週刊READING LIFE vol.130

旅は身軽に《週刊READING LIFE vol.130「これからの旅支度」》

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2021/06/06/公開
記事:西野順子(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
「えっ、荷物はそれだけ? 少ないね」
泊まりがけで旅行などに行った時に、一緒になった人によくこう言われる。ふだん重い鞄を持ち歩いているのとは対照的に、私の旅の荷物は少ない。荷物が重いと動くのがおっくうになるから、ダイエットさながら、旅行カバンの中身は絞れるだけ絞っている。
 
自分流の持ち物リストにしたがって、貴重品、洗面用具などを詰めた後、一番面倒な洋服と靴を決める。旅先の気温の変化を考えながら、必要そうな衣服をすべて並べて、1着ずつ取り出しては、どうしても必要か、他のもので代用がきくかを判断してカバンに詰めていく。ほとんどプチ断捨離だ。気を抜くと、すぐカバンには入りきれないぐらいに多くなるから、荷造りには時間がかかる。荷物のパッキングはかなりの苦行で、ワクワクする旅行に行く前に乗り越えなければならない壁なのだ。
 
旅の荷物と言えば、私にはお手本にしたい人がいた。20代の頃に、ユースホステル協会主催のツアーで中国の四川省からチベット、ネパールを巡る旅に参加した時にあった女性だ。そのツアーの参加者はほどんどが20代で、一人で参加していたし、旅行好きばかりなので、初対面とはいえ旅行の話なで盛り上がってみんなすぐに仲良くなった。中に一人だけ少し年の離れた旅慣れた感じの優子さんという女性が参加していた。
 
空港で手荷物を預けてチェックインした時、みんなが大きな荷物を預けているのに、優子さん一人だけ荷物を預けない。見ると日帰り登山に使うぐらいのちょっと大きめのリュックを背負い、布製の軽そうなエコバックのようなカバンを肩からかけている。それ以外に荷物はない。
 
「えっ、荷物はそれだけなんですか?」
あまりの荷物の少なさに驚いて私は訪ねた。
「ええ、そうよ。旅行にあんまり大きな荷物を持ってくると、重くて動けなくなるでしょう。だからなるべく荷物はコンパクトにしているの」
「でも一週間ですよね。それなのに荷物たったのそれだけなんですか?」
「ええ。なんとかなるものよ」
 
私も頑張って荷物を減らしてきたが、、結構大きめのバックパックに荷物がぎっしり入っていてまあまあ重かったから、私の半分以下の荷物で旅ができてしまう彼女が信じられなかった。なんでこんなにコンパクトにできるんだろう? 後で落ち着いたらゆっくりと話を聞いてみよう。
 
次にセキュリティチェックで、優子さんの荷物が通ったときにキンコンキンコンとアラームが鳴った。 あんなに荷物が少ないのにいったい何でひかかったんだろう? と興味を持って見ていると、鞄の中からイワタニのガスコンロのガス缶のようなもの3本が取り出された。どうもそれが引っかかったらしい。彼女は空港の人と何かをやり取りしていたが、結局その缶は没収されたようだった。
 
彼女と一緒になると、私は興味を抑えられずにすぐに聞いた。
「さっきセキュリティチェックで引っかかったみたいでしたけど、どうされたんですか?」
「酸素の缶を持って来てたんだけれども、持ち込めないって言われたのよ」
「酸素の缶 ? 何ですかそれ?」
「酸素を詰めてある缶よ」
「そんなものがあるんですか? なんで持ってこられたんですか?」
 
荷物を極限まで少なくしている人が、かさばる重そうな酸素缶を3本も持って来たというギャップの大きさに、私の頭の中にはクエスチョンマークが飛びまくっていた。
 
「今回の旅でラサに行くでしょう。 あそこは空気が薄いから、息苦しくなったら辛いじゃない。だから用心のために持ってきたのよ」
「へえー!」
 
心底驚いたと同時にすごいと思った。私もラサに行きたかったから今回の旅に申し込んだのだった。チベットの標高が高く、 空気が薄いというのは知っていたが、酸欠で息苦しくなるかもしれないなんて、私はこれっぽっちも思いつかなかったのだ。もしかしたらパンフレットには書いてあったのかもしれないが、全く気付いていなかった。
 
酸欠がどんな状態かはその時の私にはわからなかったけれど、彼女の持ち物リストを重要度の高い順に並べた時、酸素缶は上位のほうににあったのだろう。必要でないものは徹底的に減らして、必要だと思うものは重くても持って行くというメリハリが見事だなと思ったのだ。後から聞くと優子さんのご主人はお医者さんだそうで、酸素が薄くなったらどうなるかとかいうことがよくわかっていらっしゃったのだろう。

 

 

 

そしてツアーが始まった。最初に行ったのは、中国の四川省。パンダを見に行ったら、日本では見ることがないくらいたくさんのパンダがゴロゴロしたり、子供のパンダが気にぶら下がって遊んだりしていて、ずっと見ていても見飽きないくらい可愛かった。夕食には四川料理の火鍋というしゃぶしゃぶのような鍋料理。真っ赤なスープの中に、野菜や肉などの具が入っていて、湯気からはスパイスの匂いが漂う。見るからに辛そうだ。こわごわ箸を伸ばして野菜を口に入れてみると、飛び上がるくらいに辛い。顔中が口になったみたいに辛さが脳天を直撃する。みんな大汗を吹き出しながら無口になって食べていた。火鍋とはよく名づけたもので、これだけ辛いものはその後も食べたことがない。
 
優子さんは、見ていると毎日同じ服を着ているようだった。えんじ色の丸襟の膝よりちょっと上まであるゆったりした長袖のスモックのような上着に、細めのパンツとスニーカーという格好だ。優子さんは服をほとんど持ってきていないんだろうか?
 
私は彼女に聞いてみた。
「洋服ってどれぐらい持ってきていらっしゃるんですか?」
「上着はこれだけよ」
優子さんは、着ていたエンジ色の上着を指して言った。
「この服はね、とても便利なの。風通しもいいし、薄いから洗濯してもすぐ乾くの。ゆったりしてるから下に結構分厚いものでも着れるしね。日焼けしたくないから、私は夏でも旅先ではずっとこの長袖を着ているわ。暑いところでは下にタンクトップ1枚だし、寒いところでは厚手のセーターを着るの。下着なんかも少ない枚数で毎日洗濯しているの。こっちは乾燥しているから、ホテルで上着を洗濯しておいたら、翌日乾くしね。代わりの上着は必要がないのよ」
 
なるほどなぁと思った。、めちゃくちゃ合理的だ。私は寒い時のために厚手の上着を持ってきたので、それだけでも結構かさばった。寒暖両方に使える薄い上着で、中に着る服で調節するというのは考えたことがなかった。こういう逆転の発想ができるといいいなあ。私は優子さんのファンになっていた。

 

 

 

翌日、四川省を出て今回の旅のメインの目的地であるチベットの都、ラサに向かった。ラサの標高は3700m。いきなり飛行機で富士山の頂上に降り立つようなものだ。空港で荷物を取り、中心部に向かう。途中で五体投地というチベット仏教独特のお祈りをしている巡礼者の人たちを見かけた。おそらくチベット仏教の聖地のポタラ宮を目指しているのだろう。しばらく行くと抜けるような青空の下にそびえる壮大なポタラ宮が見えてくきた。王宮の前にも五体投地をして祈りをささげる人々がたくさんいる。あまりにもハードそうな動きなので、あとで私もホテルで五体投地のまねをやってみたが、一回やっただけで息が切れるようなハードな運動だった。チベットの各地から気が遠くなるような時間をかけて、ここまで五体投地をしながら来る人々の想いの尊さ、熱さを目の当たりにして、心を打たれた。
 
その日は、チベットの市内をバスでまわったあと、ゆっくりとホテルで休み、翌日ポタラ宮に行くことになっていた。その日の夜に、ツアーの仲間の何人かが、頭が痛いと言い出した。優子さんも、ちょっと気分が悪そうだった。
 
聞くところによると、四川省からラサまで陸路を車で上がって来る場合にはそんなに問題はないそうだが、時間のない観光客は飛行機で一気に3700 M まで上がるので、空気の薄さに体が急に順応できずに高山病になる人も多く、ラサには旅行者専用に酸素ボンベを備えた施設というのもあるらしい。
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私も同室の女性もその日は大丈夫だった。二人とも、翌日の午前中のポタラ宮の内部の観光までは元気にしていたのだが、午後になるとだんだんと寒気がして、気分が悪くなってきた。しばらくすると、頭がズキズキして、 胸がムカムカして吐き気がする。とりあえずホテルのベッドに横になるのが精一杯だった。これが高山病というものなのだろうか。
 
にぎやかだった前日の夕食とうってかわって、その日の夜は、みんな青い顔をして、まるでお通夜の席であるかのように黙々とご飯を食べていた。私もあまり食べたくはなかったが、無理に少し食べて、すぐに部屋に帰ってシャワーを浴びた。空気がものすごく乾燥しているらしく、シャワーを浴びて出てきたら、魔法にかかったみたいに一瞬にして体が乾くし、濡れたタオルなんかもあっという間に乾いてしまう。シャワーを浴びてもまだ吐き気がするが、とりあえず寝るしかない。横になっても、まだ頭がガンガンして、とても眠れない。高山病ってこんなしんどいものなんだ。
 
翌朝、頭痛は少しましにはなっていたが、まだ胸がむかむかした。
優子さんも、その朝会った時には
「昨日の晩は床に寝たのよ。ほんの少しでも標高が低い方がましかと思ってね」
と言っていた。初日からずっと青い顔して頭が痛い、頭が痛いと言っていたので、相当きつかったんだろうなと思う。空港で酸素缶を取り上げられたのは本当に気の毒だった。
 
その日は、朝食後にラサを出発してネパールのカトマンズに向かう予定だった。ラサはもう少しゆっくりと見てみたい気もしたが、やっとこの頭痛から解放されると思うと嬉しかった。飛行場へ着き、荷物を預けて、飛行機に乗ったが、どれだけ待っても全然飛行機が飛ばない。
 
あれっと思っていると、機体不良で今日は飛べないという。仕方なく、またホテルにもう一泊することになった。しかも、預けた荷物をその時は返してもらうことができず、機内に持ち込んだ手荷物だけで一泊を過ごさなければならなかった。
 
もともとその日の夕方にはネパールのホテルに着くはずだったから、手荷物の中には着替えも洗面道具も何もなかった。日本と違って、ホテルにアメニティはない。ふだん物に囲まれて生活しているとわからないが、普通にあるべきものが何もないというのは、何をするにも不自由だ。
 
優子さんだけは荷物をすべて機内に持ち込んでいたから、ホテルでも普通に過ごしていて、私たちが困っていると、必要なものを貸してくれてとてもありがたかった。
 
ラサの思い出として残ったのは、チベット仏教の信者さんの敬虔さやポタラ宮の壮麗さ。そしてそれ以上に強烈に印象に残っているのは、空気が普通にあって普通に呼吸できることが、どれだけありがたいことなのか、必要なものが身のまわりにあることが、どれだけありがたいことなのか、を痛感したことだった。当たり前にあることに感謝しなきゃなあ、と思ったのだ。

 

 

 

この時以来、私は必ず機内持ち込みの手荷物には、一泊旅行をするのに必要なものはすべて入れるようにしている。 これまでにも悪天候や機体の故障で飛行機が飛ばなかったり、オーバーブッキングで飛行機に乗れなかったり、預けた荷物が到着地で出てこなかったということも何回かあったが、一泊旅行ができる荷物を持っていることで、特に困ることもなく旅行することができた。
 
そんなこんなで、困ったことやトラブルも含めていろんな経験が年輪のように積み重なり、時代の変化もあって、私の旅支度も変わってきた。例えば昔はガイドブックや、ホテルや機内で読む本も何冊も持って行ったが、今ではすべて電子書籍に変わって、コンパクトになった。
 
最近の旅行で必須になったものがスマホと現地のsimカードだ。目的地に着いた時に、simを差し替えると、すぐにネットがつながる。そうするとふだんと変わらず情報が取れるのでとても便利だ。しかし、ネットのおかげで旅先にも遠慮なしに日常が入ってくるようになったし、旅行自体もかなりネットに依存するようになった。電車の時間を調べる、電車のチケットを買う。電車や劇場のチケットもe-チケットだ。地図を見たり、道を調べたり、ありとあらゆることにネットを使う。昔は必ず持ち歩いたガイドブックや現地の地図も持ち歩かなくなったから、万一ネットが使えなくなった時、立ち往生するのは目に見えている。考えてみると旅行中のネット依存はかなり危険だ。
 
本来、旅は未知との出会いであり、未知を楽しむことだった。知らない土地に行って、そこの天気、空気、時間の流れを感じる。地元のスーパーに行って、野菜や果物を見る。日本では見たこともないような果物や野菜がたくさんあって、見ているだけでも楽しい。天気の良い日に街の公園のベンチに座って、ぼーっと日向ぼっこをしながら、子供たちが遊んでいるのを眺める。大衆食堂に行って、まわりの人が食べているもの見ながら、指さして同じ物を注文してみる。バスや電車に乗るときは、目的地を間違えたら大変だから、ドキドキしながら乗る。ホテルに帰ってからも、電機がつくか、お湯はちゃんと出るかと確かめてみる。ふだんやっていることが、初めて行った土地で同じ事をやると、ちょっとワクワクドキドキする冒険になる。
 
ネット環境は便利だが、どこにいてもすぐに日常に戻ってしまうだけに、旅先での未知のものとのワクワクする出会いや驚きが少なくなった気がする。 私が一泊旅行をするのに必要なものを手荷物に入れることで快適な旅行ができるようになったように、今後の旅をより楽しむためには、ネットがなくても旅が快適にできて、楽しめるような準備をしておくことが必要かもしれない。
 
たまには一日中ネットから離れて、その場でしか味わえない未知との出会いを楽しんでみよう。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
西野順子READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

神戸出身。電機メーカーで人材開発、労務管理、採用、システム開発等に携わる。2020年に独立し、仕事もプライベートも充実した豊かな生活を送りたい人のライフキャリアの実現を支援している。キャリア・コンサルタント、社会保険労務士、通訳案内士

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

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2021-06-07 | Posted in 週刊READING LIFE vol.130

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