乱れた感情に入れる喝《週刊READING LIFE Vol.214 もう一度、あの街を歩けるなら》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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2023/5/8/公開
記事:青野まみこ(READING LIFE編集部公認ライター)
どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
やってもやっても仕事が積み残って終わらないのだろう。
その原因はわかっている。昨年の10月から、新人がうちの部署に時期をずらして3人来ているからだ。
10月に1人、年が明けて2月に1人、そしてこの4月にもう1人、新人が入ってきた。3人分も仮の名前をつけるのも大変なので、10月さん、2月さん、4月さんとでもしておこう。こんなに短期間に3人も入職すること自体が少し異常だけど仕方がない。それを上回るペースで退職する人が続出しているからである。そして仕事を教える方は私1人だ。
新人教育をしたことがある人だったらわかると思うけど、自分が担当している仕事を人にわかるように教えるのは案外難しいものだ。自分の脳内だけで理解していることを伝えたら、その人にそのままそっくりやって欲しいと願うものだろうけど、それはほとんど1回では無理なことだ。大抵は伝えた人が何回か間違える。その度に繰り返して教えて、きちんとできるように持っていく。ところが物事はそうそうスムーズには行かない。
今、私の心を苛んでいるのは、一番新しく4月に入ってきた新人さんだ。
最初は誰でも、新しい仕事の内容なんてわからない。それは当たり前のことだ。だから前からいる人が教える。でもこの新人さんは、10月さんや2月さんとはちょっと流れが違っていた。彼女は私の説明を聞いてはいる。そしてやろうという気持ちもたぶんある。では私が説明したことを、その通りにやってみてくださいとやらせると、できていない。どうしてできないのかと新人さんのやり方を眺めていると、そこに1つのクセがあることに気がついた。
彼女は、私が「ここがこの仕事のポイントだからしっかり覚えてほしい」と思っていることをきちんと覚えていないことが多い。あるいは、私が説明した仕事の内容に、自分なりの解釈を加えて行ってしまう。その結果、ミスが発生したり、誰かがやり直す羽目になっている。
こう書いていると薄々お分かりかとは思うが、仕事がやり直しになったら大抵その役目は一番部署に長くいる私に回ってくる。新人さんの仕事をもう1回説明し直して、仕事をやり直す。このフォローの時間が余分にかかってしまい、結果私の仕事が進まなくなる。ひどい時には1週間放置になってしまった案件があった。
「どうしたらいいと思う?」
「そうですねえ。……たぶん、青野さんが教えなくてはいけないことが多すぎるんだと思います。私たちがお教えできればいいんですけど、私たちもまだ入って1年経っていないですし、正しくお教えできるかわからないから」
去年の10月に入った人が言った。そう言ってくれるだけで本当にありがたい。やはり半年先に入職しているので少しはいろいろなルーティーンがわかっているから、4月の新人さんの状態がわかるのだと思う。10月さんや2月さんが早く育って、もっともっと戦力になって、4月さんを指導してくれないかなあと思っているけど、そこはあまり急いではいけないところだ。焦って正しく仕事を理解しないまま新人さんが育つと間違ったことが受け継がれてしまうので、そこは彼女たちの役目ではない。
それでも、そんなに難しいことはお願いしていないはずなのに、何回も同じことを繰り返しできていないとなると話は別だ。私だって全然完璧ではないから、思わず苛立ってしまう。
「あのね、4月さん。これ、この間お教えしたと思うんだけど」
「……はい」
「新しい入金はないってあなたは仰ったけど、さっき私が確認したら、ありましたよ」
「え?」
「ありました。それでね、新規のご入金がきちんと確認できないと、期末の決算が合わなくなってしまうことはお分かりですよね」
「……はい」
4月さんは私よりも5歳ほど年長の方だ。自分よりも年長の方にいろいろと注意をしなくてはいけないというのは、結構気を遣うものである。決して見下すようなことを言ってはいけないし、言葉遣いが命令口調だとか、乱暴なものになってもいけない。言葉を選びながら私は続けた。
「なので、1つ1つを正確に、コンプリートしてほしいんです。そんなに困難なことをお願いはしていないと思うんですけど、それを正確にこなしてほしい。そうでないと、次の業務がおまかせできないのです」
「……わかりました」
ご本人も済まなさそうにしているのはとてもよくわかる。でもきちんと覚えていただかないと、部署全体の業務が回らない。早く1人1人が戦力になってもらわないと私も参ってしまう。それなのに、4月さんは、教えたことの他にご自分流の判断を加えてしまって新たなミスを呼んでいる。悪気がないのはわかるけど、困ったものである。次の出勤日にはこれとこれを言わなきゃ、注意しなきゃ。この1ヶ月はずっとその繰り返しだった。でも私がきつく言って4月さんがやめてしまうようなことがあったとしたら、それはそれで困ってしまう。
全く、どうしたらいいんだろう。仕事については堂々巡りの膠着状態だったけど、半年くらい前から今年のゴールデンウィークに京都に行く用事が入っていて、とても楽しみにしていた。この状態から少し気分転換できる糸口は掴めるだろうか。
昨年の夏、約30年ぶりに京都に行った。完全なプライベートの旅だったけど、舞妓さんにも会えてたくさんいい写真も撮れてとても満足のいく旅だった。
その関連のメンバーから、今年の春にもまた集まらないかとお誘いを受けて、今回の旅が実現している。
新幹線が新横浜の駅を出発する前からかなり私のテンションは上がっていた。やっぱり旅はいい。思うようにならない日常を離れて、非日常の世界に少しでも浸れるのだから。しかも世界的な人気、日本の誇りでもある京都だ。昨年もとても楽しかったし、今年もきっといいことがあるに違いない。カメラを持って、PCも持って、仕事も家のことも完全にしなくてもいい身軽な時間が始まった。
今回は、去年とは違うところに行きたいし、やってみたいと思っていた。去年一緒に旅をした仲間たちと合流した。旅の中ではいくつかの企画を立てていて、そのうちの1つとして「お寺で座禅体験」があった。
一体どこからどうやったらそんな企画が出てくるんだろうと思わなくもないけど、そういう突飛なアイデアを思いつくから、一緒に旅をすると楽しい人たちなのだろう。
正直、座禅という響きは苦手だった。態度が悪いと肩を思いっきり叩かれるイメージしかなくて、適当に足を組んでいればいいかなという気持ちだった。
広い境内を抜けて、大きな畳敷きの部屋に案内され、座布団に座って僧侶を待った。現れた僧侶は思いのほか若い人のように見えた。彼は語り始めた。
「普段意識していないことを、座禅をしながら意識してみましょう。例えば、音。どんな音が今、ありますか。できる限り耳を澄ませてください」
耳を澄ませてみる。一切の会話をせず、音を立てないと、京都の街並みが作る音たちが一斉に入って来る。雨の音、川が流れる音、風の音、どこかで子どもが泣いている声、時刻を知らせるチャイム。生活音も、自然の音もあったけど、普段こんなに「音」を聴くことはなかなかない。
「どうでしたか。たった5分間だけでも音を意識することってないですよね。そしてこの5分間の間に、耳を澄ませているだけじゃなくて、いろんなことを考えていたと思います。雑念や、今囚われていることや。でも、それでいいと思います。意識しないことを意識すること、それが思うようにならないことなのかもしれないけど、そんな自分の状態を認めることが座禅のこころです」
思うようにならないこと、そういえば、あったわ。仕事のこと。ちょっぴり思い出してしまった。
「座禅では、腹式呼吸をします。鼻から吸って、口から吐く、吐くときに、数を数えてみてください」
普段は胸式呼吸だから、腹式呼吸は実は苦手である。やりにくいし、いつの間にか胸式呼吸に戻ってしまっているからだ。それでも意識して、すぅーー、はぁーー、と呼吸してみる。そして吐くときに、いーーち、にーーい、と心の中で数えてみる。
「この呼吸法は、とても心を落ち着けることに役立ちます。普段から、心を落ち着けることををやってみてください。これは特に、感情的になったときにいい方法なんです」
感情的。確かに、最近の4月さんの仕事ぶりをみるにつけ、いちいち感情的になっていた。なんでこんなことができないんだろう。どうして勝手に判断するのだろう。でもそれは4月さんのくせだし、彼女なりに懸命な故だからではないだろうか。
「それではこれから再度15分間座禅をします。座禅では、姿勢が乱れた時に、この棒で肩を叩きます。みなさんは今日は体験だけど、もしも気分が変わらない、眠くて仕方がないとか、喝を入れて欲しい時は、私が前に来たら手を合わせて一礼してください。そうしたら肩を左右2回ずつ叩きます」
え、痛いのは嫌だなあ。黙っておこう。
そう思いながら座禅を組んだ。ところが頭に浮かんでくるのは、さっき思い出してしまった仕事のことばかりだった。
新人が3人になると分かったとき、上司に呼ばれた。
「これから、人を育てて欲しいから、大変だけど教えてあげて欲しいし、できることは彼女たちにやってもらってください。青野さんができるのはわかるけど、それだけでは人は育たないでしょう?」
その言葉が蘇ってきた。今は大変かもしれないけど、私は今、人を育てるという任務を託されているのだと。そのことを忘れてはいなかっただろうか。
僧侶が私の前を往復していた。どうしよう。喝を入れてもらおうか、やめようか。どうしよう。
再び僧侶がこちらに歩いて来たときに心はきまった。肩を叩いてもらおう。私は一礼した。僧侶も一礼して棒を掲げて、構える。私の肩に一度棒を置き、振り上げた。
パン、パーン!
パン、パーン!
僧侶と私は互いに一礼をし、僧侶は遠ざかっていった。
想像していたよりも、かなり痛かった、しかしその痛みは後を引かないような痛みだった。叩き方が上手いのだろう。叩かれたけど、それが私の中に確実に喝を入れてくれているように感じた。
「お疲れ様でした。感情が乱れた時は、この呼吸法を思い出してみてください。できればあぐらがかければいいけど、かけない時は、できるだけ自分が楽な姿勢をとって、呼吸をしてみてください。たった5分間でもいい、気持ちが変わると思いますよ」
そうだな、これなら、職場の昼休みにでもそっとできることかもしれない。
「大切なことは、周りを観察することです。流れを観察する、そして受け入れること。世の中にはどうにもならないこともありますが、そんなことがある自分自身も受け入れて、心を落ち着けていきましょう」
体験する前は、嫌なイメージしかなかったけど、自分の中にあるモヤッとした感情を叩き出してくれるような、気持ちがそこからスッキリ変わるような、そんな体験だった。日常に帰ってから、私は4月さんに根気よく仕事を教えることができるだろうか。正直、自信はない。でもこの座禅の体験で、自分自身の内面が未熟だということを知った今、目の前にあるなかなか動かないことに立ち向かって行きたいきっかけは掴めたような気がする。
人は皆、違う。1人として同じ人はいないですと僧侶も語っていたように、私も人に接することができるだろうか。感情が乱れた時はこの喝を思い出して、自分を落ち着けて行こうと意識した体験だった。
□ライターズプロフィール
青野まみこ(あおの まみこ)
「客観的な文章が書けるようになりたくて」2019年8月天狼院書店ライティング・ゼミに参加、2020年3月同ライターズ倶楽部参加。文章と写真の二軸で勝負するライターとして活動中。言いにくいことを書き切れる人を目指しています。
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