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週刊READING LIFE Vol,96

注意!最強だがトリセツはない《週刊 READING LIFE vol,96 仕事に使える特選ツール》


記事:神谷玲衣(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
今にして思えば、無知の塊だった。
 
語学留学をしたことはあったが、帰国子女でもない私が、いきなりミラノでファッションバイヤーをすることになったのだ。30年以上も昔の話である。
 
母がブティックを経営していたため、小さい頃からよく仕入れについて行っていた。
 
店の商品は展示会で発注するものもあれば、輸入品を扱う商社で現物仕入れをする場合もあるが、私が商品を選ぶ様子を何年もみていたある商社の社長が、母に私のミラノ行きの話を持ちかけたのだった。
 
小さな商社だったので、駐在員と言ってもなるべく経費を抑えたかっただろうし、長年のビジネスパートナーの娘なら信頼出来る、洋服の仕入れについての勘所も悪くなさそうだ、そして女性なら、イタリアで何かと有利だという読みもあったに違いない。
 
などと、当時22歳の私には知るよしもない大人の事情もあったのだろう。
 
留学から戻り、将来は海外に行きたいと漠然と思っていた私は、二つ返事で承諾した。それがどんなに大変なことかわからず、無知がゆえに出来たことだった。
 
会社として初の駐在員派遣で、しかも小さな会社のことなので、ゼロからの立ち上げだった。最初だけ社長がついてきて、一通りのことを教えてくれてから、さっさと日本に帰ってしまった時は本当に心細かった。スェーデン人の役員もいたのだが、彼は展示会シーズンしかミラノに来ないので、本当に一人ぽっちのスタートとなった。

 

 

 

私は日本に大好きな彼がいたのだが、どうしてもイタリアでの仕事に惹かれた。待っていると言ってくれた、彼の言葉に背中を押されて日本を出てきたものの、孤独な新生活に耐えきれなかった私は、毎日彼に電話をした。
 
当時私は、会社からあてがわれたアパートメントホテルに滞在していた。最初の月末にコンシェルジェのところに支払いにいくと、温和そうな目をしたそのおじさんがすまなそうに言った。「シニョリーナ、電話代が200万リラを超えていますが、大丈夫ですか?」
「えっ? 200万リラ? いやいやあり得ないでしょ!」と、とっさに答えた私におじさんは、イタリア語でゆっくりと数字を繰り返すのだった。
 
私のイタリア語が間違っているのだろうか? 当時はまだユーロ統一前で、イタリアの貨幣単位はリラだった。リラは日本円の約十分の一なので、200万リラは、約20万円ということになる!
 
おじさんが奥から持ってきて私に見せてくれた、長すぎて蛇腹になって床に垂れている明細書を見ると、通話した日時、時刻、通話時間、相手先番号がすべて記されている。それは間違いなく私が彼に電話した記録だった。
 
イタリアではホテルから電話をすると手数料がかかるということを知らずにいた私は、寂しさにかまけてかけた電話の代金に腰を抜かした。そんな金額なら飛行機に乗って帰ればよかったと思ったがあとの祭りだ。まったくもって無知とは恐ろしい。
 
私の主な仕事は、展示会発注とは別に、プロントモーダと呼ばれる既製服を扱う商社や、小さなアトリエでアクセサリーを作るデザイナー、家族経営の工場で革製品を作るメーカーなどから仕入れをして、日本に輸出するための手続きをするというものだ。
 
セレクトショップ向けの仕入れなどは、希少性の高い商品を集めなければいけないので、毎日こまめに仕入れに行き、文字通り足が棒になるほど歩き回るのだった。
 
バイヤーというとかっこいい仕事を想像するかもしれないが、それは百貨店バイヤーのように、日本から来てショーや展示会だけを回る方々の話しで、私のように現地に駐在して細かく現場を回っての仕入れもする場合は、ほぼ体力勝負の肉体労働である。
 
イタリアに行く前に、東京の本社で現場の仕事をみっちり仕込まれた私は、いまだにダンボールの梱包がとても上手だ。イタリアやフランスで買付をして、その場で小口に商品を詰めてもらうときなど、あまりに雑でひどいので、いつも現地のスタッフに日本式の丁寧な梱包方法を教えては驚かれたものだ。安全に日本まで送るために、梱包にまで目を配る必要があった。こんなことも知らずにかっこいいバイヤーという言葉に惹かれた私は、本当に無知だった。

 

 

 

私は主にミラノとパリの展示会で仕入れをしていたのだが、展示会シーズンになると日本からもたくさんのバイヤーがやってきて、みんながいくつもの展示会場を回るので、同じメンツと何度もすれ違うことも多かった。ある時ミラノの展示会場を一人で歩いていると、こんな日本語が聞こえてきた。
  
「あの子、よく見るけど中国人かしら?」
 
当時、日本人バイヤーが一人で行動することはほとんどなかった。大きな展示会場では日本から来た百貨店バイヤーは、専属の通訳なども含めて10人近い団体で行動していたので、だれも私を日本人とは思わなかったようだ。
 
展示会場では、まずブースに入って見て回り、気に入った商品があると商談に入るのだが、むこうからするとわけのわからない東洋人の小娘が来て取引したいと言うのだから、最初は胡散臭い目で見られる。当時の支払いはL/Cという信用決済で、特に初めての取引相手だと手続きが煩雑だし、買付高も百貨店に比べれば微々たるものなのだから、良い顔はされない。
 
でも、どんなに相手にされなくても、商品が気に入ると諦めないのが自分でも不思議だった。どうしてもこの商品を仕入れたい! そのスイッチが入った時は、自分でも驚くほど粘り強く商談に持ち込めるのだった。
 
まずは出されたエスプレッソを飲みながら、担当者と話をする。どんなにその商品が素敵か!気に入ったか! と話していると、相手もどんどん打ち解けてくる。どこの国でもモノ作りをしている小さなメーカーは、自社商品にプライドを持って作っている。なので、共通の価値観を持っていることを知ると、とても喜んでくれるのだ。
 
フィレンツェのバッグメーカーのブースでのこと。私が気に入ったバッグがあった。とても上質な革で作られていて、その頃のトレンドを見事に取り入れつつ、いかにも職人が手作りしているといった品の良さを備えていたが、取引したいと言うと、それは売れないと断られた。
 
例によってエスプレッソを飲みながら雑談して、他のバッグも仕入れながら、でもやはり最初のバッグが忘れられず、ずっとそのバッグについて話をしていた。何分話しただろうか。いきなり担当のおじさんが「そんなに気に入ったなら、あなたの会社にこのバッグを売ってあげよう。実は日本では○○デパートのエクスクルーシブデザインになってるんだけど、ちょっと変えて作れば問題ないだろう」と言い出した。
 
そのおじさんは続けて言った。「日本の百貨店バイヤーは、年間何億と買ってくれるが、自分の意見をあまり言わず、全員で数字の話をしているだけで個人の顔が見えない。だからオレは、彼らをMr.M(有名百貨店の名前)とか、Mr.Tと呼ぶんだ。でもあなたは違う。そんなにうちのバッグが好きなら売ってあげたくなるよ」と言ってもらえた。
 
最初からエクスクルーシブだと知っていたら諦めていただろうが、そんな契約形態があることすら知らなかったのだから、まったくもって無知のおかげである。
 
そんな私の横を、百貨店バイヤーの御一行様が通った。買い付け先の会社のイタリア人たちとリストランテにランチに行くのだろう。展示会場の飲食店は格差のあり過ぎる2種類しかない。会場の悪い空気で乾燥したパニーニ(サンドイッチ)しかない立ち食いのバールか、接待で使われる高級なリストランテかだ。
 
接待してもらうほど買い付けていない私は、もちろんバールで立ち食いだ。素敵なデザインのバッグを仕入れられたことに大満足しながら頬張った、パニーニのしおれた葉っぱも気にならなかった。
 
パリでの展示会シーズンに、ホテルを予約するのは至難の業だった。パリ中のホテルが展示会料金で高騰し、それでも予約でいっぱいになってしまう時期、会社の限られた経費の中で選べるホテルはなかなかなかった。
 
ネットがなかった当時、何十軒も電話してやっとのことで二つ星のホテルを予約出来たときは、まさかそんなホテルがあるとは知らなかった。
 
サンジェルマンの小さな路地でタクシーが停まった時、どこにホテルがあるのかと訝しく思って運転手に尋ねると、小さなスイングドアを指差すではないか。思わず近寄って確認すると、確かにホテルの名前が書いてある。
 
タクシーを降りてそのドアを開けると、すぐに階段が見えた。あたりを見渡すが、エレベーターはなく、小さな空間には椅子が一つ置いてあるだけだ。階段横の黄色い壁には、上を向いた矢印と「Réception」の文字が見える。しかたがないので、重たいトランクを持って、靴の大きさと同じくらいの奥行きしかない、歪んでギシギシいう階段をやっとこさ昇っていった。
 
フロントには、アルジェリアからの移民だという黒っぽいお兄さんがいた。息を切らせながら、ミラノから電話予約したと名前を告げると、お兄さんは愛想よく、肌とは対象的な白い歯を見せにっこり笑って鍵を渡してくれた。その部屋は人生初の屋根裏部屋だった。
 
4階の部屋まで、今度はお兄さんがトランクを運ぶのを手伝ってくれた。なんと4階建てのそのホテルにはエレベーターがなかったのだ! ギシギシいう階段を昇って部屋に入ると、まず最初にお湯が出るかどうかを確認した。ヨーロッパの安宿ではお湯が出ないなんてことがよくあるので、ちゃんと出るだけ上等だった。
 
 
 
なるほど、こんなに混んでいる時期に空いてるにはそれなりの理由があるわけだと思ったが、一応快適な部屋ではある。小さなアパートのようなホテルは、大きなアメリカンスタイルのホテルと違って「住んでる感」が漂うのが良かったし、何より大好きなサンジェルマンエリアというのが気に入った。
 
お兄さんが私を覚えてくれたため「ミラノのレイだけど」と電話1本で気軽に予約出来るのが便利で、結局そのホテルはパリ出張時の常宿となった。最初から階段がない屋根裏部屋と知っていたら泊まらなかっただろうが、これも無知ゆえの結果だった。
 
こんな風にして、知らないことだらけの無知な私が、毎日必死で過ごしたミラノ時代だったが、あっという間に月日が過ぎて、とうとう帰国の日がやってきた。ミラノを去るのは悲しかったが、それでも日本に帰って大好きな彼と会えるのは楽しみだった。
 
しかし、期待に胸を膨らませて彼と会った私はすぐに、またもや自分の無知を思い知らされたのだ。彼にはすでに新しい彼女がいた。はっきりとは言わなかったが彼の態度からすぐにわかってしまった。
 
あんなに待ってるって言ってたのに! あんなにお互いの暮らしぶりや仕事について話してたのに! 私はどうして彼を置いてミラノなんかに行ってしまったんだろう。そんなに大切な彼からどうして離れてしまったんだろう?
 
自分が撒いた種を刈り取る苦しみに耐えながら、自分の心に向い合う日々を過ごすうちに、思い当たるフシがなかったわけではないと思い出した。一時帰国のとき、私の話に相槌をうつ彼が、心ここにあらずという感じだったことに薄々気づいていたのに、私は見ないふりをしていただけだったのだ。
 
距離が離れていてもお互いを取り巻く環境が変わっても、愛があれば乗り越えられると思っていたが、私達のように、学生時代から付き合っている同じ年の若い二人が社会に出て、互いの環境があまりにも大きく違っていくなかで、関係を保っていくのは、所詮無理なことだったのだと思う。
 
自分の無知が招いた結果なのだから誰にも文句は言えないが、もし最初からこんなに多くの困難が待ち構えているとわかっていたら、私はミラノ行きを断っていただろう。
 
無知だから飛び込めた、無知だからチャレンジ出来た。無知だから突き進めた。
 
こうして振り返ってみると、「無知」は、私にとって必要な「仕事に使える最強の特選ツール」だったのかもしれない。
 
 
 
この特選ツールの使用に伴う困難について、誰かトリセツに書いていてくれたらよかったのに! と思う反面、最初からわかっていたら面白くないと思う私もいる。
 
あれから数々の仕事にチャレンジして人生に深みが増したのは、無知というツールを使い続けたおかげなのだから、これからもこの最強のツールを大切に、一生モノとして使っていこうと思う。たとえトリセツが無くても、ね!
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
神谷玲衣(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

イタリアでファッションバイヤーとして勤務。帰国後は、カラーコンサルティング、テーブルコーディネーション、人材育成事業などの講師として、大手企業と14年間フリーランス契約を継続しつつ、いくつかのホテルのカルチャーサロンで講師を務める。夫の転勤でドイツとアメリカで子育てをする。2020年8月から天狼院ライティングゼミに参加し、あらたな挑戦にワクワクしている。

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2020-09-22 | Posted in 週刊READING LIFE Vol,96

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