週刊READING LIFE vol.208

息子の原点に戻った先で出会えたもの《週刊READING LIFE Vol.208 美しい朝の風景》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2023/3/13/公開
記事:牧 奈穂 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
15歳の息子は、高校生になろうとしている春、小さなチャレンジをするためにショッピングモールにやって来た。
そこには、白いグランドピアノが置いてある。毎週、土曜日の6時になると、女性のピアニストがやって来て、ピアノの生演奏が繰り広げられていた。だが、もう今はその生演奏は行われていない。息子は、当時2歳だった。ピアニストは、小さな子供達がいる時には子供向けの曲を、大人が多い時にはジャズなどを、客層に合わせて細やかに変え、お客さん達を楽しませていた。音は、コミュニケーションツールになる。そう語りかけているかのように、ピアノを取り囲みながら、温かな空気が満ち溢れていた。ピアノの曲を通し、ピアニストとお客さんがコミュニケーションをする空気が、私には心地よかった。音楽の世界で生きたかった私には、その姿が眩しく、いつも息子と一緒に聴きに行っていた。
 
コロナ禍で生演奏は中止になったようだ。そのピアノは、まるで命がなくなったかのように、どことなく寂しげに見える。いつしかストリートピアノに姿を変えていた。子供の頃、お世話になった人と再会したかのように、息子は久しぶりにピアノに会いに行った。
 
「うわぁ……人が結構いるじゃねぇか……」
懐かしいピアノが、あの時とは違って見える。さほど人がいるようにも見えなかったが、息子は、懐かしのピアノを弾くことに緊張しているようだ。勇気が出ずに、なかなかピアノに近づこうとしない。
「まずは、少しこの空間に慣れたいかな……」
「それならば、アイスでも食べようか?」
たじろいでいる息子に私が語りかけ、ピアノの反対側にあるアイスクリーム屋さんのアイスを二人で食べ始めた。息子は、音楽活動の「原点」とも言える大切なピアノを初めて弾こうと決めたのに、なかなか思い切れない。
 
息子が2歳の頃は、毎週生演奏のためにショッピングモールを訪れていた。馴染みの喫茶店で、いつものコーヒーを頼むように、息子は、好きな曲を毎回リクエストする。演奏を聴きながら、楽しそうに体を動かすと、まるでその場が、幼稚園のような、可愛らしい空間になる。全身でピアノの音色を楽しむ息子を見て、周りのお客さん達は微笑み、いつも温かく見守ってくれていた。
私たち親子は、生演奏に1年近く通い続けた。息子とピアノを聴く時間が、私にも癒しの時間だったのだ。幼稚園に入り、演奏を聴きに行くことは次第になくなったが、その後、息子はピアノを習い始めた。
 
「こんなにこのピアノ、小さかったかな? 僕が小さかったから、大きく見えたのだろうか?」息子はアイスクリームを食べながら、つぶやく。
息子が緊張してピアノの椅子に座れずにいると、どこからともなく男性がふらりとやって来た。気づくと、ピアノの椅子に座っている。息子とは正反対に、リラックスしてピアノを弾き始めた。
よほど集中しているのだろうか。待っているが、なかなかやめてはくれない。1時間近く私たちは、聴いていることになってしまった。今か、今か、と待っていたが、なかなかやめようとしないうちに、1時間になろうとしていた。なかなかピアノをやめない状況に、次第にイライラしてくる。
「明日仕事が早いから、今日は諦めて帰ろうか? 本当に弾きたいのなら、5分だけ貸して欲しいと、あの男性に言いなさいよ」モジモジしている息子に腹が立ってくる。
息子の前で、男性は、エンドレスに弾き続けていた。カラオケのマイクを握ったら放さない人のように、途切れずにずっと弾いていてなかなか声をかけられない。
「人生はね、チャンスが来たらすぐつかまないと逃げちゃうんだからね。だから、さっき弾けばよかったのに……」
私達は、ストリートピアノを聴いている状態となってしまった。
 
そして、息子も痺れを切らしたのだろう。
「すみません。ちょっと弾いていいですか?」
やっとの思いで話しかけた。気づいた男性は、すぐに息子に気づきピアノを弾かせてくれた。
男性も聴く中で、息子は、1曲だけ丁寧に心を込めて弾き始めた。
懐かしい白いピアノに座り、吹き抜けになった高い天井まで音色を響かせる。13年前、こうやって息子と音色を聴いて、楽しい時間を過ごしたことを思い出す。当時悩んでいた私は、ピアノの前で息子と音色を聴いている時だけ、辛い気持ちを忘れることができた。
あの頃、元夫ともうまく行っていなかったからだ。息子の笑顔だけが幸せのエネルギーだった。当時は、息子の育てにくさもいつも悩んでいたような気がする。そんな悩みの時間が解放されるような、あの温かな時間が返ってくるかのようだ。そして、今、演奏者として、息子が思い出のピアノの前に座っている。過ぎ去った時を感じながら、息子を黙って見つめていた。
 
15歳の息子が選んだ曲は、YouTubeでライブを配信している、好きなピアニストの曲だった。息子の音色を聴きながら、息子のこれまでの歩みを振り返る。
息子にとって、ピアノはずっと親友のようなものだったのだろう。
小学生の時、あまり学校に馴染めなかったからだ。友達と話が合わず、友達ができなかった。小さなダンボール箱に、体を無理に押し込んでいるような窮屈な思いがする。いつも居心地が悪い。我慢をし、小学校という箱の中に入ろうと、必死にもがいていた。
祖父が亡くなった時、ちょうど小学校でピアノの伴奏者として選ばれていたことがある。悲しいけれど、練習をしなければならない。祖父が亡くなった日でさえ、泣きながらピアノの練習をしていたことを思い出す。友達に殴られた時、心が傷ついた時、悲しい思いをする度に息子の音色は変わっていった。心を表せる大切な友のような役割だったのだろう。寂しさを感じる度に、音が深くなる。ピアノは心で弾くものだから、ピアノの世界が、息子には癒しになったのかもしれない。きっと息子にとっての居場所だったのだろう。
 
懐かしい白いグランドピアノの息子の演奏は、ミスタッチも多く、決して上手ではなかったかもしれない。それでも感情を込めて弾く息子の音色は、どことなく温かみがある。13年の歩みが見えるようで、空間に溶け込んでいるように思えた。
 
弾き終わると、男性が拍手で喜んでくれた。
「素晴らしい表現力ですよ。ここで弾いているのはもったいない。将来は、音楽で生きていきたいのですか?」興奮気味に私達に語りかける。
「僕は、ピアノが好きなんです。まだ先のことは分かりませんが……」
息子がそう言うと、男性が話し始めた。
「ピアノを努力し続けるといいです。こういうものは、精進するものですよ。頑張っていたら、いつか誰かの目に留まるかもしれないですからね」
「昔は……」と、男性が話し始めると、ただのピアノ好きと思えないような、音楽の知識がある話ぶりだ。一体何者なのだろう?
「思うままに生きたらいいですよ。飽きるまでピアノを学べばいい。好きならぜひやり続けて欲しいです」男性は、励ますような優しい笑顔で息子に語りかけた。
 
この男性との出会いは、偶然だったのだろか? 息子も私と同じことを感じたようだ。もしかしたら、この男性に会うために、今日ここに来たのではないだろうか。人生は、出会うべき時に、出会うべき人と出会うものだからだ。初めて会った私たち親子に、男性は親身になって話をしてくれた。
 
誰にでも、原点と思えるような場所があるものだ。原点と呼べる場所に、たまに訪れてみると、自分の心を見つめることができるのかもしれない。
「今度は怖がらず、一番人の多い時間に弾いてみようよ!」
息子に話をした。
「そうだね……でも、弾いてみて分かったけど、弾いていると周りの声がすごくよく聴こえるようになるんだ。人の話し声がはっきりと聴こえてくる。だから、弾くのが難しいよ。ストリートピアノって、静かな会場で弾くのとは違う難しさがあるって分かったよ」
息子のストリートピアノ演奏は、原点である白いグランドピアノから始まった。よく戻って来たね、とその空間に言われているかのように男性との出会いもあった。そして、息子は見ず知らずの人から、温かく背中を押されたようだ。
 
この日会った男性からの言葉は、決して偶然ではない気がする。
「思うままに生きたらいい。好きならばぜひやり続けたらいい」
音楽で生きたい、ピアノを弾いていたい、と強く願いながらも思い悩む息子の心に、どんなに温かく響いたことだろう。13年ぶりに訪れた懐かしいピアノのある空間は、今でも息子を包み込んでくれていた。
ピアノの音色を無邪気に喜んでいた小さな息子は、13年経った後、同じ場所に戻りピアノに向かい合っている。どんなに時間が経とうとも、どんなに環境が変わろうとも、人の本質は変わらないのかもしれない。
 
人は、自分の本心に逆らわないことが一番幸せなのだろう。幼い頃、何に夢中になったかどうか、自分の原点に戻ってみると、生き方が見えるものなのかもしれない。息子の原点に戻ることで、きっと息子も自分自身の生き方を再確認できたことだろう。誰でもない、自分らしい、自分にしかできない生き方をしてほしい。人は、何かに秀でるから素晴らしいのではない。自分らしく生きるからこそ素晴らしいのだ。
「思うままに生きたらいい」
あの男性が息子に語りかけてくれた言葉を、忘れないで生きていってほしい。
私は息子のこれからの人生を、心配せず、ただ見ていてあげよう。ショッピングモールで息子とピアノを眺めながら、励まされた時間だった。
 
 
 

□ライターズプロフィール
牧 奈穂(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

茨城県出身。
大学でアメリカ文学を専攻する。卒業後、英会話スクール講師、大学受験予備校講師、塾講師をしながら、26年、英語教育に携わっている。一人息子の成長をブログに綴る中で、ライティングに興味を持ち始める。2021年12月開講のライティング・ゼミ、2022年4月開講のライティング・ゼミNEO、10月開講のライターズ倶楽部を受講。

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2023-03-08 | Posted in 週刊READING LIFE vol.208

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