週刊READING LIFE vol.214

失恋の痛手を癒してくれなかったパイナップルの飴がけ《週刊READING LIFE Vol.214 もう一度、あの街を歩けるなら》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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2023/5/8/公開
記事:前田光 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
冷水を張ったボールにサッとくぐらせると、さっきまで糸を引いていた黄金色の飴がカリっと硬派に固まる。水を切るのもそこそこにその大きな塊を口元まで運び、艶めいた飴の膜に歯を立てると、衣の内側からみずみずしい果汁があふれ出て、口の中に飛び散る。
 
ちょっと酸味のある新鮮なパイナップルの果肉と、かみしめるとパキンと割れて果汁と溶け合う繊細な飴と、この二つの素材を一つにつなぐ揚げ衣は、なんて仲のいい食材なんだろう、これを考案した料理人は天才だなと、食べるたびに惚れ惚れしていた。
 
「拔丝菠萝」をあえてカタカナにすると「バースーボールオ」になるだろうか。
大学芋のサツマイモの代わりにパイナップルを使ったような中華デザートだが、油で揚げるときに衣をつけることと、飴が大学芋のタレのような蜜状になっておらず、砂糖をカラメル状に焦がしただけの、固まる前のべっこう飴のようなものをからませてあるところ、そしてできたてを冷水にくぐらせて飴をカリッカリに固めて食べるところが違う。
 
厨房の料理人が作り終えると、お店の人が大急ぎで運んでくる。早く食べてもらわないと飴が固まって、全部がくっついてしまうからだ。だから注文した客の方も運ばれた皿に大急ぎで箸を伸ばし、水にくぐらせ飴を固めてかぶりつく。まさに時間との闘いのようなデザートだ。ちなみにパイナップルをリンゴに替えると「拔丝苹果(バースーピングオ)」になり、バナナで作ると「拔丝香蕉(バースーシアンジアオ)」になる。できたての大学芋は、カリっと揚がったサツマイモの表面と、とろんとしたタレの組み合わせにしびれるが、「拔丝菠萝」はその逆で、ちょっと火が通ってくにゅっとした衣つきパイナップルを、飴がカチッと守っているところがウリだ。
 
1990年代の初め頃に中国に留学していた。
私がいた南開大学の隣には天津大学という理系の大学があって、二つの大学のキャンパスは南天路(ナンティエンルー)と呼ばれる道でつながっていた。もっとも南天路と呼んでいたのは主に南開大学の学生で、天津大学の学生は同じ道を天南路(ティエンナンルー)と呼んでいると聞いたことがある。
 
中国の大学は日本の大学と違い、広大なキャンパスのなかに普通の家や食品店、雑貨屋や仕立て屋があって、日常生活のほとんどの用事を大学内で済ませることができる、まるで一つの街だった。警備員が守っている立派な門をくぐらないと敷地の中に入れないのに、入った先にも外部と同じような市井の人々の住む街が広がっていた。最初はそれを知らなくて、どう見ても大学関係者とは思えない普通のおじさんやおばさん、おじいちゃんやおばあちゃんがキャンパスを闊歩しているのを不思議に思ったものだ。もちろん大学としての存在感も十分にあり、巨大な校舎や中国人学生寮が立ち並ぶ広い敷地のなかに、私たちの留学生寮もあった。
 
二つとも規模の大きな大学だったので留学生もそこそこいて、南天路のどこかにいつも外国人学生の姿があった。それは南天路が留学生の胃袋を満たす場所でもあったからで、日本でも知られてきた中国風クレープ「煎饼果子(ジィエンビングオズ)」やワンタンの屋台にはいつも人が集まっていたし、冬にはドラム缶で作った焼き芋器でサツマイモを焼いている芋売りの人がいて、夏には巨大ラグビーボールのようなスイカが人の背丈ほども山積みになっていた。道沿いに軒を連ねた店のいくつかも留学生御用達で、なかでも朝鮮族の人がやっている食堂には、冷麺と焼肉が目当ての留学生がよく集まって、簡素なパイプ椅子に座りガタつくテーブルを囲んでいた。そういえば、当時の中国は電力事情があまりよくなかったので、せっかく冷麺を食べに行ったのに「冷麺? ないよ。は? 停電だから!」とそっけなく言われ、がっかりして帰ったことが何度かあった。だがなぜ停電だと冷麺が出せないのかは、今になっても分からない。注文が入るたび、電動の製麺機でも使って麺を打っていたのだろうか。まさか。
 
ある日、南天路の一画で工事が始まったと思ったら、新しいレストランがオープンした。クリスマスツリーの飾りのような電飾が入り口を派手に飾っているところに、この新店にかける店主の意気込みを見た気がした。
 
その店は、代わり映えしない寮の食堂のメニューに飽き飽きしていた留学生たちの新たな救世主となったが、キラキラしたゲートを実際にくぐって円卓を囲むのはたいてい、誰かの親がはるばるアメリカから来たから歓迎会をしようだの、誰それが帰国するからお別れ会をするだのといった特別な理由を見つけてからだった。当時の物価は今よりはるかに安かったけれど、それでもレストランで食事をすると屋台の何倍もかかったので、学生の身としてはちょっと高級な料理を食べに行くのに、小さな後ろめたさをごまかせるような大義名分が必要だったのだろう。私たちの誰一人として店の名前を憶えていなくて、みんないつまでもその店を「新的餐厅(新しいレストラン)」と呼んでいたのも、思い出が鮮明な割には、頻繁に利用していなかったからかもしれない。その店の看板メニューの一つが、「拔丝菠萝」だった。
 
留学した当初、私には一年ほど付き合っている人がいた。夢にまで見た中国留学が実現したというのに、一人渡航した翌日から帰りたくてたまらなくなったのは、ホームシックとか日本シックとかではなくて、彼シックだったからだ。最後に会った日に彼は、夏休みになったら一時帰国するんだろ? そのときには空港まで迎えに行くからなと言い、私は涙をこらえながらありがとうと答えた。
 
インターネットもなく、国際電話はべらぼうに高い時代だったから、私はせっせと手紙を書いた。よく覚えていないけれど、相当まめにハガキを出していたはずだ。だが彼の方から返事が来たことはなかった。大学院に入ったばかりだし、筆不精だし、いろいろと忙しいんだろうなと思っていた。
 
数か月が過ぎ、やっと夏が巡ってきた。帰国の日程を伝えるため、彼にどれだけぶりかの国際電話を掛けた。国際電話はなぜか留学生寮からつながりにくかったので、いつも寮の向かいにある外国人講師宿舎のレセプションから掛けていた。
 
プルルルル プルルルル
 
久しぶりに聞く日本の電話の呼び出し音がしばらく鳴ったあとに、「はい」という懐かしい声が聞こえてきた。
 
「もしもし? 私。久しぶり。元気だった? あのね、帰る飛行機のチケットを予約したから伝えようと思って」
 
弾む私の声と対照的に、電話の向こうの彼の受け答えは終始歯切れが悪かった。あれ? なんだかおかしいなと思いながら電話を切ったが、そのときの違和感に蓋をしたのは、空港に迎えに来るという約束を反故にされたわけじゃなかったからだ。
 
それから一週間ほどしてから、私は彼からのエアメールを受け取った。
寮のレセプションで「前田、手紙が来ているよ」と手渡された封筒の差出人が彼の名前だったのを見た瞬間に、あ、私振られたんだなと分かった。
 
そのまま5階まで駆け上がって友人の部屋の扉をノックした私は、ドアが開くなり「ねえ私、振られちゃった。彼から手紙が来たんだよ。間違いない。読まなくても分かる。これ、別れの手紙だよ」と、溜めていた言葉を一気に吐き出した。
 
「ちょっと待ってよ、まだ開いてもないんでしょ? 読んでみなきゃ分かんないじゃん」
「いや、絶対に間違いないもん。この間電話して、帰国日までちゃんと伝えてあるんだよ。一週間後には会えるんだよ。それなのに、手紙なんか今まで一回も寄越したことのない人が今このタイミングでくれるなんて、別れ話以外にあるわけない」
 
これから振られるんだと確信しているくせに、私の勘違いでありますようにとどこかで祈っていた。だがエアメール用の薄い便箋を広げると、そこには「好きな女ができた。お前とは別れる。だから空港にも迎えに行かない」と、簡潔明瞭にもほどがある、しかし伝えなければならないことがすべて書かれた文面があった。
 
「……やっぱりそうだった。おかしいと思ってたんだよ」
このとき私は泣いたのだろうか。記憶があいまいだが、すぐには涙が出てこなかったような気がする。だけど友人に手紙を見せたあと、それをビリビリに破ってそのままゴミ箱に捨てたことだけは、はっきりと覚えている。
 
いったん自室に戻って一人になった。
好きな女ができたんだったら、しょうがない。
私が何をどうしようが、泣いてすがろうが彼の気持ちは変わらない。
だったら私が今やらなきゃいけないのは、忘れることだ。
記憶の中の彼の顔はいつだって私を見て笑っていたが、今の彼に会ったとしても、もう同じまなざしを向けてはくれない。いやむしろ、嫌悪の表情すら浮かべるかもしれない。振られても会いたくてたまらなかったけれど、実際に会ってそれを見せつけられるくらいなら、思い出を忘れる方がよっぽど楽だ。それに私が欲しいのは、赤の他人を見るような目で私を見る男じゃない。つまり、今の彼じゃない。
 
頭では冷静にそんなことを考えていた。だが胸の奥はやっぱり未練タラタラで、彼を感じさせてくれるすべてのものを、ずっと手放したくないと思っていた。
 
トントンとドアを叩く音がした。
扉を開けると友人が、ちぎれた紙の入ったビニール袋を持って立っていた。
 
「余計なお世話かもしれないと思ったんだけど、これ、集めて持ってきた……さっきはショックで衝動的に破いたのかもしれないし、もしかして気持ちが落ち着いたら、捨てたことを後悔するんじゃないかって思って……捨てるのはいつでもできるけど、捨てちゃったら取り戻せないじゃん。だから……」
 
何で分かったんだろう。
多分彼女は知っていたのだ。傷つきながら何かを無理矢理捨てるくらいなら、気の済むまで持っていればいいということを。だってそれは、どうせいつか消えるのだから。
 
彼女がこう言ってくれたおかげで、どれだけ泣いてもいいよと許可をもらえた気がした。
だから涙腺が崩壊したんじゃないかというくらい泣き続けたが、悲劇に浸り続けるのもずっとやっているといい加減飽きてくるし、涙製造プロセスでカロリーを余分に消費するからか、しっかりお腹も空いてくる。
 
「ねえ私、目がパンパンに腫れて酷い顔をしていると思うけど、お腹が空いちゃったから何か食べに行かない?」
「うん。何かおいしいもの食べよう。『新しいレストラン』に行く?」
「そうしよう。私、『拔丝菠萝』が食べたい」
 
濡らしたハンカチで目を冷やしながら彼女と二人で南天路に向かい、キラキラの入り口をくぐって薄暗い店内に入ると店員さんに尋ねた。
 
「今天有拔丝菠萝吗?(今日、パイナップルの飴がけはありますか?)」
「没有(ないよ)」
 
ないのかよ!
確かにこの店の「拔丝菠萝」は、ない日も多い幻のメニューではあったが、今日ぐらい頼めたっていいじゃないか。失恋の痛手を一番癒してくれるのは、甘い何かと相場が決まっているのに。
 
男には振られるし、目当ての料理にはそっぽを向かれるしで、まあまあどん底まで沈んだ一日だったが、今思い出して残念に思えるのは、「拔丝菠萝」を食べられなかったことだけだ。
 
ビリビリに破いた例の手紙は、あのあと机の上に置いたままにしていたが、「もういいわ。もうこれは捨てても後悔しないと思う」と言って、彼女の立ち合いのもとでゴミに出したのは、振られた日の翌日くらいだった。あれだけ辛かったのに、その日はびっくりするほど早くやってきた。
 
もしかしたら、あの日「拔丝菠萝」を食べられなくて、本当はよかったのかもしれない。
せっかくの絶品スイーツにまつわる思い出が、失恋とパンパンに腫れた目にならずに済んだのだから。
 
もしもう一度あの街を歩けるなら、あの友人と二人で南天路を歩き、30年も前にできたくせに相変わらず「新しいレストラン」と呼ばれていてほしいあの店で、今度こそ「拔丝菠萝」をつつきたい。そして、「あの手紙の最後に『お前のことは一生忘れない』って書いてあったけど、自分を振った男の記憶のなかにずっと残りたいなんて思わないよね」「そうだよね、過去の男の頭の中なんかぶっちゃけどうでもいい」「でももしかしたらあれは、振った女への罪悪感と最後の思いやりだったのかも」「なるほどそうかもしれない。そうすると、男の方が女よりロマンチストなのかも」「でもさー、『お前』呼びはないわー」「うん、今なら一発でアウト」なんて、あの日を共に過ごした私たちにしか分からない話を肴にして、パーッとやりたいものだと思っている。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
前田光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

広島県生まれ。
黒子に徹して誰かの言葉を日本語に訳す楽しさと、自分で一から文章を生み出すおもしろさの両方を手に入れたい中日翻訳者。

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2023-05-03 | Posted in 週刊READING LIFE vol.214

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