週刊READING LIFE vol.207

恐怖で仕事を辞めたくなった私が、楽しめるようになった理由《週刊READING LIFE Vol.207 仕事って、楽しい!》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2023/3/6/公開
記事:牧 奈穂 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
私は、英語講師を26年している。
講師としていよいよデビューすることが決まった時、当時のスクール長が私に質問をした。
「もし、教室のレッスンに不満で生徒がやめた場合、『あの教室はよくなかったわ』と一人の保護者が何人に話すと思いますか?」
「……5人くらいですか?」
私は適当に答える。
「いいえ、10人なんです。ですから、一人が不満に思ってやめるということは、とても大きなことなのです。この仕事は、保護者とどれだけうまくやっていけるかが要ですよ。保護者の気持ちを掴むことを忘れないで下さいね」
大学を卒業したばかりの私には、少し重い言葉だった。若い私には、保護者は年上ばかり。生徒とのほうが年が近い。保護者はとても怖い存在に思える。
 
不安に包まれながらも、英語講師としての仕事がスタートした。できるだけクレームは避けたい。保護者の存在に怯えてはいたが、目の前の生徒たちに真剣に教えることに集中した。すると、保護者からも理解を得られ、思っていたよりもうまくいくものだと気づく。
「妹を先生のクラスに入れたいのですが……」
そんな相談を持ち込まれるようにさえなり、保護者との関係も良好だった。目の前の生徒を丁寧に教えれば、保護者も生徒もついてきてくれる。次第に私は自信を持つようになった。若い私は、1年1年、スキルアップしていることを実感し、やりがいも感じるようになった。講師として成長できている自分に満足感もあり、天職だとも思える。
仕事三昧の日々が、楽しくて仕方がない。プライベートの時間でさえ、仕事の話をしていても飽きることがなかった。ずっと仕事をしていたい。20代の私は、仕事が好きでたまらなかった。
 
講師としての仕事も7年が過ぎようとしていたある日、良好だった保護者との関係で、思いもよらぬ出来事に遭遇した。
「娘を退会させたいのですが……」
担当して間もない生徒の保護者からの電話だ。中学生になったばかりの生徒を、別な先生のクラスから引き継ぎ、教え始めたばかりだった。当時、中学生には、高校受験のための文法を教えていた。だが、その生徒は、周りの生徒と比べてあまり理解ができていないようだ。私が伝えたように学習に取り組もうとしない。やらないから、できない……悪循環で彼女も辛かったのだろう。かろうじて授業についてこられるような状態だった。私には、彼女は努力が足りないようにも見えていた。
若い私は、とにかく負けん気も強かった。講師の仕事の裏側には、上司だけしか知らない「退会率」なるものがあることを知る。率が低ければ、その先生は生徒を維持できる優秀な先生ということになる。そんな数字が裏にあるかと思うと、優等生でいようと必死に頑張ってしまう自分がいる。
それも理由で、私はその生徒をやめさせたくなかったのかもしれない。もちろん、教え続けたいという純粋な気持ちもあったが、きっと退会率が頭をよぎったのだろう。
「今、学習状態がよくありません。もっと安定するまでは続けたほうが良いと思います。きっと他塾に行っても、ペースができてからでないと成績は伸びないのではないでしょうか?」
電話の先の保護者を引き留めようと何度も試みる。
話をするうちに、私の語気も強くなったのだろう。次第に保護者の様子も変わっていった。そして、ついに保護者が怒り出してしまう。
「お前がいるから、みんなが迷惑してるんだよ」
受話器を遠ざけたくなる勢いで、怒鳴られた。社会人になって、一番きつい言葉だった。その後、どんな会話をしたかは覚えていない。ただ、保護者がひどく怒り、迷惑だと怒鳴り散らしていたことを記憶している。
実際、中学生のクラスがスタートしたばかりで、そのクラスにはやりにくさがあった。他の先生のクラスから来た生徒は、運転しにくい中古車のように、変なクセがついていて教えにくい。中学生という難しい年齢であることもあり、私にまだ懐いていない生徒も何人かいた。クラスがうまく行っていないことは、自分でもわかっていたから、ムキになって引き留めてしまったのかもしれない。
 
その夜、初めて「眠れない」という経験をした。
人から怒鳴られたことは、初めてだったかもしれない。「お前」「迷惑」といったワードが頭の中をグルグルと何度も駆け巡る。大きなトラブルになってしまい、上司に報告もしなければならない。退会する生徒につられて、別な生徒たちもやめてしまうかもしれない。保護者とのトラブルは、大きな痛手となってしまう。評判が怖い。
生徒たちは、私が教えることを本当に迷惑だと思っているのだろうか? 考えるにつれ、眠れなくなった。人間不信になりそうだ。翌日は日曜日で、私は東京まで勉強に行く予定だった。自主的に教授法を学びに行っていたのだ。だが一睡もできず、好きだった勉強会にも行くことさえできなかった。
 
翌週になり、退会を希望する生徒がいるクラスの授業になった。
思った以上に心にダメージがある。授業をするのが、怖い。
生徒の前に立つと、怖さが込み上げる。それと同時に、心臓の音が聞こえてきそうなくらいドキドキと音を立てるのが感じられる。そして、冷や汗が出始めた。生徒の前で立っていることがものすごく怖い。生徒の目を見る。その視線が、迷惑だと語っているように見えてしまう。私は、ここで教えていてもいいのだろうか? みんなに迷惑だと思われているのだろうか? 体が恐怖感で勝手に反応してしまい、胃の痛みも加わった。
26年の講師人生の中で、あの時のように、恐怖を感じて教えたことは他にはない。おそらく怒鳴られた時に、心が折れてしまったのだろう。若かった私は、歯に衣着せぬ物言いで、保護者を激怒させてしまった。自分が蒔いた種だが、失敗を受け入れる心の余裕さえなく、自分で自分を追い込んだのかもしれない。今、当時の私に話しかけることができるのなら、「若いのだから、失敗したって大丈夫」と言ってあげたいくらいだ。だが、当時の完璧主義の私には、保護者からのきつい一言が耐えられなかったのだろう。
この教室で働くことを辞めてしまおうか? 逃げたい気持ちが押し寄せた。だが、ここで教室を去ってしまったら、二度と教える仕事に戻れなくなるのではないかとも思えてくる。自分で出した答えは、怖くなくなるまで立ち続けることだった。結局、逃げたい気持ちより教えたい気持ちがまさったのだろう。
 
仕事は、どんな仕事であれ、楽なことばかりではないものだ。楽しいと思える仕事の中にも、辛さは必ず隠れている。理不尽だと思うことに耐えねばならない時もある。その辛さの中に何を見出せるかが、仕事を楽しめるかどうかの分かれ目なのかもしれない。
 
26回目の入試を迎える今、3年間教えた生徒たちへの最後の授業をしたばかりだ。
最後の授業の中で、生徒たちが解いた英作文の添削用紙に一人ひとりメッセージを書き込んだ。私立入試がうまく行かなかった生徒は、最後の公立入試に向けて不安感と闘っていた。その生徒には、これまでも何度もメッセージを書いてきた。英作文を見ると、どのくらい心が揺れているかが伝わってくる。その心の揺れを見つめ、必要な生徒には、何度もメッセージを送るのだ。生徒全員に最後の授業でメッセージを書き終えると、寂しさが込み上げる。生徒に気づかれないよう、平静を装って最後の話をした。
「入試まであと1週間です。傾向が変わっても、何でも対応ができるよう問題を解いてきました。もう与えられるものは全て与えたから、大丈夫。落ち着いて取り組んで来て下さい。入試の日に、採点に来るのを待っています」
緊張感に満ちた空気の中、生徒たちに告げる。今から戦いに出る生徒たちは、私の言葉を真剣に聞き、教室の空気がピリッと引き締まるのが伝わってくる。生徒たちは、目の前の入試で頭がいっぱいだろう。だが、その生徒たちに話をする私は、緊張感と共に寂しさも込み上げる。3年間の思い出がよみがえり、生徒たちが去っていくのが寂しい。
 
働く場所を変えながらも、ずっと生徒たちに英語を教えてきた。保護者と折り合いが悪く、生徒の前に立つことに恐怖を感じた私だが、その後も何とか続けることができた。それは、きっと純粋に生徒が好きだったからだろう。言うことを聞かない中学生を前に、悩みながらも一緒に過ごせる時間は、お金を得られること以上の喜びだったのかもしれない。恐怖で冷や汗が出た状況から逃げず、乗り越えたからこそ、今があるような気がしてならない。
 
どんな仕事にも、壁にぶつかり逃げ出したくなることがある。逃げずに耐え抜いた先に本当の楽しさがあるのかもしれない。仕事に行き詰まった時、仕事が辞めたくなった時、それはチャンスでもある。その辛さに正面から向き合い、耐え抜いてみたら、思いもよらぬ楽しみが待っているかもしれない。
 
今、私は逃げ出したいポジションの中にいる。苦手な「リーダー」の立場を任されているからだ。私が好きなポジションは、2番手でいること。リーダーの隣で地味に働くことが私には合っている。リーダーという苦手なポジションで1年が過ぎようとしている今、まだまだ壁にぶつかっているところだ。
きっと、今のポジションをやり切った先に、新しい楽しみが待っているのかもしれない。今は苦しみのほうが大きいが、耐え抜いた先に、どんな自分に出会えるだろう? 仕事の楽しみは、苦しみと隣り合わせだ。しなやかに全てを受け入れ、単にお金を得るための行為と思わず、これからも仕事を全力で楽しんでみたい。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
牧 奈穂(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

茨城県出身。
大学でアメリカ文学を専攻する。卒業後、英会話スクール講師、大学受験予備校講師、塾講師をしながら、26年、英語教育に携わっている。一人息子の成長をブログに綴る中で、ライティングに興味を持ち始める。2021年12月開講のライティング・ゼミ、2022年4月開講のライティング・ゼミNEO、10月開講のライターズ倶楽部を受講。

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2023-03-01 | Posted in 週刊READING LIFE vol.207

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