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週刊READING LIFE vol.7

どんな時も、夜は明けるけれど《週刊READING LIFE vol.7「よい朝の迎え方」》


記事:濱田 綾(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

ブーブーブー。
バイブレーションの振動が伝わってくる。
ああ、来たか。
そう思って、目をこすりながら電話に出る。
「あの……。ついさっき……」
電話の向こうからは言葉にならない、声が聞こえてくる。
「なるべく、早く向かいますね」
誰が見ているわけでもないけれど、お辞儀をして。
静かに電話を切る。

そこからは、まるで深夜だとは思えないほどの、戦場のような慌ただしさだ。
静まり返った部屋に、音が響かないように注意しながら、身支度を整える。
跳ねた髪の毛をきゅっと縛って、眼鏡をかける。
電話と、パンパンに膨らんだカバンを持って。
そうして、寒い寒い静かな夜の中を自転車で駆け抜ける。
少しでも早く着くように。
さっきまで寝ぼけ眼だったはずなのに、きゅっと冷えた空気が目を覚ましてくれる。
そして、ぎゅっと胸が締め付けられる。
誰もいない。車も通っていない。
そんな静かな夜のことを、時折思い出す。
夢との境のような、そんな不思議な感覚の夜のことを。

その小さくて元気なおばあさんとの出逢いは、つい1か月ほど前の事だった。
「もう、こんなおばあちゃんだけどね。どこも辛いところはないのよ」
「おかげさまでね。ほら元気、元気。もう、しわくちゃだけどね」
なんとも愛らしいウインクをしながら、おばあさんは話す。
小花柄と白い前掛けエプロンがよく似合う、素敵なおばあさん。
おばあさんは、末期の胃癌だった。
残された時間は、それほど多くないだろう。
入院先の病院からそう告げられ、娘さんたちは家へ帰る選択をした。
残りの時間を家で過ごす決意をされた。
その時間が、おばあさんにとっても、娘さんたちにとっても、苦痛の少ないものであるようにと、私たち看護師がお家に伺うことになった。
体調の確認をしたり、薬の調整をしたり。
お風呂に入ったり、時には痛いところをマッサージしたり。
少しでも、家でよかったという時間が流れるように。
そんな思いで、毎日伺っていた。

「もうしわくちゃ、ぺちゃくちゃだわね」
おばあさんが、ウインクしながら話す。
「あーでも、お風呂にまで入れてもらって。ずっと入りたかったの。やっぱり家はいいわ」
明るい調子の声が、お風呂の中に響く。
でも、その声とは裏腹に、呼吸は荒くなっている。
ずいぶんとやせ細ったであろう体は、骨と皮だけなのが際立っている。
なんて気持ちの強い人なんだろう。
そう思いながらも、少しでも早く休めるように動き回る。
髪の毛を洗い、体を洗って。
湯舟には浸かる体力がないから、足湯をして。
たっぷりのかけ湯を背中から流して、体をあたためる。
手早く体を拭いて、着替えをして。
「あー。さっぱりした。極楽だわね。もう思い残すことはないわ」
そんな風に笑いながらも、ふらつく体を支えてベッドに戻る。

「おばあちゃん、もう、このお風呂が楽しみで仕方ないみたいで」
「家でお風呂に入れるんですね。病院では、ダメだって言われていたから」
「お風呂の後は、疲れて寝ちゃうんですけどね。でも、それだけでも家に帰ってきた甲斐があります」
話しながら、娘さんたちが微笑む。
「そうですね。ありがとうございます」
胸が締め付けられるようで、そう返すのがやっとだった。

そんな日々も、1週間経ち、2週間経ち……。
おばあさんが起きている時間が、少しずつ短くなってきた。
食べるご飯の量も、お茶碗に少しだけになって。
数口になり、一口になり。
そうして、水分だけになっていった。
おばあさんは決して痛い、苦しいとは言わない。
「大丈夫」
小さな声で、微笑もうとさえする。
でも、眉間にしわを寄せることが少しずつ増えていった。
「最近夜になると、うなり声が聞こえるんです」
「何だか、急に具合が悪くなるんじゃないかと思って。心配で夜も眠れなくて。こうやってベッドの横に布団を敷いて、夜も家族で付き添いを交代しているんです」
娘さんたちも、涙ぐまれることが多くなった。

そうして、水分を取ることもままならなくなったある日。
「お風呂が好きな人だったから……。でも、今の状態ではお風呂なんて無理ですよね」
娘さんから、相談があった。
起き上がることも、難しい状態。
体も熱い。
おそらく、もうこの熱は下がりはしないだろう。
お風呂は難しいけれど、ベッドの上で髪の毛を洗い、体を綺麗にして。
足湯をして、爪も整えて。
よく似合っていた、小花柄のパジャマに着替えた。
「お母さん、さっぱりしたねぇ。髪の毛も気にしていたもんね」
そう言いながら娘さんは、目頭を押さえた。
ただただ、その背中をさすることしかできなかったけれど。
これが、最期の時間だと意識せずにはいられなかった。
重苦しい空気が流れる中、おばあさんは、少しだけ目を開けてくれたような気がした。

その夜のことだった。
ブーブーブー。
静かな部屋にバイブレーションが響く。
娘さんからだった。
それを受けて、冷たい空気の中を自転車で向かう。
気持ちが急いているせいだろうか。
全然、前に進んでいる気がしない。
足が空回りしているような、変な感覚だ。
それでも何とか、おばあさんの家にたどり着き、挨拶もそこそこに家へ上がる。

娘さんたち以外にも、数人の方がベッドの周りに集まっている。
みんな目頭を押さえている。
おばあさんは、まるで眠っているようだ。
熱が続いていたからだろうか。まだ体も熱い。
「先ほど息をしたかと思ったら、そのまま……」
娘さんが、とぎれとぎれに話す。
気のきいたことが言えるわけでもなく、ただただ、うなずくしかできない。
背中をさすりながら、しばらく静かな時を共にして。

そうして、おばあさんの体をあたたかいタオルで綺麗に拭く。
痛いとも、苦しいとも言わず。
むしろ、私たちのことまでも気遣ってくれたおばあさん。
その強さの裏には、どんな日々があったんだろう。
どんな想いや歴史があったんだろう。
「おつかれさまでした」
そんな想いを込めて拭く。
髪の毛もとかして、汗ばんだパジャマも新しいものに着替えて。
お顔に、化粧水やクリームをつける。
「お化粧は、めったにしない人だったからねぇ」
娘さんはそう苦笑いしながらも、自分の口紅を差し出してくれた。
薄くお粉をはたいて、頬紅を軽く載せる。
「私が、やってもいいんですか」
そう言いながらも、慎重に口紅をのせていく娘さん。
頬と唇に紅がのると、まるで本当に眠っているかのようだ。
また、あの愛らしいウインクに出逢えるのではと錯覚しそうなくらいだった。

「お母さんは、本当に文句ひとつ言わない人だったわね」
「そうそう。しわくちゃばばあって、よく自分のことを冗談にしていたけど。どんなときも、笑いを忘れない人だったね」
ぽつりぽつりと、おばあさんの想い出話が出てくる。
目頭を押さえるのではなく、流れるように、静かに涙がつたっていく。
それぞれの想いが涙となり、静かな時間が流れていく。
そんな時間を過ごしているうちに、少しずつ辺りに色が付き始めた。
窓から見える景色には、光が伴っている。

「ああ。どんな時にでも、夜は明けるんですね」
「本当にありがとうございました。最期の時を家で過ごせてよかった」
そう言った娘さんの微笑みは、おばあさんにとてもよく似ていた。

自転車での帰り道。
今さらながら、寝ぼけ眼に光が差し込んでまぶしい。
犬の散歩をしている人。始発へと向かう人。
あんなに静まり返っていた街も、にぎやかさを取り戻しつつある。
「どんな時にも、夜は明ける」
そう微笑んだ娘さんの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
どんなときも、か。
切ないのか、悲しいのか。
苦しいのか、やるせないのか、無力感か。
言葉では言い表せないような感情で、胸が締め付けられる。
感情に浸っているうちに、いつの間にか家に着いた。

「おかーさん。おかえりー!」
「どこいってたの? お仕事? 朝ごはん何? もうお腹すいちゃったよ」

ドアを開けた瞬間。
あっという間に、いつもの風景に引き戻される。
さっきまでの言い表せない感情とは、反対に。
きらきらした瞳の輝きが、愛おしくてたまらなくなる。

そう。時間は流れていて、同じ時間は、もうないかもしれない。
一日が過ぎて、夜が来て。
夜が明けて、朝が来る。
明けない夜は、ないけれど。
どんな時でも、朝は来るけれど。
そこに、いのちの輝きがあるのは当たり前の話じゃない。
そこに、大切な時間が流れているのも当たり前じゃない。
だからこそ。
限りのある時間だから、愛おしい。
大事な誰かと過ごす朝。
自分自身と過ごす朝。
少し受け入れがたい朝。
どんな朝も。
必ずいつかは、迎えることができなくなる。
朝を迎えることができるのは、きっと小さな奇跡の重なりだ。

「あさごはん! 食べたい! 食べようよ!」

しんみりとした想いを吹き飛ばすかのように、耳元で大声が響く。
全力で笑う息子と、おばあさんの愛らしいウインクが重なった気がした。
こんな朝も、愛おしい風景も限りのあるものなんだろう。
小さな奇跡に感謝しよう。

「分かった、分かったから。ほら、朝ごはん食べよう!」

つい、こぼれそうになる雫を押さえながら答えた。
きっと、こうやって時間は流れていくのだ。
窓の外には、抜けるような青空が広がっていた。

❏ライタープロフィール
濱田 綾
福井県生まれ。国立工業高等専門学校 電子制御工学科卒業。在学中に看護師を志すも、ひょんなご縁から、卒業後は女性自衛官となる。イメージ通り、顔も体も泥まみれの青春時代。それでも看護師の道が諦めきれず、何とか入試をクリアして、看護学生に。国家試験も何とかパスして、銃を注射に持ち代え白衣の戦士となる。総合病院に10年勤務。主に呼吸器・消化器内科、訪問看護に従事。
プライベートでは、男子3兄弟の母で日々格闘中。
今年度より池袋にほど近い、内科クリニックで勤務している。クリニック開業前から携わり、看護師業務の枠を超えて、様々な仕事に取り組む。そんな中で、ブログやホームページの文章を書く、言葉で想いを伝えるということの難しさを実感する。上司の勧めから「ライティング・ゼミ」を知り、2018年6月に平日コースを受講。「文章は人を表す」は、ゼミを受ける中で、一番強く感じたこと。上っ面だけではない、想いを載せた文章を綴りたい。そんな歩み方していきたいと思い、9月より「ライターズ倶楽部」に参加中。

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2018-11-19 | Posted in 週刊READING LIFE vol.7

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