週刊READING LIFE vol.213

理想の人生に、ちょいと近付いた気がした《週刊READING LIFE Vol.213 他人の人生》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2023/5/1/公開
記事:山田THX将治(天狼院ライターズ倶楽部 READING LIFE公認ライター)
 
 
唄の文句ではないが、出来るだけ上を向いて人生を歩みたいものだ。
 
私は、根がネガティブな性格のせいか、自分より人の人生を羨ましく思ってしまう。ただこれは、人を見下すよりましだと思っているのだが。
 
見上げる人生の代表といえば、自らの師匠だ。これは学問の師だけではない。
そして、自分が嗜好する物事の師匠と思える方は、言動や考え方において見上げるに値するものだ。
そう、人生そのものが、理想的だと感じるものだ。
師匠の人生は、理想的そのものだからだ。

また、贔屓にしているコンテンツメーカーの人生も、見上げているものだ。
 
私の人生で、最も大切にしている趣味は映画観賞だ。これまでに、映画館で観賞した本数だけで17,000は優に超えていると思う。
私の映画観賞の師は、淀川長治先生だ。私が学生時代、淀川先生が創設された『東京映画友の会』というサークルに参加したことに始まる。
因みに『東京映画友の会』は、淀川先生が引退されお亡くなりに為った現在も続いている。そして私は、その事務局を長年務めている。
私が、淀川長治先生を師と仰ぐのはその為だ。
 
また、私が贔屓にしている映画監督の一人は、黒澤明監督だ。
黒澤監督と淀川先生は、互いに唯一の親友と呼べる存在だ。
 
御若い方には、淀川長治先生は勿論、黒澤明監督の名も御聞きになったことが無い方も居られるかもしれない。
黒澤明監督とは、『羅生門』でベネチア、『隠し砦の三悪人』でベルリン、『影武者』でカンヌと、世界三大映画祭で受賞している日本映画界が誇る巨匠だ。
世界のベスト監督として、黒澤監督の名を上げる人も多い。
 
一方、淀川長治先生は、日本で初めてテレビの映画放映(後の『日曜洋画劇場』)で解説を付けた方だ。これは戦後、淀川先生が映画雑誌(東京映画友の会の母体)の編集長を務めていたので白羽の矢が立ったのだ。
国際的には、黒澤監督程著名ではない。しかし、世界でただ一人、映画解説だけを集めたDVDソフトを発売している。
それだけ、淀川先生の映画解説は人気が有り、認知度が高かった証だろう。
 
黒澤監督と淀川先生は戦時中、映画会社・東宝の同僚だった。何故なら戦前、アメリカ映画の日本支社で宣伝マンをしていた淀川先生が、戦争に入って映画が輸入されなくなった為、東宝に転籍したからだ。
御二人は、誕生日がほぼ一年違うものの同級生だ。黒澤監督の誕生日が、1910(明治43)年3月23日。淀川先生は、1909年4月10日だからだ。
以前から顔見知りで有ったが、撮影所でよく逢う様に為ってからは、一層親しく交友した。
 
親しさを象徴しているのが、互いの呼び名だ。
黒澤明監督は御存知の通り、ハリウッドや欧州の映画界でも師と仰ぐ関係者が多い“世界の巨匠”だ。勿論、殆どの人が“監督”と呼ぶ。時にはゴマ擦りの様に“マエストロ(イタリア語で巨匠の意)”と呼んだりする。一般人は勿論、“黒澤さん”と呼ぶものだ。
ところが世界でただ一人、親友の淀川先生だけは平気で、
『クロちゃん』
と、呼ぶ。時には呼び捨てで、
『黒澤』
と、呼んだりする。
但し発音は、“くろさわ”では無く“くろざわ”だ。
淀川先生の弟子である私は、何度も『黒澤(くろざわ)』を聞いたので間違い無い。
時には、
「もしかして、黒澤監督の呼び方は戸籍上“くろざわ”なのでは?」
と、疑問に感じ、真剣に調べた記憶がある。
結果は、ネットで調べればすぐ出てくるが、黒澤監督は“くろさわ”で濁ることはない。
 
一方、周りから“ヨドチョウさん”と呼ばれることが多かった淀川先生のことを、黒澤監督は只一人、
『ヨドさん』
と、呼ぶ。
これは、淀川先生は“ヨドチョウさん”と呼ばれることを余り快く思っていなかったからだ。弟子の私達は兎も角、親友である黒澤監督も先生の気持ちを解かっていたからだろう。
淀川長治先生の戸籍上の正しい呼び方は、“よどがわながはる”だ。決して“ちょうじ”では無いのだ。
また、黒澤監督に限り『ヨドさん』の呼び方を許したのは、監督が世界の巨匠だったからではなく、無二の親友だった証拠だろう。
 
若い頃同僚だった御二人だが、戦後の繁忙期に直接仕事で関わることはなかった。何故なら、淀川先生は主に洋画の解説をして下さったからだ。
私達生徒(弟子)に対しても、淀川先生は洋画のことばかり御話しして下さった。ただ例外的に、黒澤明監督の映画に関しては、懇切丁寧は解説をして下さったものだ。その内容は、他の映画評論家みたいな‘上から目線’の批判では無かった。アメリカや欧州の有名監督と比べても黒澤監督の映画は、全く引けを取らない演出力・表現力が有ることを力説為さっていた。
 
実際、黒澤監督の映画に魅了され、模倣し追従したのが、『スターウォーズ』のジョージ・ルーカス監督や『E.T.』のスティーブン・スピルバーグ監督だ。
その証拠に、黒澤監督が史上3人しか受賞していないアカデミー特別栄誉賞を受賞した際のプレゼンターに、両監督は進んで名乗りを上げた位だ。多分、アカデミー会員の殆どが、両監督に同意したのだろう。
授賞式当日、ジョージ・ルーカス監督もスティーブン・スピルバーグ監督も、黒澤明監督の前では、ガチガチに硬く直立不動だったことを思い出す。
 
仕事の面で、余り交わることが無かった黒澤監督と淀川先生だったが、プライベートでは交流が盛んだった。淀川先生は、よく成城の黒澤邸に呼ばれていたそうだ。
不思議なのは、全く御酒が呑めない淀川先生と、底無しの酒呑みの黒澤監督が、どうやって付き合えたのかということだ。特に淀川先生は、酔っ払った人間の相手をするのを、最も嫌がっていたからだ。
それでも、二人一緒の映画談義は有意義だったらしく、淀川先生は私達に黒澤監督との談話を話して下さったものだ。これは多分、御二人の映画に対する感性が、創る側と観る側の立場を越えてシンクロしていたからだろう。
 
洋画解説中心で仕事を為さっていた淀川先生は、黒澤監督が毎年の様にヒット大作を連発していた時期に、解説記事やパンフレットの寄稿等はしていない。
風向きが変わったのは、1980年のこと。
この年に黒澤監督の5年振り、日本で撮影した作品としては10年振りと為る『影武者』が公開された。
この作品は、戦国武将・武田信玄公の影武者(仲代達矢氏が二役)と為った男の、悲劇的な人生を壮大に描いたものだ。悲劇的なのは、信玄公が亡くなり、御家が滅びるところに立ち合わねば為らなかったからだ。
 
後にカンヌ国際映画祭でグランプリに輝いた『影武者』だが、公開当時の日本の映画界での評判は、決して芳しいものでは無かった。
原因としては『影武者』が、黒澤監督が盛年期に撮った『隠し砦の三悪人』や『用心棒』といったアクション時代劇では無かったことだ。観客の勝手な思い込みと、黒澤監督の製作意図が一致しなかっただけのことだ。
 
それより始末が悪かったのは、当時、低迷期に入り込んでいた映画界の反応だった。ジョージ・ルーカス監督と、彼と同じく黒澤監督を崇拝するフランシス・フォード・コッポラ監督(『ゴッドファーザー』)が、ハリウッドの大手スタジオの20世紀FOX(現サーチライト・ピクチャーズ:『スターウォーズ』を製作配給)に『影武者』を全米配給させてからだ。
全米配給権を売却した御蔭で、『影武者』にはそれ迄の日本映画では考えられない額の予算が組まれたのだ。
他の邦画監督は当時、自作に対しロクな予算も組めず、スポンサー等別世界の話でしかなかったからだ。
要するに、恵まれた環境で映画を創ることが出来た黒澤監督に対する僻みだ。しかも、自身には外国の監督が憧れる感性等持ち合わせていないことを棚に上げて。
 
黒澤明監督は、そうした的外れな批判に反応しなかったが、淀川長治先生はいつに無く反応し、良からぬ批判を一刀両断に切り捨てた。
曰く
「『影武者』を理解出来ないのは、頭でしか映画も観ていない証拠です」
曰く
「『影武者』の主題は‘戦’です。その、戦を黒澤(くろざわ)は、実に見事に、史上類をみない美しさで表現しました」
曰く
「『影武者』を観て感動しない者は、心を失っています。病んでいます」
と、いった具合だった。
多分、黒澤監督の想いを代弁するつもりだったのだろう。
 
対して、黒澤監督は後日、
「何で映画を批判的に観るのかねぇ。ヨドさんみたいに観られないのかねぇ」
続けて、
「ヨドさんは映画のことを決まって、『綺麗ね』と褒めるだろ? ‘つまらない’とか‘解からない’とか言わないだろ?」
と、述べられた。
この辺りが、二人のシンクロ具合を証明するものだろう。
 
『影武者』の公開以降、淀川先生は黒澤監督作品のパンフレットに、巻頭の解説を寄稿する様に為った。
 
黒澤明監督と淀川長治先生が80歳を越えていた1993年、黒澤監督の30作目で遺作と為る『まあだだよ』が公開された。
この作品は、黒澤明監督が、敬愛する随筆家・内田百閒とその門下生たちとの交流をほのぼのとしたタッチで描いたドラマだ。実話とするなら、舞台と為った学校は、旧制の法政一中と為る。戦前・戦中のことなので、バンカラな男子校だ。そんな、どこか青臭い学校の雰囲気が、実によく出ていたと思う。
私は、内田百閒先生の人生が、黒澤監督にとってどこか理想的と思えたのではと感じている。
これは余談だが、明治時代に創立した中高一貫の男子校に通っていた私にとって『まあだだよ』は、大変親近感のある黒澤作品だ。
 
この『まあだだよ』、公開に先立って特別試写が行われた。4月10日、丁度、淀川先生84回目の誕生日だった。
私は特別に、淀川先生からその試写状を頂いた。勿論、
「山田くんだけだからね、誰にも言っちゃダメよ」
と、念を押された。
30年も前の話なので、そろそろ時効として頂こう。
 
この試写は、プレス向けでもあったらしく、来場者にはプレスシートという後に紹介記事や報道をする為の資料が配られた。
プレスシートにも、淀川先生の解説がトップで載っていた。
 
試写の終映後、大感動の内に帰路に付いた私は、立ち寄った日比谷の喫茶店で早速プレスシートを開いて読み始めた。
師匠である淀川先生の解説を読みながら、私は初めて頭の上に大きな『?』を立ててしまった。
 
『まあだだよ』は、先生と男子生徒のその後も描いていた。
卒業後、20年目に行われた先生の誕生日会のシーン。酔いが廻った先生と生徒は、男子校OBなら‘あるある’な大騒ぎを始める。
酔った先生の、調子外れに為った『オイチニの薬売り』という妙な歌に合わせて、生徒全員が列を作って行進を始める。
男子というのは、どうしてか同級生が集うと瞬時に中学生や高校生に戻る傾向がある。しかも、その当時と同様の悪ノリで騒いだり悪戯したりする。
傍では迷惑なことだろうが、当人達にしてみると楽しくて仕方が無いものだ。
 
男子校出身の私は、スクリーン上の列に加わりたくて仕方が無かった。同時に、やはり男子校出身の黒澤監督は、『まあだだよ』の中で最も重要なシーンとして、この『オイチニの薬売り』のシーンを撮ったのでは感じた。いや、思い込んだ。
 
ところがだ、喫茶店で開いたプレスシート上の師匠・淀川の解説では、『まあだだよ』を大変褒めていたものの、
「部分的に、気恥ずかしく為るシーンが有る」
と、記されていた。
そしてその代表として、『オイチニの薬売り』のシーンが(気恥ずかしい)として挙げられていたのだ。
私は思わず、自らの師に質問を投げかけてみようと考えた。しかし、思い留まった。
何故なら、淀川先生は本来、余りに男臭い世界を好んでいなかったからだ。過剰な男臭さは、知性に欠けると話されていたことを思い出したからだ。
そのシーンは、男臭さ全開の代表例といっても過言では無いからだ。
 
『まあだだよ』が公開された暫く後、テレビで黒澤明監督のインタビュー番組が放映された。
その中で、黒澤監督は最近作の『まあだだよ』を、
「『オイチニの薬売り』のシーンが一番重要だった。撮るのも難しかった」
と、語って居られた。
 
私は、黒澤監督と同じ感性で『まあだだよ』を観ることが出来て感激した。
それ以上に、師匠の淀川先生より、ほんの一部で、ほんの少しだけ、黒澤監督に近付けた気がしていた。
ただこれは、淀川先生の名誉の為に書き添えるが、私の感性が黒澤監督に近付けたのは、間違いなく先生の教えが有ったからだ。
 
ただ、もし、私のこんな本音を淀川長治先生が生前御聞きに為ってしまったら、烈火のごとく叱られたことだろう。
そんな師に、盾突く様なものだから。
いつも映画を優しく観守ったと、一般的には思われている淀川先生だが、実は非常に短気で我儘な一面が在る。特に、私達生徒に対しては本気で叱って下さったものだ。
 
黒澤監督と淀川先生は、同じ1998年に天国へ召された。淀川先生が、二か月後だった。
これも、御二人が仲良かった証拠なのだろう。
 
今年は、御二人の没後25年目だ。
四半世紀も経ったのだから、出来の悪い生徒(私)の戯言も、叱らず笑って見過ごしてくれるに決まっている。
 
 
今年の4月10日、その日は、淀川長治先生114回目の誕生日だった。
私はいつも通り、映画を観続ける誓いと共に先生の誕生日をSNSで告知した。
沢山の“イイね”を頂戴した。
 
御調子者の私は思わず、『まあだだよ』の顛末を想い出した。
淀川先生に叱られるのを承知で。
 
それは多分、ほんのちょいとだけ、理想に人生に踏み込めたからかもしれない。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
山田THX将治(天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター)

1959年、東京生まれ東京育ち 食品会社代表取締役
幼少の頃からの映画狂 現在までの映画観賞本数17,000余
映画解説者・淀川長治師が創設した「東京映画友の会」の事務局を40年にわたり務め続けている 自称、淀川最後の直弟子 『映画感想芸人』を名乗る
これまで、雑誌やTVに映画紹介記事を寄稿
ミドルネーム「THX」は、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ』)監督の処女作『THX-1138』からきている
本格的ライティングは、天狼院に通いだしてから学ぶ いわば、「50の手習い」
映画の他に、海外スポーツ・車・ファッションに一家言あり
Web READING LIFEで、前回の東京オリンピックの想い出を伝えて好評を頂いた『2020に伝えたい1964』を連載
加えて同Webに、本業である麺と小麦に関する薀蓄(うんちく)を落語仕立てにした『こな落語』を連載する
天狼院メディアグランプリ38th~41stSeason四連覇達成 46stSeasonChampion

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2023-04-26 | Posted in 週刊READING LIFE vol.213

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