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週刊READING LIFE vol.129

最初で最後の?私の出産体験記《週刊READING LIFE vol.129「人生で一番『生きててよかった』と思った瞬間」》


2021/05/24/公開
服部花保里(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
生まれてこの方34年、子供が欲しいと思ったことがなかった。
そして、ありがちだが、子供が可愛いとも思えなかった。
結婚はしていたものの、それと子を産むことは当然私の中でイコールではなかった。
子のない人生、それもまたよし、むしろよりよし、と思っていたので、自分がまさか母になるとは思ってもみなかった。
しかし、人生いつ何が起きるかわからぬもので、私は35歳を目前に私は初産に臨む妊婦になった。
 

 
夫とは、高校生からの知り合いで、20代で結婚したものの、互いの仕事を尊重する形で別居婚を選択していた。それゆえ、2週間に一度京都と仙台を行き来する生活が続き、あっという間に子のないまま結婚生活10年を迎えた。
あまりにも、お互いの生活に関与しないスタイルを取り続けていると、なぜ結婚しているのかやはり疑問に思うことも多くなった。
また、私の強い意向もあって、子供はつくらないということを選択し続けてきたものの、実は、夫の方は、いつかは子供がほしい人だった。
私が頑固なのも織り込み済みとはいえ、どこかで母性を期待していたのか、辛抱強く私の心変わりを待ってくれていたようだった。
 
しかし、私がちょうど34歳を迎えた春、夫はついにこう言った。
「今ならお互いやりなおせるし、離婚しよう」
ちなみに、その時夫は一歳年上の35歳だった。
実は、いわゆる離婚話も、これが初めてのことではなかった。
 
高校時代からの顔馴染み、しかも部活の先輩、後輩だった私たちは、趣味も同じで、友達のように仲のよい夫婦だった。
それでも、互いの子供にたいする価値観の違いは、時がたてばたつほど決定的な喪失感につながってゆき、埋めようのない溝となっていた。
 
そんなことを、2年以上感じ続けていた折の申し出だったこともあり、私はその申し出を承諾した。
もっとはやく決断できたと思いながらも、ここまで悩みながらも共に歩んできたことに後悔はなかった。
二人仲良く離婚届を提出し、互いの再出発を応援しあう気持ちだったと思う。
 
そう思っていた矢先に、猛烈な勢いで、私の子供に対する考え方に変化が訪れた。
今まで、仕事での充実感がすべて、自分のためにいくらでもがんばれる、そんな気持ちで働けてきたのに、その一切が虚しいものに感じるようになってしまったのだ。
 
もちろん、離婚による脱力感もどこかであったに違いないのだが、なにか別次元で自分の存在がいかに儚いものかを叩きつけられるような日々だった。今までは、終電で帰っても、その後仕事とは別の自分のための時間を楽しみに過ごせていたのが、それもすべて孤独で無気力なものになってしまった。
 
自分には、仕事によって何か生み出せるものはない、そんな思いに囚われる中、はたと、後世に命を残す、という偉大な可能性に思い至った。
何を今さら、とお叱りを受けるかもしれないが、こうでもしなければ、私は子供に対する考えを変えることはできなかったのだと思う。
 
突然の改心をしたものの、なにせ父候補に一番近かった元夫とは、離婚したばかりだ。
今から、もう一度子供を授かるために相手を探すなどという時間は35歳を目前にした私には、多くは残されていなかった。
と同時に、なぜか私はもしも子供が授かれるならば、父親は元夫が一番いい、と思っていた。
それは、長年連れ添った信頼感はもちろんのこと、本当に子供が欲しいと思っているのを誰よりも知っていたからだ。
彼は、何しろ子供が欲しくて、それを叶えてくれる相手を探すに至ったわけなので、もし私がその相手になったとしても、むしろ色々な手間が省けていいのではとさえ思った。
 
今となっては、何を血迷ったことを、と自分につっこみをいれたいところ満載だが、当時の私には色々な意味で余裕がなかった。
なので、恥をしのんで、私は元夫に連絡をとった。
離婚したばかりで申し訳ないが、すっかり子供に対する考え方が変わったこと。
そして、何より私はもしも子供がもてるならば、相手はあなたが良いのだということを、半ば強引に伝えた。
 
すると夫は、当初は会うのすら拒否していたが、あまりの私の勢いに押されて、一度話を聞いてくれることになった。
タイミングの良いことに、彼はすでに気になる人がおり、食事に誘ったところだったが、振られたばかりだった。
本音のところは今でもわからないけれども、私とは違う意味で傷心だった彼は、子供をもつということを前提に、晴れて私と再度付き合ってくれることになった。
 

 
離婚してから3ヶ月もたたないうちの話だったので、まずは互いの両親には内緒にしていた。
そして、もし子供を授かれなかった場合には、再度籍をいれることはしないという前提で、なぜか離婚してから、正式に同居を始めた。
 
ここからは、神に感謝するしかないが、なんと私は3ヶ月を待たずに妊娠した。
しっかり子作りをしたことはなかったうえ、年齢も決して若くはなかったので、いざとなったら再度の解散も覚悟していたなか、本当にありがたいことだった。
しかも、何と出産予定日が私の35歳の誕生日だった。
何かの啓示としか思えないこの采配に、とにかくこの授かった命を守り切ろうと決意を新たにした。
 
それからは順風満帆だったかというと、そんなわけはなく、あれほど子供がいれば満足であるといった風情だった彼との諍いも多々あった。
やはり、一度は離婚を選択した夫婦、子供のこと意外にも当然互いへの不満はあった。
それが、噴出するたびに、一人子供を育てる覚悟もせねばならなかった。
なにせ、生まれるまでは籍をいれていない事実婚夫婦だ。
胎教には程遠い、いわば他人との同居生活に、正直神経はすり減った。
 
さらには、ほぼ(というか実際に)高齢出産であることを踏まえて、万が一の場合に備えて、大きな病院での里帰り出産の手配をし、さまざまなネガティブな情報と戦わねばならなかった。
実の母だけには、胎児の父は間違いなく離婚した元夫の子だと伝えていたものの、それ以外の人はよく事情も分からぬままだったと思う。
 
またどんな妊婦さんも体験することだと思うが、とにかく自分のお腹の中かからちょっとしたスイカのような大きさの物体を生み落とすというのは恐怖でしかないわけで、痛みやリスクに対する体験談は参考になるものの、不安を増長させるものだった。
 
さらに、初産でありがちな予定日を過ぎてもなかなか生まれてこなくて、帝王切開になったり、陣痛を起こして強制的に分娩を促したりといった体験を読むと、24時間を超えての大手術で一睡もできずに疲労困憊という声も聞こえてきたりする。もう徹夜とか絶対に無理なお年頃だったので、どうにか省エネで挑まねばならぬと思っていた。
 
特に、私は胎児の成長がやや遅く、予定日が近づいても2,500グラムに達せず、これは確実に誕生日を超えてのお目見えだと思い込んでいた。なので、どうか少しでも母子ともに負担なく出産が終えられますように、何があってもがんばろうね、とまだ見ぬ胎児と励まし合って過ごしていた。
 

 
そんなわけで自業自得とはいえ少し特殊な状況の中、出産予定日まであと6日と迫った朝。もういつ生まれてもおかしくないとはいえ、依然小さめの我が子をお腹に、まだまだ会えるのは先になりそうだと定期検診に向かった。
 
そこでもいつものように「まだ小さいね」と言われるかと思っていた。
しかし、なんと「破水しているね、すぐ入院しましょう」と主治医に伝えられ、にわかに慌ただしく出産の準備をすることになった。
 
「今夜いっぱい様子を見て、陣痛が来ないようだったら明日促進剤で、産むことにしましょう」
と告げられた。
破水しているということは、赤ちゃんが住んでいる羊水が漏れ出ているということで、あまりにもそれが進むと、赤ちゃんが苦しくなってしまう。
なので、なるべく早く産んでしまわないといけないのだ。
 
思ってもみなかった展開に、動揺する間もなく、泣いても笑っても明日の今頃には念願のご対面なのだと、自分に言い聞かせた。
 
お腹がどんどんふくらんでも、どこかで本当にこの中でもぞもぞ動いている命と会える日がくるのだろうか、とファンタジーじみたことを考えていたり、この小さな生命体と一緒の日々がいつまでも続けばいいのに、などと思っていたが、そんなことはなく、いよいよ声を聞く日が迫っているのだ。
 
その日は夕方になっても陣痛らしきものもなく、もしも陣痛が来なかったらどうしようと思いながら床についたが、真夜中に今までに感じたことのない鈍痛をお腹に感じて、目が覚めた。
念の為助産師さんにその旨伝えたものの、まだ間隔が長いということで、いったん眠ることにした。
 
私の戦略としては、とにかく寝れる時に寝て、耐久戦に備えてエネルギーを温存することだった。
なので、耐えられる程度の痛みであれば、とにかく寝ようと思っていた。
こんなところで、どこでも3秒で寝られる特技が活かせるとは思わなかった。
 
翌朝7時にいよいよ10分間隔に迫ってきた痛みの様子を見て、分娩台へ移動することになった。
この時には、朝一で病院に駆けつけた仮夫も、立ち会ってくれた。
この10ヶ月あまりの目まぐるしい出来事に想いをはせる間もなく、まずは無事に出産を終えること、そしてこの感じたことのない痛みから解放されることを願って言われたとおりに、いきんだ。
 

 
そこからは、私の中ではほんの10分程度のことだったように思う(実際には2時間はゆうにかかった)。
「まだいきまないで、先生くるから、がまんしてね」
と助産師さんに声をかけられ、
(……がまんするパターンは体験談になかったな)という思いがよぎりながらも、最後先生の合図で思い切りお腹に力を込めた。
 
その瞬間、
「……ンニャー、ンニャー!」という大きな産声が聞こえてきた。
小さいながらも真っ赤な顔で力強く泣く小さな命に、本当によくがんばったね、
とつぶやいた。
そして、なによりこの世に生まれてきてくれたことに、「生きててよかった」と同時に思った。
色々な可能性がありえたなか、私たちの元に生まれてきてくれたことに何度でも感謝を伝えたかった。
 

 
私の誕生日を5日前にして、やってきてくれた我が娘。
仮夫も正式にこの子の父となり、親子三人での生活が始まった。
義父母にはひととおりの事は言われたが、それでも新たなスタートを応援してもらい申し訳なくもありがたく思っている。
 
先日、3歳の誕生日を迎えていよいよ子供がいる生活がこれからの人生の形なのだと思えるようになってきた。
少し遠回りをしてしまったが、こうして自分のためではなく、自分以外の大切な人のためにがんばれるということを知れたことは自分の中での大転換だった。
 
後にも先にもこのような体験はもうないだろうと思いながらも、こうした機会が巡ってきたことに人生の不思議を感じる。
そして、こうだと思い込んでいる事でも、何かの機会をきっかけに人はいくらでも変わり得るのだということも同時に感じている。
 
願わくば、これから先もそれらを、面白おかしく楽しんでいけたらと思う。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
服部 花保里(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

愛知県生まれ、京都市在住の東北ラバー。
2011年に縁あって宮城県仙台市に人生初の引越し。4年間東北6県を営業車で駆け巡った元広告営業マン。以後、全国を転々とするも、東北の寒さと温かな人たちが忘れられずすっかり東北のトリコに。この経験を通じて地域の力になる仕事を広くしていきたいと思い、現在は地域での起業支援にたずさわる。同時に、全国各地を旅行がてら走り回るなんちゃってランナーでもある。

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2021-05-24 | Posted in 週刊READING LIFE vol.129

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