週刊READING LIFE vol.133

あなたの暖かい心はとっておいてください《週刊READING LIFE vol.133「泣きたい夜にすべきこと」》


2021/07/05/公開
記事:大多喜 ぺこ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
あなたの暖かい心はとっておいてください
私は今そんなに不幸でない
かつての幾月も幾月も惨めな物思いを続けた時に
なぜ一人も
そんな言葉で私を慰める人がなかったのだろう
今の心をそのまま後の日の私の為にとって置いてください。
やがてそのうち私は、何時もの通り不幸せになって
怯えて寒々と暮らしているでしょう。
その時には、私が言い出せずにいても忘れぬように今の言葉をかけて下さい。
あなたの所には、いつも暖かい巣があったのを思い出させて下さい
 
『伊藤整詩集より「後の日に」』

 

 

 

泣きたい夜には、伊藤整の詩を読む。
特に「後の日に」という詩が好きだ。
悲しみに遠慮なく浸れるし、私には、暖かい巣があることを思い出させてくれる人もいるという希望も持てる。

 

 

 

中学の頃、隣のクラスの男子生徒に憧れた。
いわゆるスポーツ万能、成績優秀な、絵に描いたような優等生だった。
興梠泰伸。
私の所属するバレーボール部のコートは、道路を挟んだ「飛び地」と言われているグランドだった。
一年生の仕事であるボール拾いをしながら、目は、メインのグランドで練習しているサッカー部の彼を金網越しに探していた。
 
どんな人混みの中からも彼を見つけることができた。
 
隣のクラスだし、話したことはない。でも、廊下ですれ違う奇跡のあった日は、それだけで、1日幸せだった。
誰にも言っていない秘密。初恋だった。
憧れだから、それ以上、どうなりたいともどうしたいとも考えたことはなかった。大体、彼は、私の存在すら知らないかもしれない。
 
来年は、同じクラスになれますように。
願いと言ったらそのくらいだ。
しかし、10クラスもある大規模校では、やはり二年生になっても違うクラスだった。それどころか、隣ですらなく、階まで違っていた。
すれ違うのは、さらに奇跡になっていた。
 
1年生からレギュラーの彼は、よく一人で残って練習をしていた。
プライドの高い彼は、スポーツも勉強も努力を惜しまなかった。優等生で居続けるのは大変なことだ。
ボールが見えなくなるような薄暗闇の中でも、私には彼が見えた。
 
「ね、どんな人混みの中からでも、好きな人がわかるのと、会う人みんなが好きな人に見えちゃうのとどっちがより好きなんだと思う」
 
視力の弱い友達は、男子生徒全員が好きな人に見えてしまうのだそうだ。
そんなたわいもない会話をしながら、私たちは、幼い恋のワクワクを楽しんだ。
 
そんな彼と急激に接近したのは、ともに生徒会の執行部を任命されたからだった。
彼は生徒会副会長。私は書記だった。
 
選挙で選ばれた会長と2名の副会長。それに、職員会議で任命された書記4名。
週に一回の放課後の執行部ミーティング。
奇跡を待たなくても、定期的に彼と公然と会える時間ができた。
 
執行部メンバーは仲が良く、ミーティングの日でなくても、放課後は執行部室にたむろしていた。
しかし、サッカー部の主要メンバーである彼は、会議が終わると飛び出すようにグランドに行ってしまう。
「興梠は、サッカー部のエースだからな」
と他のメンバーも彼を引き止めることはなかった。
 
そんな彼が、部活に直行しないで、執行部室で時間を潰すようになった。
たまたま二人きりになった時、
「最近、ここによく来るようになったね」
「うん。部活がちょっと負担なんだ。生徒会の仕事をしていましたっていうと叱られないだろ」
「部活嫌なの」
「好きだよ。でも、勝ち続けると、受験勉強ができないじゃない。俺、志望校ギリギリなんだよね、今。だけど併願して受験するのは嫌なんだ」
 
彼は地元では1番の進学校を目指していた。
そこ以外は彼のプライドが許さないのだということもわかった。
併願で私立高校を滑り止めに受けておくことすらも彼のプライドは許さなかったのだ。
 
「ふ〜ん」
二人で黙って、窓辺に並んで、夕焼けの空を見ていた。
 
そんなことがあってから、私たちは急速に親しくなった。
 
「いや〜な男」
「そっちこそ、いや〜な女」
 
私たちは、会うと軽口を叩き合う関係になっていた。
 
ある日、彼が、執行部室に逃げ込んできた。
「後輩の女子に追いかけられている。部屋には入れないで」
と戸棚の陰に隠れた。
 
「興梠先輩いますか」
「いないよ」
「さっき、入ったと思うんですが」
「あ、来たけどすぐ出てったよ。何か用?」
「ちょっと渡したいものがあって」
手には、いかにもラブレターとわかる封筒を持っている。
「預かっておこうか?」
「いいです」
「あ、ごめんね。今からミーティングだから、ドア閉めても良い?」
 
後輩の女生徒が付き添いらしき友達と去って行ったのを確認して、
「もう、大丈夫。でてきていいよ」
「サンキュー」
「手紙ぐらいもらってあげれば良いじゃん」
「どうせ読まないし、返すのも面倒だから」
「え、返すの?」
「好きでもない子の手紙もらっても処分に困るだけでしょ。捨てるわけにもいかないし」
 
ついぞラブレターなどもらったことのない私は、へ〜そういうものなんだ。と妙なところで感心した。
 
その一件があって、私はますます告白する勇気を失った。
友達でさえなくなってしまうのはさびしすぎた。
そんな馬鹿げた行動さえしなかったら、彼にとって私は、多分、最も親しい友達の一人でいられたから。
 
別々の高校に進んだが、私の中で相変わらず彼はスペシャルな存在だった。
 
ボーイフレンドらしき人が現れても、彼と比べると色褪せて見えた。憧れは、どんどん妄想に膨らんでいって、もはや、無敵な存在になっていた。
 
時折、彼の通学路と、私の通学路の接点で、すれ違うことがあった。
遠くからそれがわかると自分でも驚くぐらいにドキドキした。
そのくせ、すれ違いざまにニヤッと笑って
「いや〜な男」
「いや〜な女」
と悪態をつく。
その一瞬の記憶で、数日、幸せでいられた。
 
個人的に会うこともなく高校時代も終わった。
ただ、年賀状だけは送りあっていた。
 
高校の途中で、あれほど好きだったサッカー部を中退し、志望する大学へも入れず浪人しているという噂を聞いた。中学の彼からは想像もつかなかった。
二浪して、さすがにこれ以上はということで、不本意な大学に入学したという噂も聞いた。
 
彼の挫折に密かに心を痛めていた。
その頃になると、親密な関係のボーイフレンドもできたが、結局、最後に踏み切れないのは、初恋を引きずっていたからだった。
私の親友たちは、彼が相変わらず私の憧れの人であることを不思議がっていた。
 
「何年も会っていないんでしょ」
「そう」
「今、どんな人になっているかもわからないのに、よく、ずっと好きでいられるね」
 
本当にその通りだった。
 
そんなある日、アパートに帰ると分厚い封筒が届いていた。
差出人を見ると「興梠泰伸」。彼だった。
あいかわらず几帳面な綺麗な字。どきりとした。
震える手で封を開けると、中には6枚もの便箋が入っていた。
 
中には、大学で挫折をしたこと。授業に出ないで学生自治会の活動に没頭していること。その活動をしていると中学の頃の執行部の活動が思い出されたこと。懐かしくなって数年前の年賀状の住所を頼りにアパートまで来てみたこと。そのくせ、表札に私の名前を見つけたら、急にドキドキして、慌てて離れて帰ったこと。などが綿々とかかれていた。
 
すでに社会人になっていたが住居を変えていなかったことが幸いしたのだった。
 
泣きながら何度も読み返して、そして、泣きながら返事を書いた。
そこで、初めて中学の頃から憧れていたことを告白した。
この日が来ることを、ずっと心のどこかで信じて待っていたような気がした。
 
日を空けずに返事が来た。
 
会いましょう。
 
私たちは、渋谷で待ち合わせをした。
私のボトルがキープしてあるパブに行き、私たちは取り止めのない会話をした。
「いつもこんなところに来てるの」
「友達と飲むときはね」
「高そうだなあ。学生では来られないよ」
「そんなに高くないし、ボトルが入っているから大丈夫」
 
お酒が入ると彼は中学時代を語り始めた。
「あの時さ、林間学校で、フィールドワークをしたじゃない」
私たちが親しくなったのは、そのフィールドワークの関所を守るペアになったこともきっかけだった。
最後の方の関所担当だったので、生徒たちがやってくるのを待つ長い時間を二人きりで過ごした。「こんなしかけしておこうか」「こんなふうにいじわるしようか」
などと関守ふたりは、大いに盛り上がった。
 
「あの時、山下先生に俳句ほめられたんだよね」
彼は、中学の時に作った俳句をまだ覚えていてそれを教えてくれた。
「へえ、よく覚えているね」
「数学の武藤先生、いつも、叱ってばかりなんだけど、不思議と僕は怒られたことがなかった。むしろ、この問題もわかるのかって、褒められたりしたなあ」
 
10年の年月は、彼を別人に変えていた。
彼は、自分がいかに中学の時に優秀で、先生たちに認められ、重要な存在であったかを話し続けた。
 
高校でサッカー部を中退して以来、挫折感を味わっている彼のピークは中学時代だったのだ。
その時代を共有できてしかも自分にあこがれていたという相手が目の前にいる。
彼が、その頃の栄光を語れば語るほど、私の気持ちはどんどん冷えていった。
私には、彼の時間が中学で止まっているようにみえた。
 
誰と付き合っても、興梠くんと比べると色褪せて見えたこの10年間。
「もう一軒行こうか」
という誘いを断って、帰路についた。
心の中の動揺をどう処理して良いかわからなかった。
きっと能面のような顔をして電車に乗っていたと思う。
 
アパートの最寄駅に着くと、雨が降っていた。
私は濡れながら歩き出した。急に涙が溢れ出てきて止まらなくなった。
それを拭く気にもなれずに、雨に任せて泣きながら歩いた。
 
急に雨が止まった。サラリーマン風の男性が、ずぶ濡れで歩いている私にそっと傘を差しかけてくれたのだった。
相手の顔も見ずに、声も立てずに私は、さめざめと泣きながら歩いた。
彼は、早すぎもせず遅すぎもしない歩調で、私に傘を差しかけながら歩いてくれた。
その数分がとても温かかった。
アパートへの角を曲がる時、私は、小さくお辞儀をした。
「こっちなので」
私は振り返りもせず、また、雨に濡れながら泣きながら歩き続けた。
 
興梠くんから手紙が来たが、もう、返事をすることはなかった。
 
会わなければよかった。いや、会ったからこそ、次の一歩がふみだせるようになったのだ。これはこれでよかったのだ。
思いは複雑だった。
 
風の便りに、その後、留年を繰り返していた大学を中退して、故郷に帰ったと聞いた。
プライドの高い彼が、どんな思いでその選択をしたのかと思うと、胸が痛かった。
しかし、私の中で、彼は過去の思い出になっていた。

 

 

 

そして、それから40年がたった。
出張の帰り道に実家に立ち寄った。
スーツ姿にキャリーバック。同級生が定年を迎える中、私は、フリーランスの講師として、いまだに仕事を続けていた。
 
歩いても15分程度の道のりだが、荷物もあったので駅からタクシーに乗った。
 
「コロナの影響で、新幹線ガラガラでした。この業界もたいへんでしょう」
と、行き先を告げた後、運転手さんに話しかけた。
 
「コロナと関係なく、街が寂しくなってあんまりタクシーに乗る人がいなくて大変ですよ」
 
その時、ふと、助手席の後ろに貼ってある運転手さんの名前が目に入った。
「興梠泰伸」
 
こころがざわざわした。この珍しい名前は、そうそうあるものではない。
斜め後ろから見ると、初老の運転手さんに、確かに彼の面影が残っていた。
 
私であることに気づかれないように、東京から来たお客さんのように装いながら会話を続けたが、心臓のバクバクが聞こえているのではないかと思った。降りた後でも、動揺が隠せなかった。
 
あの後、彼が、どういう人生を送ったのか、想像もつかないけれど、実家までの数分間、何気ない会話をかわした運転手さんは、とても落ち着いたおだやかな口調と空気の人だった。
 
誰の人生もそうであるように、彼も私と同じように泣きたい夜をいっぱい過ごしたのだろう。
 
そして、今、人生の折り返しを過ぎて、心穏やかに日々を送れるようになるまでに、「いつも暖かい巣があったことを思い出させてくれる」誰かがいて、支えてくれたのだろう。
それは同じ人だったかもしれない。その時、その時、違う人だったかもしれない。
 
10代、20代の私にとって、彼は「いつも暖かい巣」だった。
会うことはほとんどなかったが、彼の存在は抗らい難いほど大きく、そのせいで私は一歩を踏み出せなかったと思っていた。でもそうではなかった。
彼の存在が、わたしをいつも「暖かく」させていてくれていたのだった。
 
あの時期、わたしは、確かに、彼のことを思うことで、いつも幸せでいられたのだ。

 

 

 

「たまたま駅から乗ったタクシーの運転手さんが、初恋の人だった。気づかれないように振る舞って降りたけど、まだ動揺している」
 
と降りてから夫に電話した。
 
夫は、「ふふっ」と笑った。
今は、夫が、私の「暖かい巣」だった。
そういえば、もうずいぶん長いこと、伊藤整の詩に慰められることがなかったことに気づいた。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
大多喜 ぺこ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

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2021-07-05 | Posted in 週刊READING LIFE vol.133

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