世界に一人だけの先輩《週刊READING LIFE vol.16「先輩と後輩」》
名前:高林忠正(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
私はその人を常に先輩と呼んでいた。だから名前は打ち明けない。
遠慮というよりもそれが私にとってぴったりくるからである。
私はその人を思い出すたびに、「先輩」と言ってしまう。今回、この文章を書こうとしても気持ちは同じである。
仮名を使う気にもならない。
私が先輩と初めての接点を持ったのは、年末商戦だった。
当時私は百貨店でスポーツ用品の仕入を担当していた。
仕入とは、店舗で販売する品物を仕入れる部門である。
コンビニ、スーパー、専門店、さらに町の商店であっても、売れる品物を仕入れることがその店舗や、事業体の業績を左右するといっても過言ではない。
12月の上旬だった。
スポーツ用品の仕入の上司から、「今日から食品の手伝いをするように」と指示された。
百貨店にとって、年末の食品とは、「お歳暮」であり、さらには「おせち料理」という、業績を左右しかねないビジネスがある。
そんななか、私は集計を任された。
日々変化するお歳暮商品の売上についてだった。
食品バイヤーたちは、集計された売上高をもとに、商品を調達して現場をバックアップしていた。
まるで、戦場のようななかで私だけがニュートラルな存在だった。
12月の10日間だけだったが、私は食品仕入のPCの前で業務し続けた。
いったい何でお役に立っているのか半信半疑だった。
ただ、「食品の仕事っておもしろそうだな」と思い始めていた。
それは私のうわべだけしか見てない、単なる解釈に過ぎなかった。
表に現れない部分こそ、その本質がある。
食品ビジネスこそは、地味で、しかも、お客さまに対して「安全と安心」が求められる。
口に入る品物を扱う以上、衛生面から1分1秒の気の緩みも許されない仕事だった。
毎日集計作業が終了すると、オフィスの中央奥に鎮座しているゼネラルマネージャー、通称GM(ジーエム)から「ありがとう」とねぎらいの言葉をかけられた。
GMとはその組織の最高責任者だった。
身長180センチ以上で、ガッチリしたタイプのおっさんだった。ひとことでいえば、仁王様のような存在感があった。
「いい人だな」
そんな印象を持った。
ただし、その後の嵐のような日々はまったく予測できなかった。
単なる手伝いだけだった私に転機が訪れた。
3ヶ月後だった。
人事に呼ばれた私は、異動を言い渡された。
行き先は、食品の仕入だった。
「ああ、集計を手伝ったあの食品の仕入か」
集計の日々がよみがえってきた。
「まずは、責任者にあいさつしとかなきゃな」
人事異動の辞令を持って、あいさつに行った。
年末のときと同じように、GMは仁王様のような形相で座っていた。
「よろしくおねがいします」
と言ったものの、3ヶ月前とはそもそもリアクションが違った。
まるで射すくめられるような目だった。
「あれっ……?!」
口元は微笑んでも、目が笑っていなかった。
これから始まる日々に、一抹の不安を覚えた。
その3日後、3月1日の午前9時半だった。
GMをはじめ、同僚となる食品仕入の社員30数名の前であいさつをした。
担当は、スーパーマーケットのような部門、グロッサリー単品管理を行うものだった。
初日だった。
食品のど素人が、目利きともいえる仕事に着いちゃっていいんだろうか?という疑問があったが、「きっとなんとかなる」と思っていた。
ところで、
「今日って何すればいいんだろう?」と思ったそのときだった。
「おい、新人!」
いきなりGMから呼ばれた。
入社18年目であっても、知らないことだらけだった。
「グラニュー糖500グラムの店頭小売価格っていくらだ?」?
いきなり言われた。
「ええ⁉」
寝耳に水だった。
前日まではスポーツ用品の仕入として、スポーツシューズやスポーツアパレルを調達していればそれで良かった。
「いくらだ?」
「……」
「もう一度聞く。いくらだ⁉」
「……分かりません」
一瞬で目つきが変わった。
「おまえは、食品仕入のバイヤーでもあるんだ」
「食品の仕入とは現物現認だ。すぐ調べろ!!」
有無を言わさないひとことだった。
席に戻りながら、まるでドラゴンボールZのかめはめ波を食らったかのようだった。
(調べろと言ったって、どこで調べりゃいいんだろう?)
(誰に聞けば……?)
しかし、誰かにすがろうにも、すでに3月1日の仕事は動き始めていた。
食品仕入の社員は一人残らず、自分の職務に集中していた。
電話を取る人、取引先さんとの打ち合わせに行く人。
さらにかたわらでは、新商品を前に販売部門とスタッフ部門を交えて、けんけんがくがくと議論し始めていた。
誰一人相談できそうな人はいなかった。
(どうしよう……)
仕方がなかった。オフィスから歩いて3分のところにある、日本橋本店で確認するしかなかった。本来ならば、社員通用口から入らなければならないのに、そんなことは言ってられなかった。
目の前のお客さま用の入り口、「ライオン口」があった。
ロンドン、トラファルガー広場にあるライオン像を模したライオン。
「伝統の中の革新性」の象徴だった。
入ろうとする私に、インフォメーションの受付嬢は「ここはお客さま用の……」と言いかけたが、無視した。
地下のグロサリーコーナーに直行した。
グラニュー糖500グラムは350円だった。
何よりも驚いたのは、砂糖だけで5種類あることだった。
仕入に戻って、GMに金額を報告した。
「分かった」というひとことだけだった。
席に戻ると、机の上には書類が置かれていた。
店舗が独自に品物を仕入れる場合、仕入の承認の必要があった。
その承認の書類だった。
恵比寿店が、長崎県の坂本屋という店舗の「豚の角煮」を仕入れたいというものだった。
脇にいた同僚にこれってどうすればいいか聞くと、「GMの承認印をもらうこと」と言われた。
書類を持ってGMのところに行った。
「あのう……、(承認印を)お願いしたいんですけど……」
声に出そうとしても、出なかった。
自分であって自分でない声だった。
震える手で書類を手渡したところ、いきなり言われた
「おまえ、この坂本屋の品物って知ってんのか?」
(どうしよう、そんなの知ってるわけないよ)
正直に言うしかなかった。
「いいえ、存じ上げません」
間髪を入れずGMの怒りが爆発した。
「おまえそれでも食品のバイヤーか!!」
オフィス中に響く声に固まってしまった。
今度こそ何をしていいかわからなかった。
下を向くしかなかった。
席に戻りながら、ベテラン社員の河本(仮名)さんから声がかかった。
「メーカーに連絡して取り寄せちまえばいいんだよ」
「それで試食したあとに承認印をもらえばいいんだよ」
「どんな味で、どんな品かがわかったうえで承認印をもらえばいいのさ」
河本さんの言われたとおりにしてみた。
品物は翌日送られた来た。
試食してみた。
そのうえで書類を持っていくと、何も言わず承認印を押してもらえた。
「とんでもないところに来ちまった」
それは、食品の仕入に新たに入った人、誰もが通る道だった。
私はグロサリーサロン(スーパー形式の店舗)の担当として、体で食品を覚えることになった。
試練は、「麦踏み」と呼ばれていた。
冬の間、強く踏まれた麦はたくましく成長して実りの時期を迎える。
「麦踏み」の洗礼の目的は、「人づくり」にあった。
表に出ない、食品仕入だけの伝統だった。
あとから聞いたところでは、普通は3ヶ月で終了するところ、私の場合、食品販売未経験ということもあり、半年が過ぎても続いていた。
一向に終わりのない洞くつの中にいるようだった。
その頃になると、GMは何か特別な存在のように見えてきた。
風貌といい、雰囲気といい、テレビのドキュメンタリー番組で見た終戦直後の日本を占領したGHQの最高司令官、ダグラス・マッカーサーそのものだった。
ノンキャリアながら、300年の歴史のなかで初の取締役になった人。
目利き力と行動力、何よりも瞬時に本質を掴む能力に、社長をはじめとする上層部のみならず、会社全体からの信頼が篤かった。
その年の秋だった。GMより福岡の新規開店の担当をするような指示された。
同時にプライベートブランド(その会社独自の品物)の牛乳も企画、実現するということになった。
食品の仕入に入って半年が過ぎても素人感は抜けなかった。
そんな自分がプライベートブランドの品物をつくっちゃっていいんだろうか?
GMの指示とあらば、やるしかなかった。
九州の大牟田の乳業メーカーと組んで仕事を進めることになった。
短期間だったが、店頭の現場との協力をもとに3ヶ月で実現することになった。
やればやれると実感した。
福岡店のオープニング。
食品売場で陣頭指揮を取るGMがいた。
誰もが最高司令官としてリスペクトしている姿があった。
麦踏みが1年近くになろうとしているときだった。
GMから指示が出た。
「食品仕入、係数担当を命ず」
「なんだこりゃ?」
それは、GMの席の脇での仕事を意味していた。
食品部門の業績の集計、30数名いる社員への指示、総務との連絡のパイプ役、店舗との打ち合わせなどが表立ったものだった。
ただし、おもてに現れない仕事が目白押しだった。
GMのもとへの来客へのお茶出しから、GMの外出したあとでの対応など、女性の事務員がいないことから、秘書役であり、その他のこまごまとした役目を一手に引き受けることになった。
「麦踏み」から、「半径2メートルの接近戦」の始まりだった。
GMの間合いの中に入ることになったことから、ランチをともにすることになった。
紅花のココットカレーから始まり、北京飯店の担々麺など、GMの好みの食事に同行することになった。
昼食のあとは、決まって喫茶「ルノアール」での昼寝タイムとなった。
「15分経ったら起こせ」が合言葉だった。
さらに、夜の仕事が終了した後、その時間まで残っている社員たちを交えて、オフィス内でのワインミーテングを始めることもあった。
ただ、私にとっていつの日も「最高司令官」には変わりはなかった。
GMということばで何か触発される気がした。
半径2メートルに接近して、半年が過ぎようとしていたときだった。
全社的に、「さんづけ運動」が始まった。
極端な話、相手が社長であろうと、入社1年目の新人であろうと、おたがいに「さんづけ」をするのである。
「社長の井上さん」
社員はこう呼んだ。
今まで、「おい、◯◯!、おめえなぁ」
呼び捨てにしていたところ、
「◯◯さん、しっかりしてくださいよ」と切り替えるのである。
言葉が変わると、気も変わるものである。
最初はおたがいが微妙な空気感となった。
GMにはなんて言っていいか迷った。
それまで、「GM」と言っていればおたがいに気心が通じたのに、「さんづけ」には違和感しか生まれなくなっていた。
しかし、社員として「さんづけ」しなくてはならなかった。
練習してみた。
「◯◯さん」
声に出してみても、なにか言えないのである。
そりゃそうである。
無意識にも私のなかでは、最高司令官像が出来上がっていたからである。
その人に「さん」とはちょっと……
(なんて言ったらいいんだろう?)
困った。
他の人は平気で「さんづけ」していたが、それでも言えなかった。
1週間悶々としていた。
GMとも呼ばず、さんともつけず
なにか中途半端な会話が続いていた。
ある日の午後、こんなことでは関係性が芳しくないと判断した私は、思い切って聞いてみた。
「私はなんてお呼びしたらいいでしょうか?」
嫌な顔をされた。
沈黙の時間が流れた。
「おめぇなぁ、そんなこと、自分で考えろ」と言われてしまった。
(考えろって言われたって……)
そのときだった。
あることばが降りてきた。
「先輩」
だった。
恐る恐る聞いてみた。
「あのう、おそれいりますが、これから「先輩」とお呼びしてよろしいでしょうか?」
今度は今まで以上に長い沈黙だった。
「しょうがねぇなぁ……勝手にしろ!!」
それが、GM、最高司令官を「先輩」と呼び始めた最初だった。
もちろん、お客さまや、お取引先さんのいる前では使わなかったが、2人の間で承認された呼び名となった。
新たなビジネス、新たな仕組みも「先輩」という声がけから始まった。
喜びも、想定外の事件も「先輩」と同行二人状態だった。
先輩と呼び始めて1年が過ぎようとしていたときだった
私に辞令が下りた。
店頭の食品だった。
半径2メートルの接近戦の最終日だった。
「失敗は存在しない。すべてがフィードバック」
先輩から贈られた言葉だった。
以来19年。
おたがいに百貨店の場から離れながらも、生涯現役の道を歩んでいる。
今では自信を持って「先輩!」と呼べる存在となっている。
世界に一人だけの先輩として。
❏ライタープロフィール
高林忠正(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
接遇の伝道者。慶應義塾大学商学部を卒業後、三越に入社。
販売、仕入をはじめ、24年間で14の職務を担当後、社内公募で
法人外商を志望。ノベルティ(おまけ)の企画提案営業により、
その後の4年間で3度の社内MVPを受賞。新入社員時代、
三百年の伝統に培われた「変わらざるもの=まごころの精神」と、
「変わるべきもの=時代の変化に合わせて自らを変革すること」が職業観の根幹となる。一方で、10年間のブランクの後に店頭の販売に復帰した40代、
「人は言えないことが9割」という認識の下、お客様の観察に活路を見いだす。
現在は、三越の先人から引き継がれる原理原則を基に、接遇を含めた問題解決に当たっている。
http://tenro-in.com/zemi/66768