週刊READING LIFE vol.17

狂人の努力 ~チェリストの兄の場合~《週刊READING LIFE vol.17「オタクで何が悪い!」》


記事:戸田タマス((READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

兄が嫌いだった。

 

何も言わず、
誰ともつるまず、
自分の部屋から出ることなく、
いつもチェロを弾いていた。

 

とにかく、本当にずっと、チェロだけを弾いていたのだった。
そんな兄が、本当に嫌だった。

 
 
 

私には、2歳上の兄が一人いる。
子供の頃は、いたって普通に仲の良い兄妹であり、
一緒に遊んでいた記憶もたくさんある。

 

むしろ、あの頃の私にとって兄は自慢のタネだった。
なぜなら、兄は小学生の頃、何でもできる子供だったからだ。
運動神経も抜群で、走らせれば同年代の誰よりも早かった。
勉強だって一番だった。
妹の欲目があるかもしれないが、
背も高かったし、顔だって悪くなかったと思う。

 
 
 

今でもよく覚えている思い出が1つある。

 

兄は木登りが上手だった。

 

当時私達が住んでいた集合住宅地には
銀杏の実をつける大きなメスのイチョウの木があり、
毎年秋になると、ご近所総出での銀杏の収穫大会が開かれていた。

 

ご存知の通り、
銀杏の実のブニョッとした果肉部分は、
触るとかぶれてしまう上に独特の匂いがある。
そのため、数人の大人の男の人が完全防備で登り、枝をゆすって実を落とし、
女の人と子供が落ちた実をトングで拾うというのが通例だった。

 

しかし、兄が小学生高学年になると木登りの上手さを買われ、
大人の男の人に混じって木に登り、銀杏の実をふるい落す方に抜てきされたのである。
今でこそ、子供にやらせるのはどうなのかと言われてしまいそうだが、
私が子供の頃は、まだ色々なことが
いい意味で雑だったように思う。

 

兄が、花咲じいさんの様に木に登り枝をゆすると、
実と一緒に黄色いイチョウの葉がたくさん舞い落ち、辺り一面黄色の花吹雪になった。
その光景が子供心にとてもまぶしく、また誇らしい気持ちになったのを
とてもよく覚えている。

 
 
 

私は、ただ純粋に兄のことが好きだった。
しかし
それは兄が中学生になると、突然終わりを迎えた。

 
 
 
 
 
 
 
 

「え? 君あの先輩の妹なの? マジで?」

 

また言われた。
これで何度目だろう。

 

「やめてくださいよ〜! あんなのと兄妹って言われるの本当に嫌なんですよ〜」

 

私は、すごく大げさに嫌がってみせる。

 
 
 

兄は、中学に入学すると同時に吹奏楽部に入部し、
そこで弦楽器のチェロにのめり込んだ。

 

初めは学校でだけの練習だったが、それに飽き足らず、
兄は父にねだって練習用の安いチェロを購入してもらった。

 

それを皮切りに、
兄はどんどん変わっていった。

 

ご飯や学校の時以は部屋から出なくなり、夜中でもお構いなしにチェロを弾いた。
湿度が変わると楽器が痛むからと年中エアコンをつけ、
誰も部屋に入れなくなった。

 

掃除しに入った母をめちゃくちゃに怒鳴りつけ、
あげく父と殴り合いのケンカになった。
仕方なく、父は兄の部屋に簡単な防音装置を取り付けた。

 

運動もせず日にも当たらないため、
兄はどんどん白くなり、筋肉も落ちガリガリに痩せていった。

 

学校の成績もみるみる落ちた。
母は何度も学校に呼ばれ、その度にまた父とケンカをした。

 

兄はどんどん無口になった。

 
 
 

一度だけ、母と一緒に兄の吹奏楽部の舞台を見に行ったことがある。
はっきり言って、兄だけ様子がおかしかった。

 

周りの部員達は、いたって普通に楽器を弾いているのに、
兄だけがまるで何かが乗り移ったかのように
頭を振り乱し、体を激しく揺らし、クルクル回ったりしながら演奏している。
一流の音楽家ならまだしも、単なる中学生の身でのその振る舞いは
とても不気味に見えた。
もちろん、とんでもなく浮いている。
ふと、近くの人がクスクス笑いながら言った。

 

「すごいね、なにあの子」

 

気づいたら私は、母を残して会場を出ていた。

 
 
 

この時から、
兄に対して恐怖と同時に恥ずかしさを抱くようになり、
私は普通なんだ、兄とは違うんだ、と
いうことをとにかく強調するようになった。

 

兄に学校で話しかけられても無視し、
他の人に兄妹なの? と言われるたびに大げさに嫌がってみせ、
兄を「あいつキモイですよね」と悪く言った。
家でもなるべく話さないように、近づかないようにした。

 
 
 

しかし、
どれだけ普通に振る舞っても、必ず私には
「あの先輩の妹」という、兄の影がつきまとって離れなかった。
皆、私じゃなくて、私の後ろの兄を見るのだ。
そのうちに、恥ずかしさは兄への憎しみに変わった。

 

家では直接兄を罵ったこともある。
キモい、近寄るな、学校で話しかけるな。

 

お前のせいで、誰も私を見てくれないんだ、そんな気持ちもあったかも知れない。

 

そんな時、
兄はいつも無言で私を睨んだ。
眼鏡の奥からじっと、ただただ睨むのだ。

 

しかし、次の瞬間にはもう、チェロを弾いている。
まるで私なんていないかのようだ。
そんな様子もますます憎らしかった。

 
 
 

私は兄とは違う、地元から少し離れた高校に進学した。
もう高校には、兄のことを知る人などほとんどいない。
私は高校生活を満喫するのに忙しくなり、
次第に兄のことなど気にしなくなっていった。

 

兄は地元の高校を卒業後、音大へと進み、
某有名交響楽団のチェリストに弟子入りした。
結果、現在は
別の仕事をするかたわら、セミプロとしてオーケストラに所属している。

 
 
 
 
 
 
 
 

大人になった今、
兄とはもう10年前の私の結婚式の日以来、一切会っていない。
メールアドレスも、電話番号も知らない。
どこに住んでいるのかも、はっきりとは聞いていない。
そして、私はただただ
あの頃兄に対してとった行動、全てを猛烈に後悔するばかりだ。

 
 
 

今なら簡単に分かる。

 

私達の中学の吹奏楽部は全国でも強豪チームだったので、
大抵は小さい頃からの経験者が入部する。
その中でも兄は入部と共に始めたビギナーであったから、人一倍、いや何倍も練習する必要があった。
辛くて辞めてしまう人も多い中、
兄は執念とも言える練習量で、経験者達を負かしレギュラーになっていたのだった。

 

あの「狂」は
異常に見えるほどの「執念の努力」。
そのことに当時の私は気づこうともせず、
自分にいつも付きまとう兄の影を払うことに必死で、
兄の異常に見える部分だけを切り取り、周りの人と一緒に貶めていた。

 

そもそも兄は、ただ純粋にチェロに
「熱狂」しただけだった。
それによって、誰かを傷つけたりしたことは一度もない。
その熱の熱さのあまり、
私を始め、平凡な人間が兄を持て余したのだ。

 

なんとも恥ずかしいことだが、
今では兄がチェリストだということを
色々な人に言いふらし、自慢のタネにしている自分がいる。
改めて、自分の都合の良さには嫌気がさすばかりだ。

 

世の中には、兄のように
周りがなんと言おうと好きなことを貫ける人間がいて、
そういう方たちは図らずも
オタク、バカ、狂人とレッテルを貼られてしまう。
ただ、それは私のように
「狂」になれなかった人間の視点でしかない。
事実、もはや兄は、私など遠く及ばない世界へと羽ばたいている。

 

結果、オーケストラ仲間にも恵まれ、
兄は非常に楽しく、充実した毎日を送っているそうだ。

 
 
 

私は、兄に許してもらおうとは思っていない。
いや、もはや私のことなど眼中にないだろう。
これから先、私にできることは
兄の活躍を心の中で応援することのみ、だ。

 
 
 
 
 
 
 
 

2019年、正月。
私は複雑な気持ちで、
夫と娘と共に実家に向かっていた。

 

なぜなら、
今年は、兄も実家に帰ってくるというからだ。
10年ぶりの対面に、もう何を話せばいいのかもわからない。
それに、やんちゃ盛りの娘に対する、兄の反応も怖かった。

 
 
 

兄は、10年前とほとんど変わらないように見えた。
相変わらず、痩せていて真っ白だ。

 

こわごわ久しぶり、と言った私には
ちらっと目線をよこしただけで何も言わない。
しかし次の瞬間、兄は突然しゃがんでこう言った。

 

「○○ちゃんに、これあげるわ」

 

兄は、淡いピンクのスイートピーの一輪花束を取り出し、
私の後ろに隠れている娘に渡そうとしたのだ。

 
 
 

何してんだ、にーちゃん。
2歳児へのお土産に花なんて。
普通ここはオモチャかお年玉でしょうが。

 
 
 

なぜか目尻に熱いものがこみ上げてきて、母を探すふりをしてその場を離れた。
あの兄が、
他のことに一切興味を示さなかった兄が……。

 

夫によれば、娘はもらった花を握りしめ、しばらく離さなかったそうだ。

 
 
 

その夜、開かずの間の兄の部屋から、
娘のでたらめに歌う声と、iPadから兄が聞かせているのであろう
クラシック音楽が聞こえていた。
時折兄がチェロを触らせているのか、
弦をボンっと弾くような音もする。

 

あんなに兄が熱狂していたのを近くで見ていたのにも関わらず、
私はクラシックの曲が全然わからないし、興味もない。
しかし、娘はとても楽しんでいるようで、音に合わせてアーアー歌っている。

 

ずっと娘の声とiPadの音しか聞こえてこないが、
今、兄はどんな顔をしているのだろうか。
きっと思った以上に娘に懐かれて、どうしたらいいかと焦っているに違いない。

 
 
 

10年越しの妹のオーケストラ鑑賞など、はっきり言って兄は迷惑だろう。
でも今度こそ、途中で帰らず最後まで聴いて、力一杯拍手をしよう。
それとも娘と一緒に行ったほうが、少しは当たりが和らぐだろうか。
この期に及んで、娘すらダシに使おうとする自分の浅ましさ。
逆に笑えてきてしまう。

 

私は母に言った。

 

「にーちゃんのオーケストラ、次はどこで演奏会やるのかな?」

 

※このお話は実際の兄をモデルとしていますが、フィクションです。

 
 
 

❏ライタープロフィール
戸田タマス(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
滋賀県出身。同志社大学卒。
派遣社員として金融機関を中心に従事する傍ら、一児の母として育児に奮闘中。
あるオウンドメディア内でライティングを初めて担当し、「書くこと」の楽しさ、難しさを知る。スキルアップのために、2018年8月天狼院書店のライティング・ゼミ日曜コースに参加したことをきっかけに、ますます「書くこと」にハマる。
しがない三十路の主婦がどこまで書けるようになるのか。ワクワクしながら自分へのチャレンジを楽しんでいます。

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2019-01-29 | Posted in 週刊READING LIFE vol.17

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