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週刊READING LIFE vol.17

記憶オタクで何が悪い?!《週刊READING LIFE vol.17「オタクで何が悪い!」》


記事:高林忠正(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

記憶オタクで何が悪い?!
 
13年前の3月のことだった。
私は小学校のクラス会の集まりに参加していた。
小学校の校舎が老朽化から取り壊されることから、その前にひと目見ようという主旨だった。
20年ぶりに会ったガキ大将、卒業以来音信不通だった女の子、さらには、初恋の小川(仮名)玲子さんまで集まった。
 
クラス会という名の異空間だった。
人であり、モノのひとつひとつが記憶の中から上がってきた瞬間だった。
あんなに白かった校舎も日に焼けてクリーム色になっていた。
教室の机もいすも、理科室も、職員室も、レプリカのミニチュア版を見ているような気がした。
それらが、間もなく現実からなくなってしまう。
 
さびしさだろうか、なにかむなしい気持ちになっていた。
 
クラス全員が昭和29年か昭和30年生まれで、人生の折り返し点を迎えようとしていた。
お孫さんがいる子も2人いた。
 
それぞれの人生には、それぞれの年月があった。
同じ小学校を卒業しても、まったく異なる人生を歩んでいる。
どの顔にもシワとともに、経験という輝きが刻まれている感じがした。
 
小学3年生のときの担任、豊田景子(仮名)先生と、6年生のときに新任として赴任してきた、現校長の矢島(仮名)先生もいらした。
年月は、お二方のきつかったまなざしに柔らかさをもたらしていた。
 
ぼーっと考えていたときだった。
「この校舎っていつからだったけな?」
声の主は、出席番号1番の磯野(仮名)君だった。
 
そのときだった。
突然私の中に、小学4年生の1964年の風景が沸き上がってきた。
東京オリンピックが終わった直後、テレビ番組『大人の漫画』で故 青島幸男さんが、「オリンピック終わって気ぃぬけちまってよ……」というシーンとともによみがえってきたのだった。
 
社会は虚脱感にあふれていた。
大人も子どもも何か、祭りのあとのなんとも言えない感じがするなか、小学校の落成式が行われた。
あのときの校舎は白かった。
 
「あれって、1964年の11月だったよね」
無意識から出た言葉だった。
 
20数名の視線が私に集まるのがわかった。
 
「あれってさ、落成式の翌日だったかなぁ、全校の音楽会があったんだよね。講堂の2階席に6年生がすわってさ、1年から5年までは1階席で見てたんだよね」
 
へぇー
とささやく声が聞こえた。
 
「ところで、おれたち、って林間学校は箱根に行ったことあったよな」
内山(仮名)君がみんなに問いかけた。
 
自然に言葉が出てしまった。
「1年のときは、箱根の芦之湯の紀伊国屋旅館だったよね。お風呂の硫黄の匂いが強烈でさ。浴槽の脇でボーッとしてたら、後ろから宇野(仮名)君に(お風呂に)突き落とされちゃったんだ」
 
すでに自分のなかで何かが弾けていた。
 
「2年は臨海学校で千葉の浜金谷、3年は那須高原で一望閣っていうホテル、4年は箱根で紀伊国屋旅館、5年は臨海学校で伊豆の三津浜、6年は山中湖の平野で休暇村みたいなところに泊まったよね。2年のときは、風邪で行けなくてさ。5年のときは直前に野球をしていてねんざしたけど、参加したんだよね」
 
一気にまくしたててしまった。
 
すでにそのときは、感心する視線ばかりではなかった。
何人かから、不思議そうに見つめられていたのがわかった。
 
3年のときの担任、豊田先生が口を開いた。
「遠足って、どこへ行ったか覚えてる?」
 
すでに私の独壇場だった。
「遠足は1年で2回あったんですよね。
4月は、幕張海岸に潮干狩りに行ったんですよね。海が廃液で黒くて、臭くて、浜辺とはいうもののドロドロで。金山さんが、私物がないといって泣き出したのを先生が見つけてくださったんです」
 
「秋は11月だったんじゃなかったですかね。武蔵野郷土館というところに行ったんです。帰りのバスは行きと違って玉堤通りを通ったんです。巨人軍のグランドが見えたんです。窓から見ると、背番号3番の長嶋がバッティング練習をしているところだったんです。バスのなかで歓声が上がったんですよね。あのときって、もう日本シリーズが終わったあとだったんじゃなかったですかね」
 
ここまで来ると、みんなの視線は明らかに変化していた。
興味というよりも、世にも奇妙なものを見るような雰囲気になってきた。
 
自分としては、記憶の引き出しを開けて、上がってきたシーンをしゃべっているに過ぎなかった。意識はシンプルだった。
 
「語り部(かたりべ)だねぇ」
今ではすっかり好々爺となってしまった矢島先生が言った。
在学中はいつもクラスの片隅にいるだけだった自分が、初めて主人公になってしまった瞬間だった。
 
昔も今もカッコいい大島(仮名)君が口を開いた。
「そういえば、今日は来てないけど、久しぶりに宇野(仮名)君が来たときがあったよな」
 
宇野くんはお父さんの関係で、クラスで唯一の海外(台湾)経験のある子だった。
 
実家は大磯という、宇野くんの消息はいかに?
欠席している子の話題に移った。
 
「あれって、大岡山の料理屋だったよな」
内山くんが言った。
 
またしても「シーン」が上がってきた。
それは私の結婚式の1週間前だった。
場所は六本木、ロアビルのとなりのブロックの居酒屋だった。
 
(ちがうよ、大岡山じゃないんだ。六本木なんだ)
 
迷った。言おうか言うまいか……
 
(いいや、言っちゃえ!!)
 
「あれってさ、1984年の10月6日、土曜日だったんだよね。あのときってさ、仕事が終わってから行ったんで遅くなってさ」
「今日は来てないんだけど、武蔵先生が、『一週間後に高林が結婚すんだぜ』ってみんなに知らせてくれたみたいだったんだ。だからみんなに会ったとき、『おめでとう』って言われたんだ」
 
内山くんは口を尖らせて言った。
「そんなことねえよ。絶対に違うよ」
 
反論するつもりはなかった。
「だって、私の結婚式の1週間前だったから忘れようにも忘れられないんだよね」
まして、私自身、日課となっている3年連用日記にはすでに記入済みだった。
 
(もういいだろ。過去のシーンを上げて話すのも)
 
しかし、私への質問が相次いだ。
1年生のときに初めて立たされた子は?
2年生のときに、坂野先生から引っ叩かれた子は?
6年生のときの遠足は?
 
それぞれのシーンを記憶の中から上がってきた通り伝えた。
クラス会はいつの間にか、私の記憶を開示する場に変わっていた。
 
予定の時間はまたたく間に過ぎた。
「また次回、語り部に聞かせてもらいましょう」
矢島先生のお開きの言葉で会は終わった。
 
東急池上線の石川台駅へ続く笹丸坂の途中、背後から「まるで記憶オタクだよな」という声が聞こえてきた。
 
「オタク」
人生で初めて言われた言葉だった。
 
学校の試験でも暗記物は得意ではなかった。
むしろ覚えが良くないほうだった。
 
それが自分のなかでシーンを思い出そうとすると、場面と年月が一緒になって現れてくるのだった。
クラスメートからほめられても、自分では淡々としていた。
 
それ以来、小学校の仲間と集まっては、「また思い出しちゃったよ」という枕詞とともにエピソードをオープンにして笑いを誘った。
 
友人たちの良い行いもあれば
自分の失敗や粗相のシーンもあった。
 
しかし不思議なことに、ネガティブなシーンは一つもないのである。
 
特別でもなんでもない。自分の特徴くらいにしか思わなかった。
小学校の仲間たちと会ったときの宴会芸の1つだとばかり思っていた。
それから10年以上が経った。
記憶オタクの私は、いつも仲間とともにあった。
 
そんななか、自分への気づきが突然やってきた。
昨年の4月だった。
トレーナーをしているセミナーのあとの懇親会、指導いただいている高山(仮名)先生と、再受講の私たちトレーナー5人が池尻大橋のイタリアンレストラン、オステリア・ボーノに集まった。
 
セミナーの講評から、話題は映画に移っていた。
「『スター・ウォーズ』を初めて見たのはいつでしたか?」
高山先生がみんなに聞いた。
『スター・ウォーズ エピソード4』のことだった。
スター・ウォーズ
 
「あれって、1977年の7月だったんですよね」
思わず口から出てしまった。
 
「高林さん、覚えてるんですか?!」
高山さんの瞳が開いたのがわかった。
 
「いえね、1977年って、新入社員として百貨店に入社した年だったんですよ。
映画の公開に合わせて日本橋本店の7階で、パネル展が開催されたんです。
ちょうど、ピンクレディーの『渚のシンドバッド』や、沢田研二の『勝手にしやがれ』がヒットしてました。
7月の20日前後でした。ちょうどお中元の真っ最中でした」
 
私を除く6人の視線が私に注がれていた。
 
「パネル展の初日、閉店したあとの会場の脇をたまたま通りがかったときでした。
一人の外人がいたんですよ。
きれいとはいえないTシャツに、よろよれのジーンズ姿の男性だったんです。
年齢は20代でしたよね。
それも物珍しそうにキョロキョロしてるんです。
『チンケな野郎だなぁ、こいつ』と思いましたが、気にもかけませんでした」
 
「3週間後のようやくめぐってきた休日、私は『スター・ウォーズ』を見に行きました。
勇ましいBGMに驚いた私は、さらにスクリーンを見ながら度肝を抜かれたのです」
 
「あのときのチンケな外国人、実は主役のルーク・スカイウォーカー役のマーク・ハミルだったんです!!」
 
いつも冷静な高山さんが身を乗り出したのがわかった。
 
「今から41年前のことですよね。そんなにありありと覚えてるんですか?」
 
たまたま記憶の中から上がってきた1977年の原風景だった。
(あーあ、また小学校の語り部みたいなことやっちまったなぁ)
 
「もう一つ、聞いていいですか?
『ET』って、いつの公開でしたか?」
 
私の引き出しはすぐに上げてきた。
「1982年の12月ですよ。
あの年は、日本に初めてエアロビクススタジオができて、エアロビクスブームが起こったんです。
原宿ではドトール・コーヒーがオープンして、『150円でこんな味のコーヒーが飲めるんだ』という発見の年でした。『ET』は、年が明けた1月になってから見たんです。そういえば、1月の『新春スターかくし芸大会』で堺正章さんがETに扮したんですよね」
 
一気にまくしたててしまった。
すべては無意識が上げてきたことだった。
 
沈黙の時間が流れた。
みんな呆れて何も言えないでいるようだった。
 
(何か、まずいこと言っちゃったかな……それとも、自分をバラしすぎちゃったかな?)
 
高山さんが口を開いた。
「高林さん、これって、”感情の解放”ですよ。ぜひご自身の才能と思ってください!」
 
(”感情の解放”?……一体何それ?)
 
「感情の解放、ご自身の気持ちが解放されて、つまり、高林さんの心そのものが喜んで、過去の記憶を、シーンとして、セリフで、そして体感として上げている状態なんです」
 
ベストセラー講師であり、著者でもある高山さんからの賞賛だった。
 
そのときまで私自身、特別なことをしているつもりはなかった。
ましてや、自分が世間さまに通じる天分なんて、まったくないと思っていた。
 
高山さんがおっしゃるところの「これ」って何だろう?
しばし想像してみた。
 
すると私の中から1つのシーンが上がってきた。
それは、長男が『ドラゴンボールZ』の過去から現在までのストーリーを、まるで映画館にいるかのように語るときのものだった。
長男が20代後半になっても映画館やイベントに足を運ぶ姿に普通ではないものを感じていた。
 
しかしそれって、私がスター・ウォーズや、ETを見たときの背景を語るときと根源となるものになんら変わりはないように見えてきた。
 
長男が『ドラゴンボールZ』を語るとき、それは自身の人生最高の笑みのときだった。
私と同じで、それは高山さんがおっしゃる、「感情の解放」にほかならないと確信した。
 
「オタクとは、1970年代に日本で誕生した呼称であり大衆文化の愛好者を指す」(ウィキペディア)という。
いわゆる何かの分野に熱中、没頭している人たちのことである。
 
評論家の岡田斗司夫さんによれば、当初は否定的な意味で使われた「オタク」が、1990年代から肯定的に使われるようになったという。
消費から、創造する分野にも広がっているようである。
 
世界の歴史において、レオナルド・ダビンチや、エジソン、そしてアインシュタイン、現在ではスティーブ・ジョブズに至るまで、数々の「感情の解放」が人類をここまで進化させてきた。
 
多様化しているように見えるオタクの未来は分からない。
しかし、今日の日本にとって、貴重な「感情の解放」のひとつであることに変わりはない。

 
 
 

❏ライタープロフィール
高林忠正(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
接遇の伝道者。慶應義塾大学商学部を卒業後、三越に入社。
販売、仕入をはじめ、24年間で14の職務を担当後、社内公募で
法人外商を志望。ノベルティ(おまけ)の企画提案営業により、
その後の4年間で3度の社内MVPを受賞。新入社員時代、
三百年の伝統に培われた「変わらざるもの=まごころの精神」と、
「変わるべきもの=時代の変化に合わせて自らを変革すること」が職業観の根幹となる。

一方で、10年間のブランクの後に店頭の販売に復帰した40代、
「人は言えないことが9割」という認識の下、お客様の観察に活路を見いだす。
現在は、三越の先人から引き継がれる原理原則を基に、接遇を含めた問題解決に当たっている。

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2019-01-29 | Posted in 週刊READING LIFE vol.17

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