週刊READING LIFE vol.154

「さよなら、スイフトくん」《週刊READING LIFE Vol.154 人生、一度きり》


2022/1/10/公開
記事:青木文子(天狼院公認ライター)
 
 
ハンドルを握った。
いつものようにエンジンキーを回す。
ブルルルンッ。聞き慣れたエンジン音が気持ちよく響く。深呼吸をひとつする。愛車スイフトのフロントガラスから見えている風景もいつもと同じだ。
 
シフトレバーに手を伸ばしてドライブに入れる。12年間も同じ車に乗り続けていると、ブレーキの位置もシフトレバーの位置も自分の一部のように身体が覚えている。
 
毎朝の儀式のような、この一連の動作。でもそれも、今日が最後だ。
 
今日はクリスマス・イブ。
この日を乗り換える車の納車日に選んだのは、自分へのクリスマスプレゼントのつもりだった。でも今ひとつ心が浮き立たない。なぜだろう。その理由はすぐに分かった。今日は同時に愛車スイフトのラストランなのだ。スイフトくんとのお別れの日。今から名古屋まで新しい車を引き取りに高速で走る道のりがスイフトとの最後の道のりになるのだ。
 
スイフトに初めて乗った日のことを思い出す。
今から12年前ちょうど司法書士試験に受かったばかり。それまではペラペラのペーパードライバー。これからは仕事で車がいるだろうと、車を買うことにした。ペーパードライバーズ教習に通い、自分の貯金で買ったのが新車のスイフトだった。
 
決して運転は上手くなかった。
忘れもしない、乗り始めて1週間立った時、堤防道路から降りてくるところで後ろからサイレンの音が聞こえた。
 
パトカーだ。誰か信号無視でもしたのかな。なんだろう。あれ、なにか言ってるぞ
 
「そこのスイフト止まりなさい」
 
え? 私のこと?!
 
慌てて路肩に車を寄せて止める。
パトカーから降りた警官がいかつい顔をして寄ってくる。なにか交通違反でもしたのだろうかと、私はビクビクして身体を小さくする。
 
「あのね、運転危ないよ」
 
と言いながら覗き込んだ警官は、身体をすくめている私をみてすこし意外そうな顔をした。
 
「あの、車を乗り始めてまだ1週間なんです」
 
警官いわく、ウインカーのタイミングや、堤防道路から降りるのがタイミング悪く、ふざけているのか、飲酒運転かと思ったらしい。まだ初心者だということがわかると幾つか注意というか、運転のタイミングを教えてくれて
 
「これからは気をつけてくださいね」
 
といって、パトカーに戻っていった。そういえば私は初心者マークをつけるのを忘れていた。
 
スイフトは私にとって自由の象徴だった。
 
それまで自分は車の運転をせず、運転できる車もなかった。保育園の送り迎えは私がずっと自転車でしていた。自転車の前カゴのところと後ろの荷台に子のせの椅子をつけて。雨だと、子どもたちにかっぱを着せて。
 
それでも雨が強かったりすると、保育園の他のお母さんたちに電話をして乗せていってもらうように頼んだ。みんな気持ちよく乗せてくれた。それでも梅雨の時期など、雨の日が続くと、こちらも申し訳ない気持ちになってしまう。
 
車を買えばいいのに。自分も運転できればいいのに。でも精神的にも金銭的にもその余裕が全くなかった。
 
だから自分の車が手に入ったときは飛び上がらんばかりに嬉しかった。自分の車で、自分でハンドルを握るということは、私にとって自分の人生で自分の人生のハンドルを握る感覚と重なっていた。
 
スイフトは私の育児の戦友だった。
長男の野球のスポーツ少年団の試合の送り迎え、他のお母さんたちと作った学童でのキャンプへの遠出、下の子のホッケー部の練習の送迎から、遠征の全国大会まで。子育ての場面にはいつもスイフトがいた。
 
もちろん仕事でもスイフトは戦友だった。
司法書士試験に受かってから研修そして就職。2年後には自分の事務所を持った。司法書士の立ち会い決済の現場に向かうのも、大失敗をしてお客様のところにお詫びに行くのも、念願かなって講演会の仕事をいくつもできるようになった会場への道のりも、いつもスイフトだった。
 
育児も仕事もいつも無我夢中だった。後がないから前を向いて走り続けるしかなかった。そんな日々がもう12年間も過ぎたのだ。そのひとつひとつの場面にいつもスイフトがいてくれた。
 
そんなことを思い出しながらスイフトのハンドルを握る。スイフトにのって12年間16万キロ。一体どれほどの時間、この車のハンドルを握ってきたのだろう。一体、どれほど遠くに連れて行ってもらったのだろう。
 
気がつけば高速を走る車の中で涙が止まらなくなっていた。あの時もこの時も、いつもスイフトがそこにあった。
 
高速に乗って、追い越し車線に移る。アクセルを踏み込むと滑るように加速していく。地球一周は4万キロという。そうか。私はこのスイフトで地球を4周駆け抜けたのだ
 
 
明日からはこのスイフトに乗らない新しい日がはじまる。
 
それは当たり前でたわいもない事実だ。
人は今日と同じ明日が来ると思い込みがちだ。今朝も昨日とあまり変わりのない毎日がはじまるだろうと思う。けれども、それは間違いだ。毎日毎日は一つとして同じ日はない。そしてものごとにはすべて始まりがあり、終わりがある。それが生きていくということで。それが走っていくということだ。
 
一度きりの人生は一方通行だと言った人がいる。人は生まれてから死ぬまでを一方通行の道路を走っていくのと同じだという。確かにそうかもしれない。今日見た風景は、同じ道の風景でも明日は違う風景なのだから。
 
後戻りのない一度きりの人生を生きるのだとしたら、自分はどう生きていこうか。
 
気がつけば車の中で泣きすぎて目が真っ赤になっていた。
新しいクルマを頼んである名古屋のディーラーに到着した。こんな顔で顔を合わすのはちょっと気まずいかなと思った。ディーラーの担当者さんは私の顔を見て不思議そうな顔をした。
 
スイフトから降りて、担当の方に車の鍵とスペアキーを渡す。
 
「車はもうご用意できていますから」
 
笑顔で担当の方から声がかかる。
 
「あ、先に行っていてください、すぐ行きますから」
 
担当の方が向こうに行くのをみはからって、最後、スイフトの前に立った。
 
ひとつ深呼吸をして、スイフトに向かって深々と最敬礼をした。
 
顔をあげるとあちらの作業ガレージで仕事をしていた技術者の方二人と目があった。こちらをみていたのだろう。その目は優しかった。きっと私が何をしたかったのがわかってくれたのだと思った。
 
人生は一度きりで一方通行であるならば、新しい扉を開け続けるのが人生なのだ。
 
向こうに新しいクルマがカバーに包まれて待っていた。そちらに向かってあるき出しながら振り向いた。心の中で「ありがとう、さようなら、スイフトくん」とつぶやいた。12月の青空の下で、青いスイフトは静かに太陽を反射して光っていた。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
青木文子(あおきあやこ)

愛知県生まれ、岐阜県在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学時代は民俗学を専攻。民俗学の学びの中でフィールドワークの基礎を身に付ける。子どもを二人出産してから司法書士試験に挑戦。法学部出身でなく、下の子が0歳の時から4年の受験勉強を経て2008年司法書士試験合格。
人前で話すこと、伝えることが身上。「人が物語を語ること」の可能性を信じている。貫くテーマは「あなたの物語」。
天狼院書店ライティングゼミの受講をきっかけにライターになる。天狼院メディアグランプリ23rd season、28th season及び30th season総合優勝。雑誌『READING LIFE』公認ライター、天狼院公認ライター。

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2022-01-05 | Posted in 週刊READING LIFE vol.154

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