。
 
しかし当の彼は、私の言葉をよそに、汗だくで腰を振り続けていた。
 
わたしはついつい、彼のお尻に目をやってしまった。
 
私が仕事で疲れていた日も、ぽかぽか陽気の休日でも癒されていた、あの素晴らしいケツである。相変わらず美しい曲線を描いているあのケツである。
 
それを思い出してしまった私は、とうとう儀式を諦めた。
彼のケツは私にとって、彼のユーモアや陽気さ、優しさなど全ての魅力が込められた存在だ。
彼は、美しいケツを持つ男なのだ。彼にはどうしようもなく強い魅力があり、並大抵の儀式では、私の心から拭い去れないのだ。
 
私はため息をついた。満足感と疲労感が同時にあふれ、かえって私の心は落ち着いてきた。想像の中ですら、彼の(ケツの)魅力を抑え込むことができなかった。図らずも彼の魅力を再認識してしまったものの、落ち込んではいない奇妙な気分だった。
 
ひとまず、心の中にあるロウソクの火を消そう。そうしてこの儀式は一旦終わりにしよう。私はもう一度集中し、ロウソクに歩み寄った。
 
そのときである。
 
「あ」
 
彼がつまづいて、ロウソクの上に倒れこんだ。
ボッと火が広まり、彼のパンツが燃え上がった。
 
―――バチン!
私は部屋の明かりを付けた。強制的に儀式を終了したのだ。
全身に冷や汗をかいていた。頭の中の光景とはいえ、恐ろしい事態になるところだった……。パンツが燃え、彼もまる焼きになるところだった。
 
こうして私は儀式を止めた。当分は悪あがきせず、素直に未練に苦しむことにした。
ただ、執着心は時間がなだめてくれるもので、しばらくすると彼への未練は自然に消えていった。あんなに頑張っても上手く行かなかった儀式は、一体何だったのだろうか。

 

 

 

「由希さん、元気? 話したいことがあるんだけど」
未練を断ち切ってから数か月後、彼から再び連絡が来た。
 
不思議な縁を感じ、思い切って彼と再会してみることにした。それから何度か一緒に遊ぶようになり、ある日とうとう、彼の部屋へ遊びにいくことになった。
あんな儀式まで催した相手と再び仲良くなっているなんて、現実味がないなあ。道中私はそう思っていた。幾度か会っているというのに、どこか気持ちがフワフワしたままだった。
 
ドアの前に立ち、ドキドキしながらインターホンを押す。すると、彼の声が聞こえた。
「あれ、由希さん早かったじゃない! オレ今、変な格好してるけど入って~」
 
ドアを開けると、パンツ姿の彼が立っていた。
何のことはない、彼の一番魅力的な姿ではないか。懐かしい思い出が、私の心を駆け巡った。宙ぶらりんだった気持ちが、あるべき場所へ収まり始めた。
 
「こっちこっち。さあ入って」
私を案内しようと、彼が背を向ける。
すると、あの愛おしいお尻が少しだけ、パンツから恥ずかしげに顔を出していた。
 
お久しぶり。
心の中で、私はつぶやいた。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
福浦由希(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

平成生まれ。1年格闘技を習っていたが、サンドバッグをけりすぎて背骨が曲がってしまったので辞めたことがある。現在は、ドアの木目をじっと見つめたり雲を眺めたりすることが趣味。

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2021-05-10 | Posted in 週刊READING LIFE vol.127

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