週刊READING LIFE vol.221

自己肯定感を爆上げするには、この映画を見ればいいんじゃないか?《週刊READING LIFE Vol.221 〇〇のコツ、教えます》

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*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

2023/6/26/公開
記事:前田光 (READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
帰宅ラッシュ前の空いた車内に滑り込んで二人掛けシートの窓側に座ったとたん、カバンの中のスマホが震えた。発信者を見ると息子である。大した用事もないのに、私が仕事でうんうんうなっている可能性大だと分かっていて気軽に電話してくるギリ戦前生まれの私の父と違い(母に言わせると、当人は遠慮しながら掛けているそうだ)、Z世代の息子が電話を寄越すことはめったにない。逆に、息子から電話が来た場合は急な用事や頼みごとだったりするので、普段だったら移動中の着信はひとまず放置するところだが、コソコソと窓の方を向いて背中を丸めながら着信ボタンを押した。
 
「どした? 何かあった? 今、地下鉄の中なんやけど急ぐ?」
「ああ。いや、急ぎじゃないからあとでいいよ」
「分かった。帰宅したら連絡するわ。夜になるけど」
 
すまんな息子よ。母は今、取り込み中である。
電車を降りても、足早に急がなければちょっと間に合いそうにないのだ。
 
フリーランスの翻訳者だと自己紹介すると、たまに「いつでも好きなときにパッと休めていいですね」などと羨ましそうな顔をされ、苦笑することがある。もちろんそんな方もおられるだろうが、私の場合は思い立ったが吉日的に休めることはなく、気がついたら一週間ほとんど家から出ていないことも珍しくない。着手してみたら調べ物などに思ったより手間がかかり、楽しみにしていた予定を泣く泣くキャンセルするのもよくあることだ。今日もまた、友人からの誘いを一つ断った。だがこれは嬉しい悲鳴でもある。なぜかどの会社からの依頼もぱったり途絶えて閑古鳥の鳴く時期が、思い出したようにやってくることがあるからだ。こんなのは一時的なことだぞ、分かるだろ? といくら自分に言い聞かせても、仕事の予定を書き込んでいるカレンダーにぽっかり空いた穴が、夕方になるたびに一つずつ増えていくのを眺めていると、「私、これから先もやっていけるのかな」と泣きたいくらい心細くなるものだ。だから、仕事があるありがたさも身に沁みている。
 
そうは言っても一つ予定をつぶしたのは残念だった。その悔しさを、「だが次のアレだけは譲れない」との執念に変えて、早朝からパソコンに向かったらミラクルが起きた。奇跡が起きるにはさまざまな外的条件がそろっていなければならないが、それを実際に発動させるスイッチは集中力であるという翻訳者あるあるセオリーを実感しつつ、私が今向かっているのは古い学生街にある、小さな映画館である。
 
わざわざ劇場で映画を見るのは一年に一回あるかないかの私が、ショーン・ベイカー監督の『レッド・ロケット』は逃すまじと燃えたのは、ライティングの先輩が書いた記事『星の見えない街ならば、見えるまで歩き続ければいい』に触発されたからだ。過去に見た映画の数は約2700本という先輩が「言葉は悪いがクズしか出てこない映画。でもあなたは好きそうだ」と太鼓判を押してくれたことも観たい理由の一つだったが、この記事で描写されている、パンフレットの買い忘れに気づいてからなんとか手に入れるまでのくだりを読んで、人をここまで動かす映画に興味が湧いた。この好奇心が冷めないうちに、ぜひ劇場で観てみたいと思ったのだ。
 
舞台は2016年のテキサス。主人公のマイキーは落ちぶれた元ポルノ映画スターで、クズオブクズ、キングオブクズの称号を与えたくなるほどの、どうしようもないダメ男だ。たとえて言うなら、世界中の男性からその人の一番残念なところを一つずつピックアップして、それを人の形の金型に押し込んでギュッとプレスしてできたような男である。人間一つくらい長所がありそうなものだが、マイキーのいいところを強いて挙げるなら、男前であることと引き締まった肉体を除けば、決して現実化しない夢を周囲の人に強制的に見させて、うたかたの未来予想図に溺れさせてくれることくらいだろう。しかし夢から覚めたら例外なく、イタい現実が待っている。マイキーに振り回されっぱなしの登場人物も、大なり小なりダメっぷりを発揮しながら何かしら問題を抱えて生きているが、重苦しさを感じさせないユーモアが終始効いているので見る方が深刻にならずに没頭できる。これがフィクションの持つ力の一つなのだろう。
 
マイキーが石油精製所のある故郷の田舎町に舞い戻ったところから、ストーリーが始まる。十代で町を飛び出しポルノ男優として微妙に活躍したものの、仕事上でトラブルを起こして無一文になったマイキーが妻の家に押し掛けるシーンだ。籍だけは残っているが夫婦関係はとっくに破綻しているため、妻はマイキーを見るなり塩対応どころか相当の激辛対応で応酬するが、何のかんのと言いくるめられて、結局は受け入れてしまう。マイキーの帰郷は17年ぶりにもかかわらず、昔なじみの誰も歓迎していないところから、マイキーがかつて数々の騒動を起こし、不義理を重ねて故郷を飛び出したのだろうと容易に想像がつく。
 
物語の序盤でひときわ印象に残ったのは、マイキーがパンイチでリビングをうろついているシーンだ。真っ赤なブリーフは履いたときにお尻のおさまりが悪かったのだろう。マイキーが義理の母親の前で、当たり前のようにパンツの縁から指を突っ込んで、そのずれを流れるような所作で直した様子に、人前でこれができるのは、人前で服を脱ぎ着することに慣れている人しかいないだろうと思った。もっとも、ほぼ全裸で人の家をうろついて平気な時点で、それは自明のことなのだが。
 
マイキーはある少女との出会い(ナンパともいう)をきっかけにポルノ男優としての再起を試みるが、この舌先三寸男にカムバックなんてできるわけないと、観客の誰もが思っていたはずだ。だが、こんな嘘つきのお調子者は痛い目に遭ってしまえと毒を吐きながら、何かをきっかけにマイキーがちょっとはマシに成長するかもしれない、いや成長してくれよと願ってしまうのは、このチャラ男にどこか憎み切れない魅力があるからだ。欲望丸出しで生きるマイキーに、私ならそこまですることは絶対にないぞと確信しつつ、自分の欲望に対してのみどこまでも忠実で正直なその姿に、何かしらの羨ましさを感じるからかもしれない。「そう来るか!」のラストシーンは、映画館にいるのでなければ腹を抱えて大笑いしたところだ。なんとか堪えたがさすがに肩が揺れた。そして、「無用の長物」とはこういうことを指しているのだなと膝を打った。
 
まともな人間が誰一人出てこない映画、そして登場人物全員が作中で1ミリも成長しないという非成長物語だったが、見終えたあとに思わぬ効果があった。日々仕事に励み、支払うべき支払いをし、人を騙さず、友をパシリにせず、未成年をポルノ女優に勧誘せず、自分の使った食器を自分で洗い、今見たばかりの映画の字幕を手掛けられた岩辺いずみさんに、観客として同業者として心の中で「ありがとうございます!」と叫んだだけなのに、自分はもしかしたらものすごい人格者なんじゃないかとうっかり思えてしまったのだ。フィクションの登場人物と比べても意味がないと思われるかもしれないが、脚本を担当したショーン・ベイカーとクリス・バーゴッチはマイキーを描くにあたり、当然地球上にいる人間を素材にしているのだから、マイキーは現実から生まれた架空の人物である。少なくとも、人類とまったく無関係な異星人の要素は入っていないのだから、マイキーのダメなところの一つくらい、自分と比較して胸をなでおろしたっていいと思う。まともな人ほどたいてい自分に一番厳しくて、逆の意味でしか人と自分を比べないのだから。
 
自己肯定感が跳ね上がったまま映画館を出て、夕暮れを迎えた駅までの道を初夏の風に吹かれながら歩いた。さっきまでテキサスの夏空を画面越しに眺めていたのが、不思議に思えた。
 
映画館から帰宅して息子に電話を掛けた。
 
「ゴメン連絡が遅くなって。何だった?」
「いや、前に光さんからお金を借りてたじゃん? スマホの通話料金が口座から落ちなくて。あれを返す目途が立ったから、返しますという連絡」
 
息子は中学生になったあたりから、私のことを名前で呼ぶようになった。「お母さん」を表す幼児言葉の「かあかあ」から「お母さん」呼びにシフトするのに失敗した結果こうなってしまったのだが、私は「母」ではあるがそれ以前に「光」なので、この名前呼びが嫌いじゃない。
 
目下、自分の夢を叶えるためにある場所で修業しながら、スズメの涙ほどの収入で生計を立てている息子は、数か月前にスマホ料金の引き落としができなかった。通話料として四万円は多すぎるので、スマホに付帯する決済サービスで何か買ったのだろう。息子のバイト先では、従業員全員が業務をスマホで共有管理しているので、スマホが止められたら日常生活だけでなくアルバイトも立ち行かなくなる。それでお金を貸してほしいと頭を下げられたので私が立て替えていた。
 
「えっ?! あれ、返してくれるんだ! いやいや~あなたすごいね!」
「なんでよ」
「だってさあ、私だったら親から借りたお金はそのまましれっと踏み倒したかもしれない。偉いわあ~!」
「えええ……?」
 
正直なところ、立て替えたときには返ってくるとも期待していなかったし、そもそも貸したこと自体すっかり忘れていた。だが、ついさっき見た映画が映画だっただけに、私の息子はとんでもなくできた子である、自分のやったことにきちんと責任を取ろうとしているなんて、なんてすばらしい! と、ここでも評価が爆上がりしたわけである。少なくとも、この私よりよっぽどまともに育っているのは明らかだ。
 
それですっかり舞い上がってしまい、もうそのお金は返さなくていいよと喉から出かかった。だがそうすると、せっかく返済を申し出た息子の行動を途中で止めさせてしまうことになる。借りたものを返すという当たり前のことを経験するチャンスを、息子可愛さで奪ってはならないと思った。そこでその言葉をぐっと飲み込み、電話のあとでゆうちょ銀行の口座番号を画像で送ると伝えた。
 
「ところで、四万円をいっぺんに返してくれるの? それとも分割?」
 
そのまま電話を切ればいいものを、ついこんな質問をしてしまうあたり、やっぱり私は親として詰めが甘い。仕事が途切れて通帳の残高が減るばかりになったときの心細さを思い出して、つい息子に重ねてしまったのだ。
 
だったら分割にしてもらってもいいかなと言う息子の声を聞きながら、あ~あやってしまった、これじゃあ自立したい子どもの手をぎゅっと握って離せない親じゃないかと反省した。だが、口に出してしまったものは仕方がない。この子は私が思っているよりちゃんとしている。大丈夫だ。少なくとも十代で不義理をして故郷を飛び出してもいなければ、無一文で舞い戻ってきて人の家に転がり込んでもいない。たまにやりくりに失敗したりしているが、困ったときには「ちょっとーすみませーん、ヘルプお願いしまーす!」と親を正しく頼りながら、自分で歩いているのだから。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
前田光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

広島県生まれ。
黒子に徹して誰かの言葉を日本語に訳す楽しさと、自分で一から文章を生み出すおもしろさの両方を手に入れたい中日翻訳者。

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2023-06-21 | Posted in 週刊READING LIFE vol.221

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