週刊READING LIFE vol.141

肉の虫《週刊READING LIFE vol.141「10 MINUTES FICTIONS~10分で読めるショートストーリー~」》


2021/08/30/公開
記事:吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)
※この記事はフィクションです。
 
 
時々、虫を食べたくなる。
 
秘境ドキュメンタリーで売れないアイドルに食べさせるような、ころころ太ったイモムシを口に放り込んでぶちりと食いちぎる。瀕死の激痛にのたうつ様、いつまでも噛み切れずちくちくと舌を刺す外皮、そんなものを否応がなしに口に広がる体液と共に咀嚼する。しかし本能に刻み込まれた文化的差異はそれを食べ物とは認識しない。結局耐えきれずに吐き出して、だらりとした虫の残骸を目にして、胸が焼けるようにむかつき、何度も胃袋をひっくり返すけれど、口中に遺ったあの感触はまざまざと蘇り、胃液唾液と混じってより醜悪になった体液の残滓はいつまでも舌根にこびりつく──
 
時々、そんなえげつない感触への衝動に駆られる。
 
「神道は戦後相当叩かれたからね。そろそろ諦めても良いんじゃないかと思うよ」
口中にじわりと生唾が広がった時、絶妙のタイミングで吾妻大輔の言葉が耳に入った。彼はいつも自分の得意分野に話すのに夢中で、曖昧な相づちを返す私が何を考えているなど、欠片も気遣いはしない。そもそも、イモムシを食べたいと考えているなんて、この男でなくても想像も寄らないだろうが。
 
「バカみたいだよな、みんな」
 
吾妻大輔は、話を聞き流しても、女友達のように最もらしい答えを返さなくとも気にすることはない。その代わり話し相手の話も聞かない。彼の頭の中は近代日本史で一杯だ。
 
「あー社会学のレポートがうざい」
 
あとこの時期はレポートのことも考えるらしい。私は返事をせず、腕時計に視線を落とす。次の電車が来るまであと四分ある。私の虫への興味はとっくに消え失せたので、スマホをいじりながら、隣の吾妻大輔を観察した。
 
「社会学事典がどうして電子辞書に入ってないんだろう」
 
身長は一応私よりは高いが、男として決して大きな方ではない。大柄に見えるのは吾妻が太っているからだ。多分、吾妻は自分が太っているとは思っていないだろうが。そのせいで、よれたダッフルコートを着て、小難しい本がたくさん入っていそうなリュックサックを背負った彼は、箱にぎっちり詰め込んだお菓子か何かが今にもはみ出しそうになりながらぎりぎりこらえているかのように、いつもどこか窮屈に見える。吾妻は私が話を聞いていないのを理解しているのだろうか。初対面ではないのだから、気がついているはずだ。だが、そうしたら、誰に話しかけているのだろう。
 
「パソコン用語辞典なんかより社会学事典の方がよっぽど使うよ」
 
あんたは社会学のレポート書くんだから使って当然。日本人の全員が社会学を学ぶわけじゃないけど、日本のパソコン普及率は半端じゃない。あんたの都合で企業が動くわけないだろうよ。浮かんだ思いをスマホで文章にして黙読し、少し考えてから、私も口を開いた。
 
「日本人の全員が社会学を学ぶわけじゃないしさ」
「まだ一回も使ったことない辞書がたくさんある」
 
私の思慮はあっさり無視され、畳みかけるように言葉を重ねられた。その独特な、少し掠れた声。人を観察する時についつい喉元を見てしまうのだが、それなりに喉仏が大きく声帯周辺に肉がついていると、鼻にかけたような、くぐもったような声になる。吾妻の声はその典型だ。私はこれを勝手にマル声と呼んでいる。マル声の掠れは発音する時の息遣いの違いから生まれる。早口の吾妻の言葉を聞き流していると、しゅ、しゅ、と耳障りなほど擦れ音がする。
 
「でも世界史事典と日本史事典は何故か良く使うんだ」
「へーえ」
私は耳障りなそれを耳にする度に、
「あー社会学のレポートうざい。もう単位いらないかな」
分からないと言うことを自覚しない後輩を目の当たりにするような苛立ちに襲われ、
「でもぎりぎりだから結局とらないといけないんだよな」
 
何故かどうしても、無性に、虫が食べたくなる。
 
駅のホームの人影はラッシュほど多くはない。かといって少なくもない。空が暗いとはいえまだ六時過ぎ、社会人の通勤ラッシュにはまだ少し早い。学生やら、フリーターやら、主婦やら何やらと、残業がない幸運なサラリーマンが一刻も早くこの駅から離れたくて電車を待っている。学生と言っても、駅から徒歩三十分、バスで十分かけて、さほど著名でもない私立大学が一つあるだけだ。だから学生っぽい人はみんな私服だ。可愛い服、流行の服、あり合わせの服、他にも髪型とか持ち物とかそんなものを見て、その人の性格や家族構成を想像してみると、それなりに暇潰しになる。帰り道が一人の時はよくやって一人でにやにやしているが、横に吾妻がいるとなるとそればかりしているわけにも行かない。
 
「ねえ吾妻。あんたこの後どうすんの? 私は新宿出るんだけど」
 
社会学のレポートから無理やり話題を引き離してみようと思って話しかけると、吾妻は一瞬顔をこわばらせ、にひゃ、と笑った──そんな音がした気がした。
 
「オレ? 本当はこれといってやる事もないんだけど、家に帰っても社会学のレポートやりたくないから、どっかでヤンマガ立ち読みして帰ろうかなーと。それくらいして焦ってからじゃないと進まないからね、オレ」
 
まもなく2番線に電車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側までお下がり下さい。吾妻の空気漏れの音はうまい具合にアナウンスにかき消され、そんなことまで聞いてねェよ、と私が口の中で呟いたのも隠し、すぐにけたたましく電車が到着した。降りる人は少ない。乗る人はそこそこだ。暖房がききすぎた車内から、埃と汗を混ぜて三日おいておいたようなニオイがむわりと漂ってくる。私はまた反射的にあの虫の想像を思い出してにやりとし、口許を押さえた。ドアが閉まります、ご注意下さい。吾妻その他が全員乗ったのをきちんと確認し、扉が閉まり、電車はがこん、と動き出した。

 

 

 

私と吾妻は大学で語学が同じクラスだ。吾妻と私の彼氏は高校の時のクラスメイト。高校の連中と遊ぶからお前も来いよ、と透に誘われて一人暮らしの友人の家とやらについて行ったら吾妻がいた。「あれキミ確かゴジマのチャイ語で一緒だよね? いつも前の方に座ってる……」にひゃ、と笑いながら吾妻はそう言ったが、私は語学のクラスの連中になど興味はなかったから、吾妻のことなどただのでかい奴、きっとオタクに違いないくらいにしか思っていなかった。吾妻は狭い部屋の中でもことさら場所を取り、他の人は壁際や窓際に追いやられていた。私は透の横で、曖昧な笑顔を浮かべて頷いた。
 
「名前なんだっけ?」
栗田今日子。
「透と付き合ってたんだ。それならそうと言ってくれりゃいいのに」
……席、離れてたしさ。
「でもさ、ゴジマはあれだよね、中国語の授業っつうより中国うんちくオタク? その割に出席厳しいから嫌になるよ」
……うん。
 
ゴジマは正確には小嶋先生だ。自己紹介でゴジラに似てるだろう、なんて言ったからゴジマ。確かに現代中国の庶民の生活について詳しいし、出席は厳しい。それだけだ。私はそんなに熱心な学生じゃないし、吾妻は既に何回も休んで、単位がぎりぎりだと教室に来るたびぶつぶつ言っていた。へーお前らクラス一緒なんだあ。モリヤマ教えてやれよー。だってキョーコが言わねえと分かんねえじゃん。ブッチもあたしの友達と同じ授業あるって言ってたよ、前に会ったことある子だったけど。吾妻のせいで周りに追いやられていた他の人たちが口々に騒ぎ立て、吾妻の話はそこで遮られて終わりだった。私は吾妻の名前を聞いていなかったが、名前を聞くほどでもないし、透に聞けばいいやと思っていた。まだ名前を知らない吾妻は嫌でも視界に入る。無意識のうちに吾妻を観察していると、彼は斜めに構えたようなしゃべり方をする割に、その表情のことごとくが幼く見える。それも、わがまま放題に育てられた子供が、知らないオジサンに道ばたで叱られた時のような……。
 
吾妻の頑健な体格に貼り付けられた肉の全てが、這い回るウジ虫だったらどうだろう。
 
「明日バイト早番だろ? ……帰る時、送るから」
 
耳元でぽそりと呟いた透からかすかに漏れるのが酒臭い息ではなく、耳障りな羽音を立てるハエだったらどうだろう。
 
あの後さー大変だったんだぜ真渕のせいで。やだそんなの知らなかった。あれ、オレが聞いたのは真渕じゃなくて松浦って聞いたけど。狭い部屋に充満する私には分からない話の全てが、言葉ではなくてミミズだったらどうだろう。
 
「……ありがとう」
 
透に囁き返した私の口から、あとからあとから毒々しい色のムカデが這い出してきて、そこら中を埋め尽くす。叫ぼうとした私はむせてムカデを噛みつぶしてしまって刺すように苦い毒液を吐き出し、悲鳴を上げる連中はことごとくムカデを踏みつぶし、吾妻は頭までムカデにまみれる。茫然と惨状を見ている透の肩に、ぼたりとカエルが落ちてくる──
 
「あれ?」
カエル。思わずそう呟くと、私の中の妄想は全て霧散した。
 
「キョーコちゃんカエルがどうかした?」
 
少し離れたところにいる男の子が耳ざとく聞きとがめて話題を振ったが、何でもない、ちょっと思い出しただけ、と誤魔化した。虫の想像をしていたはずなのに両生類が出てきたから驚いたなんて……馬鹿げてる。
 
それからあまり経たないうちに、私は先に帰ることになった。さっき囁いていた通り透が駅まで送ってくと言い出し、やかましい声に送り出されて外に出ると、秋の空はもう暗く染まっていた。
 
「面白い人たちだね」
「まあ、仲良かったからな」
「私と語学同じクラスの人、名前なんていうの? 聞いてなかった」
「ああ、吾妻? あずまだいすけ」
「アズマって、東って書くの?」
「吾輩の妻でアズマ」
「…………ああ、五に口に妻でアヅマ」
 
住宅街に人通りはあまりないが、少し離れた大通りは車がたくさん通る。混んでいるのか、あまり走る音は聞こえてこない。
 
「……吾妻がどうかした?」
「別に……関わるつもりないし。これからアイサツとかするかもしんないのにさ、名前知らないと微妙だから」
「……ま、あんま今日子と合うタイプじゃなさそうだしな」
 
それから二人とも何も言わないうちに駅に着いた。周りに住宅街しかない駅は、夜九時も回ると電車が着いた時しか人はいない。改札口はがらんとし、券売機のぴー、ぴー、という音が妙にうるさかった。
 
「……じゃな。気をつけて帰れよ」
「……変なこと聞いていい?」
「ん?」
「透っていつも何考えてるの?」
 
これは全く意表をつかれた質問だったようだ。透は顔をしかめ、何言ってんだ、浮気なんかしてねえよ、と呟いた。私は首を振ってそういう意味じゃないと返す。
「ただちょっと気になって聞いてみたいんだけど。他の人が喋ってる時とか、一人で電車待ってる時とか、特にやったり考えなきゃいけないことがない時とか」
「……別に──何も考えてねえんじゃね? たまたま思いついたこととか。そういや今日マンガ発売日だとか。あとゼミ呑みのLINE返してねえかもとか」
「……ふうん」
「何だよ、お前は?」
 
透は少しムッとした。私は何故か後ろめたいような変な気持ちになり、別に、と呟いた。
みんなそうなのかな、って思っただけ。
 
「虫のことなんて、考えないよね」
「は、虫?」
「何でもないよ。気になっただけ。気にしないで」
「……変な奴」
 
じゃ、気をつけてな。階段を上りきるまで背中に透の視線を感じた。電車の中でスマホを見てみると、友達からLINEが何通か来ていた。だったら来月あたまヒマ? ありがとう。ごめん、貸したまんまで持ってないや。順番に返信していく中で、私はふと、あづまと入力してみた。東。吾妻。我妻。アヅマ。阿妻。アヅ間。変換を繰り返しているとあのにひゃ、という笑い声が聞こえて来るみたいだった。
 
「…………」
 
文字を消して、ちゃんとした返信を送り終えると、スマホをカバンの中にしまった。静まりかえった電車の中で、電車が走る音だけが耳障りだった。
私は、この車両一杯に蜘蛛が押し込められていたらいいのにと思った。

 

 

 

それからというもの、吾妻は私を見かけると話しかけてくるようになった。
 
「おはようキョーコちゃん昨日透と新宿行ってただろ」
「オレ昨日透と会って、キョーコちゃんのこと言ってたぜ」
「あ、キョーコちゃん透と会う時よろしくなー」
「この前麻雀した時、透負けまくってたんだよ」
「あ、さっきまで透とLINEしてたけど。何か伝言しようか?」
 
何かにつけて透のことばかりだ。私は適当に相づちを打って、なるべく吾妻から離れた席に座るようにしていた。絶対あいつ今日子が好きなんだよ。何かストーカーっぽくてキモイもん。友達は口を揃えてそう言った。でもそれにしては話題が透のことばかりすぎる。透が何をした、どこにいた、ああ言ってた──透に関することを何一つ洩らさず私に報告するかのように。透は男にしてはマメにLINEする方だから、私は吾妻が話す前には必要なことは大体知っている。
 
「オレに対してもそうだよ。お前が授業で何言ってたとか、あれしてたとか。観察日記っぽいよ」
 
お前の授業の様子毎日聞いたってしょうがねえのにな、あいつはお前との接点そこしかねえから、と言って透は笑っていた。吾妻はそれ以上特に何かするわけではなかったので、私は突っ込んだ話はせず、相変わらず離れた席に座るようにしていた。だが何となく気にかかる、目の端に入ってしまう。いつものクセで吾妻を観察してみると、彼の近くの席に座るのは色白で小太りの奴、ニキビ面で痩せた奴、それと普通っぽい男の子が二人くらいいた。話の内容は授業や自分の研究分野、時事問題など、私が興味を惹くようなものはない。そんな内容の割によく笑い声がする。いっそ日米安全保障条約を撤回して中国と同盟結んだ方がいいよ。阿部は馬鹿なことやったなあ。イラク問題に関してはイスラム教と歴史的背景に精通してないとなかなか理解しがたいからね。もとはと言えばアメリカが種をまいたことだって殆どの人が知らないからさ。でも大日本帝国の頃の日本がやってた事とさほど変わらないと思うよ。あははは。ははは。彼らは会話をしているわけではなく、その時々で多少つながりがある事を羅列しているだけだ。誰かが話している時は辛抱強く我慢して、話したいことを、出来るだけ詳しそうに、得意げに話す。おかしな所というより、相手が笑って欲しそうな空気を察して笑う。
 
「キョーコ、そんなに見てるとストーカーくんが被害妄想に浸るよ」
「別に、吾妻は私をストーキングしてるわけじゃないと思うけど」
「じゃ何なの? キョーコにつきまとってばっかじゃん」
「日露戦争の海軍について話してるようなもんだと思うよ」
「はァ?」
 
その子は間抜けな声を挙げたきり、それ以上は追求しなかった。
 
吾妻を見ていて、私は何度も虫を思い描いた。彼が口から蜘蛛の糸と、蜘蛛そのものを吐き出して周りの連中がそれに呑み込まれたら。吾妻の肉を食い破ってアマゾンに住む黒いイモムシが這い出てきて、汚らしい汁を撒き散らす。あるいは吾妻の皮膚がぬらぬらしたナメクジと化して、机も椅子もノートも嫌なニオイのする粘液にまみれる──それらの虫が私に襲いかかり、口から、鼻から、耳から、時には目の裏側にも侵入してくる。服の間を這い回り、例によって吐き出してもすぐにまたもぐり込み、靴で踏みつけるとぬちゃりと粘つく糸を引く。あははは。ははは。その乾いた笑い声が出てくる口から、数え切れないほどの蝉が詰まっていたら。
 
吾妻とはその程度の関わりしかなかった。それは友人と言うよりも、対象に逐一何かを報告するという奇妙な観察と、虫たちにまみれるというおぞましい妄想の被害者でしかなかった。虫に関する想像は他のクラスメイトや透も平等にまみれていたので、特に吾妻だけ、というわけでもなかった。これからもこの程度の関わりしかないだろう──そう考えていたら、不意に最寄り駅のホームでばったり吾妻に出くわしたのだ。
 
「あれキョーコちゃん。電車こっちだったっけ」
 
いつものように声をかけてきて、ひとしきり私に透の報告をした後、教えてやらなきゃ、とスマホをいじくっていた。透に観察日記を送っているのだろう。私はいつものように適当に相づちを打っていたら、報告すべき内容がなくなったのだろう、自分の得意な分野について話し始めた。私はそれを聞いていて、目眩がするほど虫が食べたくなり、同時に吾妻の話を聞いているのが腹立たしくなり、閉口していたのだ。
 
電車が規則的なリズムに乗って揺れる。
 
「それでさぁ、日本海海戦の時は、日本の海軍は」
 
吾妻の話は尽きそうになかった。私が口を挟む隙もどこにもなさそうだった。私は彼の友人のように虎視眈々と自分の話を射し込む隙間を見出すことも出来ず、いや、見出す気にならず、乾いた笑いを挙げもせず、うつむきながら、虫のことばかり考えていた。吾妻は気付いているのだろうか。ギャラリーはいつもと違って笑い声を挙げない。いつもと違って自分の話を挟まない。いつもと違って虫のことばかり考えている。
 
「…………」
 
吾妻は時々、休憩するかのように沈黙した。そうすると人が多くない車内は急に静まりかえる。吾妻の口の端から漏れる息の音が妙に大きく聞こえる。変な虫の鳴き声のようだ。ふしゅ、ふしゅ。虫みたいだけど、私はこんな声の虫の鳴き声なんか、聞いたことがない。
 
「あー世の中から社会学なんてなくなってしまえばいいのに」
 
そんなに嫌いなら社会学の授業なんてとるなよ。私は呟きを喉の奥に押し込め、そうだね、と肩をすくめて見せた。電車ががたんと揺れ、急激に速度が失われる。窓の外の景色が急変し、新たなプラットホームが現れる。
 
ドアが開き、まばらに人が下りた後、女の子が一人乗ってきた。空席を探してつまらなそうに車内を見回し──視線が、私たちの上で止まった。
 
「あれ、吾妻くん? 今日子ちゃん?」
 
私も吾妻も知っている。やはり語学のクラスメイトの槙原ゆかりだ。
 
「偶然だねぇ、いつも二人で一緒に帰ってるのぉ?」
 
少し間延びした喋り方だが、人当たりのいい満面の笑みだ。ゆかりの微笑みの後ろでぱたんと扉が閉まり、再び電車が走り出した。
 
「そういうわけじゃないけど、駅で一緒になってさ。ゆかり何で隣から乗ってくんの?」
私の言葉に、ゆかりは得意げに笑ってみせる。
「一駅歩いてダイエット……と見せかけて、途中にあった可愛いカフェでまったりしてた。五限きっちゃった」
「へえー何てとこ?」
会話する私とは対照的に、吾妻は黙ったままだ。
「カフェ・ミスティックってとこ。ショコラ絶品。やばいよ」
「いいなー今度連れてって」
「いいよー」
 
ゆかりは無邪気な笑みを浮かべ、手摺につかまってもごもごしている吾妻の方を向いた。
 
「吾妻くんも行く?」
「オレ?」
 
吾妻はにやりと笑った――ように私には見えた、だがそれを卑屈そうな表情の下に押し込めようとしたらしく、ひどくひねくれた笑みになる。
 
「オレあんまそういうとこ行かないからなあメシは量多い方がいいし。居酒屋なら喜んで行くんだけどザルだから」
 
行きたいのか断りたいのか、吾妻のマル声と変な表情からはなかなか理解できない。私はなんだか胃がむかむかして来たが、ゆかりは何食わぬ顔でそうなんだ、と言った。
 
「確かに男の子が行っても面白くないかも」
「オレが普段行くのは大抵ヨシギュウとかで、居酒屋でも和民とかの飲み放題で酒ばっかり飲んでるね。酒がないなら意味がない」
「そうなんだぁ」
「でも和民は料理がマズいんだよどうせ吐いちゃうけど」
 
にひゃ、と吾妻が笑う。
にこ、とゆかりも笑う。
 
「そんなに飲んでばっかりなんだぁ」
「まあでもオレたちはテニサーみたいなチャラい連中みたくバカな飲み方はしないけど。話してるといつの間にか研究テーマの論争になってたりするし」
「研究テーマって?」
 
揺れる車窓の外は、夜も暮れて光もまばらだ。
 
「近代日本史についてかな。オレは主に日露戦争だけど、松岡って奴が太平洋戦争時の日本軍の組織に詳しくて、軍制史の観点から話してみたりもするね」
「へえー」
「でも今は社会学のレポートがウザイ。まだ手ェつけてないんだ落とすかな」
「まだ大丈夫だよ頑張りなよ」
「ほんとこのレジュメの仕上がりは酷いね、授業料ぼったくられてるとしか思えない」
「えーそうなの?」
 
二人の会話は噛み合ってるのかそうでないのかさっぱり分からない。ゆかりは悪い子ではないけど、どうも聞いているとむせ返るような気がする。吾妻のマル声とゆかりの細く高い声は、組み合わせて聞くとここまで違和感がするのか。
 
やがて電車が次の駅に停まり、乗客を吐き出して飲み込み、何事もなかったかのようにまた走り出した。
 
「そもそもさ、フーコー学派の論点を社会学で扱って、それをレポートにする方が間違ってるんだよ。頭悪いね橋本は」
「あー知ってる橋本先生、レポート多くて大変なんでしょ?」
「そうそう、今期入ってから三本目だよ。いい加減どうにかしろよと思うね」
 
吾妻とゆかりの会話も変わらずに続いている。私は少し離れたところから二人と車内を観察してみた。人もまばらな車内は、この二人を除いて気味が悪いほど黙りこくっている。二人の声も一応小さく押さえているが、それが隅々まで響いて聞こえるのは異様だ。他の人から見たら私たちはどう見えるんだろう。マル声の吾妻。可愛いゆかり。無愛想な私。ゆかりと吾妻がカップルにはまず見えないだろう。私と吾妻は──どうなんだろう。見えなくもないし、そうでもないくらいかな。そうしたら、私は途中から彼氏をとられた惨めな女と言うことになる。そう考えたら、足の下に大量のミミズが這いずり回り、靴の隙間から中に侵入してくるような気がして、思わずぞっと身を震わせた。
 
もう二人の会話の内容に興味はない。にやにやしてる吾妻とにこにこしてるゆかりを、気付かれない程度にじっと見る。吾妻には彼女はいない。そう透が言ってた。ゆかりには高校から付き合っている、一つ年上の彼氏がいる。前にゆかりが会わせてくれた。吾妻は前に「飲み会で女の子が多いとつまらない」とぼやいていた事がある。大騒ぎ出来ない、下ネタ言えない、気を遣わなきゃ行けない、なんて高校生みたいな事を言っていた。それと、今のこの顔。得意そうに鼻をひくつかせて、でも目と口許はこの上なく卑屈に歪む。妙にせわしなく頭や顎や脇腹を掻いたりして、焦っているのか、せわしないのか。もしも仮に吾妻がゆかりを好きだったらどうだろう。ゆかりは私よりも優しいから何とか吾妻との会話をつないでいるだけで、実際は吾妻の事などこれっぽっちも考えていない。吾妻も自分の話をするのに夢中で、ゆかりが何を答えているのか何てちっとも耳に入らない。吾妻の口から蚕のように白く細い糸が出てきて、ゆかりを絡め取ろうとしているような錯覚を受ける。けれどその糸はどうしてもゆかりに触れることが出来ず、ふわふわとあたりを漂い、べちゃりと床や窓や座席や乗客に貼り付く──
 
がたん。
 
次の駅に着き、扉が開いた。この駅は各駅しか停まらないとても小さな駅で、私達がいるドアからは誰も降りず、誰も乗ってこなかった。夜のひんやりした空気と車内のむせかえるような空気が少しだけ入れ替わり、何事もなく扉が閉まるかと思った時──何か、茶色いものが、ひらひらと車内に舞い込んできた。
 
扉が閉まる。
「わっ!?」
 
ゆかりが大げさな悲鳴を上げて飛び退いた。彼女の鼻先をかすめ、向かいの扉にこつんと当たって落ちたのは、大きな蛾だった。電車が動き出すのが重なり、ゆかりはよろめいて私にしがみつく。
 
「が、が、蛾! やだあ!」
 
その言葉に、他の乗客も少しばかり顔色を変えた。
 
「や、や、やだ! こっち来ないで!」
 
蛾は力を取り戻して、ゆかりの声に引き寄せられるかのようにぱたぱたと戻ってきた。ゆかりは私ごと大げさに飛び退いて、吾妻の後ろに隠れる。蛾は車内の電球目指して飛び上がり、こつん、こつん、じじ、と空しく跳ね返され、再び地に墜落した。
 
「怖いよお、わああ」
 
大騒ぎするゆかりの横で、私は吾妻を見てみた。吾妻は先程までにやけていたのが嘘のようで、顔を土気色にして床で藻掻く蛾を凝視している。横でゆかりが騒いでいるのも、私が見ているのも、全く気が付かないようだった。少し離れた乗客は、ちらちらとこちらの様子を伺っている。だが誰もここまではやってこない。蛾はもう羽根がぼろぼろで、藻掻くのを見る限りもうすぐ死んでしまいそうだった。ちくちくしていそうな太い胴体と、目玉のような丸い模様を見ていると、私は唇と指先が疼くのを感じる。
 
もしも、私が今この蛾を拾い上げて。
ぺろりとひと呑みにしてしまったとしたら。
 
ゆかりは悲鳴を上げるだろう。吾妻は目玉を一杯に見開いて、今まで私が見たことのない表情をするだろう。他の乗客はあからさまな嫌悪を私に向ける。透は──別れてくれと言い出すかもしれない。
 
ああ、でも、私が今ここでこの蛾を食べてしまいさえすれば、あの胸が焼けるような気持ち悪いイメージが現実のものとなる。蛾の鱗粉は毒を持っているというから、私の口腔は赤く腫れ上がり、激痛にみまわれるだろう。あの胴体からはどんな汁が出るんだろう。羽根はどんな舌触りがするんだろう──。
 
「わああっ!」
ゆかりの悲鳴がうるさかったのか、蛾は何とか飛び上がると、私達から離れた扉の前に落下した。
「よ、よ、良かった……もうこっち来ないよね」
 
怯えたゆかりは、私の腕にすがったまま、遠く離れた蛾をじっと凝視している。吾妻は蛾とゆかりと私を交互に見比べ、情けないような、卑屈な笑みを浮かべた。
 
「あーびっくりした。オレ、虫だめなんだよねキモくて」
「私も」
 
ゆかりが頷き、私も何となく頷いた。
 
気弱な表情を浮かべている吾妻を見て──私は、この男にかじりついたらどんな味と食感がするのだろうと考え、軽く目眩を覚えた。肉と血と汗と垢と体毛とが入り交じって、すさまじく変な味がするに違いない。
 
新宿までは、まだ大分かかりそうだった。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)

1982年生まれ、神奈川県在住。早稲田大学第一文学部卒、会社員を経て早稲田大学商学部商学研究科卒。在宅ワークと育児の傍ら、天狼院READING LIFE編集部ライターズ倶楽部に参加。趣味は歌と占いと庭いじり、ものづくり。得意なことはExcel。苦手なことは片付け。天狼院書店にて小説「株式会社ドッペルゲンガー」、取材小説「明日この時間に、湘南カフェで」を連載。
http://tenro-in.com/category/doppelganger-company
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2021-08-30 | Posted in 週刊READING LIFE vol.141

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