ウルトラトレイルランナーが案内する日本一過酷な鎌倉・湘南観光

第14回:Road To 「TOR DES GÉANTS」⑤ ~トルデジアンと神~《ウルトラトレイルランナーが案内する日本一過酷な鎌倉・湘南観光》


2023/10/16/公開
記事:佐藤謙介(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
トルデジアンの旅もついに後半戦に入った。
 
第3ライフベースの「Donnas(ドンナス)」までに150km、累積標高+12,000m、50時間が経過してる。かなり難関の100mileレース一本分ぐらいはすでに走った計算だが、これでもまだ全体の半分には到達していなかった。普通なら足が完全に終わり体力が尽きていても不思議ではないがドンナスで休憩後、再スタートすると足には力が残っておりフラットなロードなら走ることができたのには自分でも驚いた。
 

【地面にはこうした道案内が多数あった】

 
またこれまでライフベース1、2では仮眠をとっても思うように寝ることができなかったのが、ドンナスでは日中にも関わらず2時間ぐっすり寝ることができた。疲れていたということもあるが、これは日本との時差もあったからだろう。イタリアと日本では時差が7時間あるので、現地で昼の12時なら日本時間なら19時になる。そのため体は夜に入ったと思っていたため、うまく休息が取れたのだろう。
 
 

第4セクション


第4セクションはドンナスから「Gressoney(グレッソネイ)」まで54.3km、獲得標高5,932m、平均斜度10.9%のレース内で最もキツイと言われている区間である。
 

 
これまでのように3,000m近い山を越えるわけではないが、ドンナスが標高322mと低地にあるため、そこから2,252mの「Rifugio Coda(コーダ小屋)」まで行くだけでも17.5kmで+2,766m登らなければならなかった。
 
過去完走した人たちもこの区間が最も通過に時間がかかっていたため、私は事前に22時間はかかるだろうと予想していた。ところがこの読みは大きく外れることとなった。結論を先に伝えるとここで私はここで23時間30分使うことになった。
 
この区間は私が想像しているよりも遥かに厳しい区間となった。
 
 

急変


この日はスタートしてから3日目。この2日間は熱い日差しが降り注ぎ、いかにその暑さを回避するかということが課題だったのだが、天気予報では3日目以降は天候が崩れるとなっていた。ところがドンナスを出る時も相変わらず強い日差しが照りつけ、天気予報はハズレたのかなと思った。
 
ところがそこからいきなり遠くの山で雷が鳴り始め、天気は一気に急変した。
 

【突然大きな雨雲が空を覆い始めた】

 
雷が鳴り始めて10分もしないうちにバケツをひっくり返したような雨となった。
雷もかなり近いところで鳴りはじめ、私の近くを走っていたフランス人ランナーが「危ないぞ、一旦雷を避けた方がいい」と手招きして私を屋根のある場所に案内してくれた。
 
私たちは雨宿りをしながら急いでレインウェアを着込み雷がすぎるのを待った。
しばらくそのフランス人と話していると、なんでも彼の友達が以前トルデジアンに出た時に雷の影響でそれ以上前に進むことができずにリタイヤしたことがあると教えてくれた。特に標高が高いところでの雷は命に関わるので、ここから上に登った時にまだ雷が鳴り止まなかったら厳しいかもなと話していた。
 
幸い15分ほど待っていると雷の音は小さくなり、雨も少し弱くなったので、私たちは再び進み始めることにした。
 
 

神との遭遇


その後も雨は断続的に降り続いた。
幸いにも雷雲は遠くに過ぎたようで雨さえ我慢すれば前に進むことはできた。しかし、標高が上がってくるにつれ、風が強くなり、気温も下がってきたため、体が冷え始め思うように体を動かすことができなくなっていった。また足場も岩場やガレ場、ぬかるんだ湿地などが変わるがわる現れるためスピードを上げることが全くできず、ひたすら体力だけが削られていった。
 
体力がキツくなるとどうしてもメンタル的にも弱ってくる。
メンタルと体力は表裏一体で、メンタルがキツくなれば体力も衰え、体力がなくなってくると気持ちも弱くなるということは過去に何度も味わってきた。
 
この時も私はメンタル的にキツくなり、一歩踏み出すのもだるくて近くにいた牛と同じくらいではないかと思うほどゆっくりとしか進めなくなっていた。
 

【お前大丈夫か?と心配そうな顔をする牛】

 
そんな時に、突然雨が上がって空が明るくなるのを感じた。
背後から陽の光が差し込み私の影が足元に見えた。
私は足を止め、後ろを振り返ってみた。
 
するとそこには雨雲の隙間から青空がのぞき、そして向かいにある山に暖かな日差しが差し込み、金色に染まる山肌を見ることができた。
 

 
あまりの荘厳な眺めに私はそれまでの「辛い」という気持ちが嘘のように晴れ、思わず「美しい」と声を出してしまった。その瞬間に私の心にかかっていた霧がふっと消え、こんな景色を見せてくれた自然に対して、ただ「ありがとう」という感謝の気持ちが湧き上がってきた。
 
すると突然、頭の中に「もしかしてこれが『神』ということなんじゃないの?」という考えが浮かんだ。
足は重く、一歩前に進むことすら辛いと感じていた気持ちが一瞬にして晴れ、心の底から力が湧いてくるのを感じることができた。
 
おそらくどんな心理カウンセラーでも、ここまで一瞬で人の気持ちをポジティブに変えることは出来ないだろう。それをこの景色は、というかこの宇宙は一瞬にしてやってのけてしまったのである。
こんなことができるのは人の力を超えた「特別な力」としか言いようがない。
 
そしてこうした力のことを昔から人は「神」と呼んだのではないかと、私は唐突に考えたのだった。
 
 

GiveとTake


ことわっておくが私は何か特別な宗教を信じているわけではない。
教会には観光以外では行ったことがないし、正月の初詣すら「人混みが嫌だ」と言って年をまたいで一週間くらいたたないと行かないような人間である。
 
そんな私ですら「これが神か」と感じることができたのだから、宗教心の強い他の選手の中には同様の感情を抱く選手もいたのではないだろうか?
そう考えるとトルデジアンのコース中には信仰を感じさせる十字架が至る所にあるのも妙に納得することができた。
 

【コース上にあるクロス(十字架)】

 
ここからは私の勝手な解釈なので、素人の能書きだと思ってお付き合いいただきたい。私は今自分が感じた現象がなんだったのかということが気になり始め、走りながら思考し続けた。
すると一つの考えが浮かんできた。
 
私たちが住む現代社会は「Give & Take」で成り立っているということだ。
下の図を見ていただきたい。
 

 
私たちが普段暮らしている社会はほとんどの場合、この3つの「交換」で成り立っている。
 
①は自分が相手に差し出す「Give」と、自分が相手からもらう「Take」がほぼ同じだけの価値を持っている「等価交換」である。この交換は公平な状態なので特に心が大きく揺れ動くことはない。プラスでもマイナスでもなく概ね満足している状態と言えるだろう。
 
しかし、②はGiveが大きいわりに自分が受け取るTakeが少ないという状態なので気持ちに大きな変化が現れる。これは「搾取されている状態」と言っていい。
この状態は世の中でも意外と多い。例えば夫婦関係では奥さんが一生懸命家事や子育てをしているのに、旦那さんはほとんど手伝わずに山で遊んでいたり、稼ぎが少なくて家計が苦しいという状態である(心が苦しい。。。)
 
他にも会社で自分だけ仕事を押し付けられ、深夜までサービス残業をしなければならないというのも搾取されている状態と言えるだろう。これは少しの間であれば我慢できるかもしれないが、基本的に自分が損をしているので、この関係を長期間に渡って続けていると相手に対して負の感情が強くなる。
 
そして③は②とは逆で、自分が出しているGiveよりも相手からもらうTakeの方が多い状態である。
例えばレストランで美味しい料理を食べることができたのに、代金は自分が思っていたよりも遥かに安い金額で食事をすることができたらきっと嬉しい気持ちになり、この店にリピートしたくなるだろう。
このように自分が徳をしている状態というのは、自分の気持ちがポジティブに変化するのである。
 
私たちが住むこの社会では大きくこの3つの関係式が成り立っているわけだが、自分から見て最も良い状態は③だろう。つまり自分が Giveする以上に相手からのTakeが大きくなると、人はプラスの感情を感じるのである。
 
 

神の一方的な愛


ではもしこのGiveが限りなく小さくなったらどうなるだろうか?
数式で考えるとGiveが限りなく小さくなると結果は「無限大」に近づいていくことになる。
つまり自分が感じる「喜びも無限大」に近づいていくということだ。
 

 
一般的な感覚ではこれはありえないだろう。
自分が何か欲しいものを手に入れたり、より嬉しいことが起きるようにするためには、それに合わせて自分も差し出すお金の量が増えるはずである。それなのに自分が何も提供していないにも関わらず、相手からは施しを受け続けることができるのである。
 
しかし、昔から人はこの交換状態があり得ると感じてきた。
このように自分は何も提供しないにも関わらず、自分に対して良い影響を与え続けてくれる「存在(人とは限らない)」のことを昔から人は「神」と呼んだのではないだろうか。
これが特にプロテスタント宗派の人たちがいう「神の一方的な愛」なのではないかと私は考えた。
 
そう考えるとこの世の中には私が何もしていないのに、私に対してプラスの影響を与えてくれるものはたくさんあることに気がついた。まず親からの愛情はその最たる例だろう。他にもレース中に私に対して笑顔で接してくれる地元のボランティアの人たちだってそうだ。
日本に住んでいれば高望みをしなければ衣食住で困ることはまずない。私たちは普段あまりに①〜③の交換に慣れきっているため、④の交換がごく身近に存在していることをつい忘れてしまうのである。
 
しかし、トルデジアンのような極限状態になると、余計な考えや感情が排除されて、人間が本来持っている「神の存在を感じる力」が蘇るのかもしれない。
 
そういえば千日回峰行という荒業を完遂した塩沼大阿闍梨はその著書の冒頭でこのように述べられていた。
 
「毎朝、白ごはんとあたたかい味噌汁が目の前に出てきます。ある日、ある時、これは奇跡だと気がついたのでありました。今まで当たり前に思ってきたことが、とても感謝に思えてならなかったのです。日に三度のご飯が食べられ、空気も水も光りも平等に与えられているのに、どうして人は不平不満ばかり言っているのだろう、と思ったのです」
 
もちろん私は悟りを開くためにトレイルランニングをやっているわけではないし、ましてやトルデジアンに出ることを修行だと思って参加していない。
 
しかし、ある意味この荒業を通して、人間が本来持っている感覚が研ぎ澄まされ、人間の力を超えた存在に気付くきっかけを与えてくれたのは間違いない。
 
日本から遠く離れたイタリアの地で、しかもレース中に何の宗教心も持たない自分が、「神」の存在を感じるとは夢にも思わなかった。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
佐藤謙介(READING LIFE編集部公認ライター)

静岡県生まれ。鎌倉市在住。
幼少期は学校一の肥満児で、校内マラソン大会では3年連続最下位。ところが35歳の時にトレイルランニングに出会い、その魅力に憑りつかれ、今ではウルトラトレイルランニングを中心に年に数本のレースに参加している。2019年には世界最高峰のウルトラトレイルランニングの大会「UTMB」に参戦し完走。普段は鎌倉・湘南エリアを中心にトレイルランニングを日常として楽しんでいる。

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