週刊READING LIFE vol.227

切れ味のよい爪切りは、小さな違和感を生まないのだ《週刊READING LIFE Vol.227『〇〇は、どうやって誕生したのか?』》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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2023/8/14/公開
記事:前田光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
たかが爪切り、されど爪切りである。
 
それが証拠に、「海外生活に日本から持って行くものリスト」などと検索したら必ず……と、裏を取るために意気込んで検索したところ、何が何でも持っていけと激推ししているサイトの方が少なく、「できれば持って行った方がいいよ」「あると便利だよ」くらいにサラッと流しているサイトの方が多かった。なぜだ!
 
かくいう私は、以前にセブ島に英語留学したときにうっかり爪切りを忘れてしまったため、伸びる一方の爪にイラつきながら、授業が終わるたびに爪切りを求めていくつもの店を訪ね歩く羽目になった。セブ島の人たちだって爪は伸びるはずなのに、なぜかドラッグストアでもショッピングセンターでも売っていなかったのだ。だからそれ以来、私の中では「海外生活=悪いことは言わんから爪切り持ってけ!」の方程式が成り立っている。
 
ことほどさように(個人的には)大切な爪切りだが、調べてみたところその歴史は大して長くないようだ。
 
爪切りに関する特許が世界で初めて申請されたのは1875年のアメリカで、和暦でいうと明治7年、今から148年前のことである。だがこの爪切りは今のような形をしておらず、特許明細書の図面を見ても私たちの知る爪切りとは似ても似つかない見た目をしている(注1)。使い方も「爪を切る」というよりは「削る」といったほうが近いようだ。今の爪切りとほぼ同じ形をした「クリッパー式爪切り」が登場するのは1881年になってからで、やはりアメリカで特許申請されている。
 
では爪切りの登場以前はどうしていたかというと、外国でも日本でも小刀やナイフといった身近な刃物で爪を整えていた。日本では身分の高い人はハサミを使っていたが、庶民の間では小刀のほか、ノミも使われていたそうだ。
 
「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」といわれるのは、電気がなく暗い照明に頼っていた時代のこと、手元がよく見えない夜間に刃物で爪を切って思わぬ怪我をした結果、傷口が化膿して親より先に死んでしまう、という理屈だそうだ。そんな大げさな、と最初は思ったが、よくよく想像してみれば剥き出しの刃物を硬い爪に当てて長くなった部分だけ切り取るなんて、夜どころか昼間であってもヒヤヒヤする。ましてや利き手でないほうの手で刃物を握るなんて、考えたくもない暴挙だ。かといって薄暗いなかで人に切ってもらうのも勇気がいるので、やはり爪切りは昼間に限るものだったのだろう。
 
昔の爪切りといえば、戦国時代から江戸初期までの武将の逸話を集めた文献を1816年(文化13年)に写本させたといわれる『備前老人物語』には、織田信長が爪を切ったときの話が残されている。
 
信長公 手の爪を揃え給いしを小姓とりあつめけるが とかくだづね求むる体なれば
何をだづぬるぞ
と問い給いしに 御爪ひとつ足らざる由を申す
お袖をはらわせ給いければ 爪ひとつ落ちたり
信長公御感ありて 物毎にかくこそ念を入れるべきことなれとて 御褒美ありけり
現代語訳:
信長公が手の爪を整え、落ちた爪を小姓が拾い集めていた。だが、何だかもの言いたげなようすをしているので、
「何か尋ねたいことがあるのか」
と信長公が問うと、小姓は切った爪が一つ足りないのですと答えた。信長公が袖を払うと、爪が一つ落ちた。
信長公は小姓の念を入れた仕事ぶりに深く感じ入り、褒美を与えた。
 
もちろんこの時代に爪切りはなかったので、信長公も小刀を使っていたのだろう。信長公が自分で切っていたのか、それとも誰かに切らせていたのかは定かでないが、短気で癇癪持ちだったと伝えられている織田信長も、このときばかりは忍耐強い人になっていたんじゃないだろうか。
 
爪を切ることに関する戒めのような話は日本だけでなく海外にもあって、たとえば1889年6月26日付けのThe Boston Weekly Globeには「金曜日と土曜日と日曜日に爪を切ると不幸になる。金曜日に切るのは悪魔の思うつぼ。土曜日に切るのは失望のもと。そして日曜日に切ったら、この先一週間が不運に見舞われる」という当時の迷信について論じた記事が掲載されている(注1)。
 
こんな迷信が生まれた背景について、この記事には何も記されていない。それに、当時の人々がなぜ月曜日から木曜日までなら爪を切ってもよいと考えたのかもまったく見当がつかず、いろいろ謎である。だが1889年は上述したクリッパー式爪切りの特許がアメリカで出願されてから8年後にあたるため、ひょっとしたら、便利な爪切りが世に出たことで、それまで「あり得ること」として信じられていた話が「迷信」に転落した可能性はあるかもしれない。
 
日本で爪切りが普及したのは明治時代に入ってからだが、当時の主流は和ばさみ型の爪切りだった。その後、1926年(大正15年)に刃物の名産地の新潟県三条町(現三条市)で創業した諏訪田製作所(注3)が、終戦から5年後の1950年に「瓢箪型爪切り」を開発した。同社は創業当初から、刃物のなかでも「喰切(くいきり)」と呼ばれる、二つの刃先がぴったり合わさる合刃(あいば)でものを切る仕組みになっているニッパー式刃物を専門に製造しており、切れ味も見た目もすばらしい製品の数々を発売している。国内はもとより海外からも評価が高く、現在はニッパー式だけでなく、日本でメジャーなクリッパー式の爪切りも手掛けている。
 
海外で主流のこのニッパー式は、てこの原理を応用しているので、少しの力で爪が切れるという利点があるが、私たちになじみの深いクリッパー式にも爪が飛び散りにくいとか、小さくて携帯しやすいといったたくさんのメリットがある。
 
クリッパー式爪切りが登場したのは昭和に入ってからで、今ではさまざまなメーカーがこのタイプの爪切りを製造しているが、日本で最初にこれを作ったメーカーがどこなのかは調べても分からなかった。だが老舗刃物メーカーの代表格の一つは間違いなく、1783年(天明3年)創業の打ち刃物の老舗、うぶけや(注4)で、ここでも爪切りが製造販売されている。
 
「うぶけや」というちょっと変わったこの屋号は、初代が「うぶ毛でも剃れる(包丁、かみそり)切れる(鋏)抜ける(毛抜き)」と、顧客から称賛されたことから名付けられた。また、職人が刃物を作りながら販売も行う「職商人」という形態の店は今では少なくなったが、二代目以降、このかたちを守りとおしている。
 
ちなみに打ち刃物とは、原材料の軟鉄などを熱してハンマーで打って形成する刃物で、時代劇などで鍛冶屋さんがトンテンカンテンやっているのがこれに当たる。それ以外の作り方があるのか? などと刃物ド素人の私は疑問に思ったが、このほかに素材を型で抜いて仕上げる「抜き刃物」という刃物があるそうだ。
 
うぶけやの爪切りはケース付きの限定販売になっている(2023年8月現在)。見た目は非常にシンプルで、表側の部分には店のロゴすら入っていない。だがそのことは却って、「使い勝手と切れ味がすべて」だと爪切りが暗に胸を張っているようだ。
 
上述したアメリカの迷信の話ではないが、日本でも刃物は「縁が切れる」に通じるため、結婚祝いには縁起が悪いので控えるべきだと言われたりする。だが、これに対するうぶけやの返答が振るっている。
「……例えば鋏は二つの刃が一つの目的に向かって協力して働かねば役に立ちません。これはそっくりそのまま新婚家庭に贈るはなむけの言葉になります。(中略)縁を切るのでは刃物屋は成り立ちません。
うぶけやで切れないものは毛抜きとお客様とのご縁 
先代が残した言葉でございます。この言葉を肝に銘じながら商いをさせていただいております」(同社HPより)
創業240年の老舗の言葉には、時代を超えて顧客から選ばれ続けてきたことを裏付ける重みと説得力がある。私は今、誰かの結婚祝いに猛烈に刃物をお贈りしたい気持ちになっている。もちろん、爪切りもお付けする。日常的に手にする道具一つ一つの使い勝手がいいと、「ちょっとした違和感」が減って生活の質も上がるからだ。
その大切さを改めて知らせてくれたのが、セブ島でようやく巡り合うことのできた、小さな爪切りだった。冒頭で爪切りを求めて何日も探し歩いたと言ったが、ありがたいことに大型ショッピングモールのテナントになっていた日系100均ショップで、ついに爪切りを見つけたのだ。「あったー!」と思わず大声を上げた私を見て、近くにいた女の子が一瞬ぎょっとしたような顔をしたが、そんなことはどうでもよかった。その爪切りは「ネイルケアセット」の付属品で、それまで見たなかで一番小さく、一番雑な作りのものだったが、それもどうでもよかった。自室に帰るなり、ゴミ箱を抱えて爪を切りそろえたのを覚えている。
だがその爪切りは、切れ味があまりにも悪すぎた。もともと安いのだからそのことに文句を言うつもりもないが、爪の切り口がギザギザのガタガタになった指先には、何をするにも「ちょっとした違和感」が付きまとうのだ。洗面も洗髪もパソコン入力もカバンからの文房具の出し入れももちろんできるが、一つ一つの動作にちょっとずつ引っかかりを感じる。「便利であること」は、「不便」を感じないと分からないものだなとつくづく思った。
帰国してしばらくしたころ、長年自宅で使っていた爪切りを指さしながら、息子が「ねえ、この爪切り持って行っていい?」と言った。息子は当時、遠方の学校で寮生活をしており、入学する時に爪切りも買ったはずだった。理由を聞くと、その爪切りの切れ味がひどすぎて我慢できないのだと言う。
そういうことならどうぞどうぞ持って行っておくれ。「ちょっとした違和感」が、ちょっとずつ気持ち悪さを生むあの感じを、私もよく知っている。些細なことで集中力が目減りしていくあの感じも、語学学校で体験済みである。
いいよいいよ、持って行きなと息子に渡した爪切りは関の刃物メーカーのものだった。その切れ味にまったく不足はなかったので、次も関のメーカーのものを選んだ。おそらくこれも一生ものだから、無くしさえしなければ私はもう爪切りを買うことはないかもしれないが、もしそんな日が来てしまったら、今度はどのメーカーのものを選ぼうか。精緻に作られた日用品には、人を惚れさせる力がある。
 
 
 
 
注1:Espacenet patent search https://worldwide.espacenet.com/patent/search/family/002230521/publication/US161112A?q=US161112A
注2:https://www.newspapers.com/article/8683695/superstition/
注3:株式会社諏訪田製作所https://www.suwada.co.jp/
注4:うぶけや https://www.ubukeya.com/

□ライターズプロフィール
前田光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)



広島県生まれ。
黒子に徹して誰かの言葉を日本語に訳す楽しさと、自分で一から文章を生み出すおもしろさの両方を手に入れたい中日翻訳者。

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2023-08-09 | Posted in 週刊READING LIFE vol.227

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