週刊READING LIFE vol.133

店員さんを前に、涙をこらえた日《週刊READING LIFE vol.133「泣きたい夜にすべきこと」》


2021/07/05/公開
記事:廣川陽子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
私はよく泣く。
正確に言うと、20代半ばくらいまではよく泣いていた。振り返ると、そんな自分が恥ずかしくてたまらない。
 
大学生の頃、バイト先の飲食店でドリンクを運んだ際、お客さんに向かってこぼしてしまったことがある。とにかくお客さんに平謝りをし、半泣き状態で店長を呼んだ。店長共々頭を下げ、その場はなんとかおさまった。心の広いお客さんと、店長の真摯な姿のおかげでその一件は落ち着いたのだが、私は裏のバックヤードでしくしく泣いた。
今なら「なんでお前が泣くんだ、泣きたいのはお客さんであり、店長だろうが」と思うのだが、その時は自分のしてしまった失敗にショックを受けたのだ。恥ずかしい。
 
大学を卒業してからは、一般企業で営業の仕事を約2年した。この頃も、随分とよく泣いた。
同じ支店の新入社員8人が会議室に呼び出され、副支店長からあれこれとお説教をされたことがあった。その8人のうち、私は真っ先に泣いた。悲しいやら、悔しいやら、情けないやらで、一人涙が止まらなかった。
今なら「なんで泣くんだ、誰一人泣いてないぞ」と思う。副支店長は、お説教というよりは、何かを気付かせたり、諭したりしたかったはずだ。そういう場だった。
私がその支店を離れて異動する際には、私一人が副支店長に会議室に呼ばれた。がんばれよ、とエールを送ってくれた。その時も鼻水を垂らしズビズビ言いながら泣いた。呆れた副支店長に「君は泣き過ぎや。泣くのをやめなさい」と言われたことは、10年以上経った今でもよく覚えている。ごもっとも。ああ、恥ずかしい。
 
一応言っておくと、私は泣くつもりはないのだ。しかし、色々な感情が溢れると涙まで溢れてくるのだ。私にとってこれは不可抗力だった。泣きたくて泣いているわけではないのだ。コントロール不能なのである。
 
そんな泣き虫だった私も、歳を重ねて涙を止める方法を身につけた。右から左へ聞き流す方法も、気持ちの切り替え方も、自分の機嫌の取り方も上手くなった。30代になって、自分のコントロールがだいぶ上手くなった。
ネガティブな感情に振り回されたり、泣いたりすることがめっきりなくなった。
 
一方でいつの頃からか、綺麗なものを見たり、美しい音楽を聴いたり、楽しい出来事に遭遇したりすると泣きたくなった。
温かい春の日、不意に吹いた風に桜の花びらがふわーっと散る様を見た時。オーケストラの迫力ある生の演奏を聴いた時。(決してクラッシックやオーケストラに詳しいわけではない)1日の終わりに真っ赤な太陽が海の向こうに沈んでいくのを見た時。そんな時、私は決まって胸がいっぱいになって目頭が熱くなってしまうのだ。20代の頃とは全く別のジャンルで泣きたくなるのだ。
とはいえ、今の私はかつてのように所構わず泣くことはないのでご安心を。我慢ができようになった。大人になったものだ。

 

 

 

先日、とある店のレジ前で涙をこらえたことがあった。
仕事の合間に、何気なくフラっと立ち寄ったオーガニック化粧品の店だった。
その日、私は仕事の空き時間に一人で入った飲食店でサッとランチを済ました。職場に戻るにはまだ少し時間があったので、なんとなくファッションビルを通り抜けていた。そして、本当になんとなくとある店に立ち寄ったのだ。今まで買い物をしたことのないブランドだった。
店頭には、ちょっと良い値段のするハンドクリームやボディーソープなどが並ぶ。
何気なくそのおしゃれな商品を眺めていると、「こんにちは!」と声をかけられた。ふと顔を上げると、マスク越しでもにこやかな表情を浮かべていることが伝わってくる店員さんが立っていた。おそらく20代であろう。
 
「あ……こんにちは」
「何かお探しですか?」
「あ、いや、そういう訳ではないんですけど……」
「気になるものはありますか?」
 
普段なら、こういう風に声をかけられるのはとても苦手だ。頼むから放っておいてくれ、と思う。でも、その日は会話が続いた。
厳密に言うと、私は声をかけられるのが苦手なのではなく、距離のつめ方を間違えている人が苦手だ。空気を読めない人が苦手だ。でも、その時のその店員さんはそのどちらでもなく、とても心地よい距離感で寄り添ってくれた。いつもなら居心地が悪くなって、興味のあった商品を見るのもそこそこに店を立ち去るなんてこともよくあった。
なんの目的もなく立ち寄ったお店だったが、店員さんとポツリポツリと会話をしているうちに、友達の誕生日が近いことを思い出し「ここで買おうかな」なんて考え始めていた。
 
「あのぅ、これってどんな香りですか?」
 
ハンドソープを指差して言った。
 
「5種類ありますが、どれもいい香りなんですよ。一回香ってみてください」
 
と言って、奥の方からささっとテスター用のハンドソープを出してきた。そのハンドソープをコットンに少しずつ出して私の前に並べてくれた。マスクを少しだけずらして鼻を近づける。その瞬間、思わず目を瞑りたくなるような、深呼吸をしたくなるような華やかで奥行きのあるバラの香りが広がった。
マスク生活がもう一年半ほど続いている。いつも口と鼻を覆って生活しているので、そういえば「香りを嗅ぐ」とか「深く息を吸う」という行為をほとんどしていなかったように思う。バラの香りに、心がふわっと柔らかくなったのを感じた。その香りがあまりに優しくて、それに感動してしまった。
店員さんはそんな私の心の動きを察したのか、ニコッと笑った。
 
「これは何ですか?」
 
スイッチが入った私は、気になるものを次々に質問した。
 
「あ! これはね、私がこのブランドに入社したいと思ったきっかけになった商品なんです」
「へぇ! これがきっかけで?! 入社を?!」
 
それは、化粧を落とすためのクレンジングミルクだった。
 
「このクレンジングミルクで化粧を落とす時間が1日の癒しで、化粧を落とすのが楽しみになったんです」
 
手の甲に少しだけ出してもらったが、こちらもやはりとてもいい香りがする。バラとラベンダーとその他にも色々な精油が入っているらしい。なるほど、これは癒されるに決まっている。
 
その後も、あらゆる商品を惜しみなく試させてくれ、ちょうどいい分量で紹介してくれた。その度に私が感動していると、その店員さんもニコニコしていた。
 
最初はおしゃれだけど高いなと思っていただけだったが、この短時間でどの商品も魅力的だということが伝わってきた。
でも、私が一番心惹かれたのは接客をしてくれた店員さんの言葉や情熱だ。本当に商品を愛しているのが伝わってきた。もっといえば、ブランドの理念にも強く共感し、それをお客さんに伝えることをとても楽しそうにしていた。その姿に胸を打たれた。自分の愛するものについて語っている人はパワーがある。説得力がある。
もちろん彼女も美容部員という立場上、売り上げ目標もあるだろう。買ってもらってナンボ、ということは私だって百も承知だ。私自身、新卒で営業の仕事をしていたからわかる。だけど、彼女の話からは単なる営業トークだけでないものを感じた。決して押し付けがましくなく、数字に追われた人特有の切迫したものもなく、とにかく愛情たっぷりだった。彼女の実際の意図は測れないが、少なくとも接客を受けていた私はそう感じた。
 
結果的に、私は友達への誕生日プレゼントに加えて、自分用にもあれこれ買い物をした。店員さんの入社のきっかけになったという、癒しのクレンジングミルクも買うことにした。
もともと買うつもりのなかったものを買うのは胸が弾む。心が躍る。こんなご時世になって、こういう買い物の仕方を長らくしていなかった。買い物に行く場所といえば、スーパーとドラッグストア。ネットでの買い物も、普段から使っているもののリピート買い。必要なものだけを買う生活。確かに、無駄な出費は減った。でも、同時に心が豊かになる買い物も減ってしまったように思う。近頃は、ワクワクする買い物をほとんどしていなかった。こんな風に店員さんとの会話の中で、どんどんとその商品に引き込まれ、買う予定のないものを思わず買ってしまうドキドキ感はたまらない。今まで興味のなかったものを新しく知る面白さ。気づけば、その商品にすっかり惚れている不思議。初めて会った人と共通のもので意気投合し、会話が弾む楽しさ。その感覚を久しぶりに味わった。
あまりにも充実した時間だったので、レジ前でお会計をしてもらいながら「楽しいなぁ」とつぶやいたら、胸がいっぱいになってしまった。鼻がツーンとした。涙がにじんで、目の前が歪みかけた。
 
だめだ、こんなところで急に大人が泣いたら気持ち悪いに決まっている。せっかく仲良くなった店員さんに、情緒不安定なやばいお客だと思われる。
すぐに理性が働いて、奥歯をグッと嚙みしめる。すっと涙と感情の波がおさまる。ほっ、大人になったものだ。
 
その日の終わり、家に帰って早速買ったばかりのクレンジングミルクを使ってみた。目をつぶって、深呼吸をする。あぁ、この香り。本当に癒されるなぁ、少し高かったけど買って良かったなぁ。今日もお疲れ、自分。
こんなに心が満たされる買い物があることを思い出し、その夜幸せな気持ちで布団に入った。

 

 

 

数日後、今度はポストの前で涙がこぼれそうになった。
仕事から帰ってきて、いつものようにポストの中身を確認していた。ほとんどがその場でゴミ箱に捨ててしまうようなチラシ。その中にバラの写真のハガキが混じっていた。癖のある、だけど見覚えのない字が並ぶ。送り主を見て、はっとする。あの日のあの店員さんからだった。
この時代に、手書きのハガキだなんて!!
またしても鼻の奥がツーンとする。しかし、ここはマンションのポスト前。ここで泣くわけにはいかない。他の住民に見られたら、危ない隣人だと思われる。急いでエレベーターに乗り自分の部屋の鍵を開けた。靴をぬいで、立ったままハガキに目を落とす。
 
「きっといい顔をしながらスキンケアして下さっているんだろうな〜と思うと、私まで嬉しくなってきます」
 
ふふふ。思わず口元が緩む。
手書きのメッセージって、なんでこんなに嬉しいんだろう。なんでこんなに温度を感じるのだろう。
 
昨年からコミュニケーションの幅や時間が制限されるようになった。あまり気が進まない飲み会に参加したり、煩わしい会話をしたりすることが極端に減り、正直ラクになった部分も大いにある。
だけど、特別でなくても何気なく交わす他愛ない会話の愛しさ、家族でも友達でも仕事仲間でもない人と繋がることの楽しさ。そんなことまで忘れていた。私はこういう温度に飢えていたんだ。あの日のあそこのでの出会いが、自分で思っている以上にとても嬉しかったんだ。
だからこのハガキを手に、今私は泣いているのだろう。家の中でなら、周りを気にせず大人が泣いても大丈夫。一粒、また一粒涙がこぼれた。

 

 

 

20代のあの頃は、ちょっとしたことで傷ついてすぐにメソメソしていたが、いつから私は嬉しいことで涙するようになったんだろうか。どちらにしても「おいおい、なんで今泣くんだ」と我ながら思う。
 
私は涙をぬぐいながら、お風呂場へ向かった。今夜も彼女が薦めてくれたあのクレンジングを使おう。泣きたい日も、嬉しい日も、きっとあの香りが私を包んでくれる。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
廣川陽子(ライターズ倶楽部)

兵庫県出身。ラジオパーソナリティー、ナレーター、 MC。
大学卒業後、証券会社で営業職を約2年間経験。
その後、関西を拠点に現職にて活動。
主な出演番組
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マイナビTVアシスタント、共同通信リポーターなど

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2021-07-05 | Posted in 週刊READING LIFE vol.133

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