週刊READING LIFE vol.18

53歳ですが子育て真っ最中です!《週刊READING LIFE vol.18「習慣と思考法」》


記事:國正珠緒(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

「たまちゃん(私のこと)寒い。ガタガタする」
昨夜の夜中2時のことである。起きて、ソファに座って寝ている母の毛布と布団をかけ直す。一番下の毛布を脚に巻き込むようにするのがポイントだ。
 
ずれた枕を直す。窓際から侵入する冷気を防ぐために置いたクッションとぬいぐるみをきちんと置き直す。
「ア〜、少し良くなったわ。ありがとう」
すぐに自分の布団に戻る。目が冴えてしまったのでiphoneで今日見られなかったドラマを見る。見ながら自然に寝付いてしまう。
 
ゴソゴソ……。布団をめくるような音がして目がさめる。
母がトイレに行こうとソファから立ち上がろうとしている。朝の4時だ。そうか、2時間近くは寝られたみたい。まあいい方だ。
「1,2,3,4,5……ダメだ」
「1,2,3,4,5,6,7……よ〜っこいしょっ! フ〜」
母は一人で立ち上がり、よたよたと歩きながら私の枕元を通ってトイレに向かう。
 
母が立ち上がろうと掛け声をかけている間私は半身を起こし、うっすら目を開けて、母の行く先に障害物がないか確認する。私は決して几帳面ではないので、もしかするとトイレまでの通路にバックを置きっぱなしにしてるかもしれないし……。
 
「あっ。私の枕がちょっと飛び出してる! まずい! 引っ込めなきゃ」
 
このように母が立ち上がるまでの20秒ほど? の間に私はあらゆるリスクを想定して心の準備をする。この瞬間に胸がキューっとなり始める。心筋梗塞ではない。母が途中で転んだらどうしようと、心配になるからだ。でも、すぐにその思いを打ち消すように努力する。
そう、何かの本で「思いは現実になる」と読んだことがあるからだ。
そして母に声をかける。この声のかけ方も重要だ。
「頑張って行ってきてね。これだけは代われないから」と多少ユーモアを込める。
 
一番言いたいのは「転ばないで」なのだが、確か潜在意識は否定の言葉を理解できないと聞いたことがある、母の潜在意識に「転ぶ」という言葉がインプットされないように気を使う。
母がヨタヨタとトイレに行くまでドキドキしっぱなしだ。トイレのドアを閉める音がして安心する。でも流す水の音がするとまた鼓動が高鳴る。母は少し息を上げながら、さっきと逆方向に私の枕元を歩いて、現在の彼女のベッド、リビングのソファに戻っていく。
 
はっきりいう。トイレに関しては付き添った方がはるかに精神的に楽だ。幸い母はトイレが遠い方で一晩に二回行くことは稀なので助かっているが、それにしても母がトイレに起きるたび、ほぼ同じような状況になる。それでも「できることは自分でしたい」という意思を尊重して、私はドキドキしながら母の夜中のトイレを見守る。まるで小学校に通うようになった娘が心配で電信柱の影に隠れながら尾行する母親のように。
 
我が家はリビングしかないわけではない。ちゃんと寝室(二人兼用)があり、ベッドが2つある。
それなのに、母はリビングのソファに座ったままの体制で寝ており、私はリビングの片隅に布団を敷いて寝ている。
去年の暮れも押し迫った頃に何かの拍子に肩甲骨の下のところが痛いと言い出してからベッドに横になるのが痛いようで、試行錯誤した結果今の寝方に落ち着いたのだ。
 
クリスマスからお正月にかけて我が家は「母の寝姿勢問題」でてんやわんやだった。
 
母は12年前に背骨の圧迫骨折をしてから背中が曲がり、長時間経っていることが不自由になり家事がほとんどできなくなった。6年ほど前に明け方にトイレに行くときに転んで、尾てい骨を骨折して1月ほど入院してからは目に見えて筋力が衰えた。ほぼ90度曲がった姿勢なので、そもそもベッドに仰向けに寝られない。半分に折れて背もたれが上がってくる介護用ベッドも試したが、脚が水平になっているのはバランスが取りにくいようで、すぐに介護用ベッドは使わなくなった。
去年の暮れまではベッドに左側を下にする体制で寝ていたのだ。
ベッドにこそ寝ていたが、腰の当たる部分が痛いと言っては起きてソファの方に行ってみたり、掛け声かけてトイレに行ったりしていたので、夜中に起こされる回数は今とあまり変わらなかった。
 
肩甲骨の下のあたり(おそらく肋骨にヒビが入っているのだと思う)が痛むようになってから、横向きの体勢で寝ることが辛くなったらしく、試行錯誤の末たどり着いたのがソファに普通に座った体制で寝ることだった。
何かがあった時のために私はすぐに対応できる位置(リビング)に移動して寝ている。

 
 
 

夜中に相手の都合で何度か起こされる。相手は自由がきかない。相手は自分より弱い。これって何かに似ていないだろうか。そう、子育てだ。
 
母は多少忘れっぽいが普通にコミュニケーションは取れる。我慢もしてくれる。泣き叫んだりはしない。だから子育てよりは多少楽だ。
私は子供を産まなかったので、人生の中盤を少し過ぎたこの時期に母の介護(もっと大変な人から見たら笑われるかもしれないが)をさせてもらえるようになったのは、子供を育てられなかった私への神様のプレゼントだと思うようになった。
 
以前は終電逃すくらいまで飲み会に参加してたのに、最近はほとんど一次会で失礼するようになった。母の顔が早く見たくなるのだ。今から10年以上前に子育て中だった友人が同じようだったことを思い出す。
 
多分、手間のかかり方や愛する気持ちなどはほぼ5歳の女の子を育てている感覚に相当近いと思う。

 
 
 

でも「介護は子育てだ」と言い切ることができない理由が1つだけある。
 
それは母への敬意だ。私を産んで育ててくれて、人生経験が私の倍あって。そんな女性のことを「育てる」などと言っては失礼すぎないか!? 本人が聞いたら気を悪くするのではないか?
っていうか親を敬う気持ちはないのか?
 
「私は子育てをさせてもらっている」と思うたびにそんな思いが頭をよぎる。
 
でも「擬似子育て」だと思うようになってから、夜起こされることも、出かけるときに必ずご飯を用意しなくてはならないことも、行き先を何度も聞かれることも、全て嬉しくなった。
あ、ごめんなさい少し嘘つきました。もちろんたまにはイライラもします。でもそれは子育ても一緒ですよね。
 
子育てという言葉に若干の後ろめたさを感じるのでちょっと言い方を変えてみた「秀才児の子育て」これなら少しは母への敬意が込められるのではないか。
 
声を大にしていう。「介護は秀才児の子育てに似ている!」
 
ある人にこう言われた。「子供はだんだん成長するけど、お年寄りはねえ……」
 
何をいう。お年寄りも日々成長している! その変化をみんな見ようとしていないだけだ。
 
例えばうちの母の趣味は刺繍だ。確かに母の刺繍はここのところ大味になってきている。おそらく白内障も進んでいるのだろうし、根気も体力も少なくなっているのだろう。
でも完成した作品は実に調和していて美しいのだ。身体能力の衰えをカバーする何かが作用してここ数年の母の作風は明らかにかっこよく、芸術的になった。
91歳になってもまだ進化している。5歳の少女の成長と同じことではないか!
 
母が特別なわけではないと思う。どんなお年寄りでも死ぬまで何らか進化、成長していく。
病気のお年寄りはどうなのか。うちの母は深刻な病を抱えていないのでそれはわからない。でも例え母が認知症になったとしても、その「変化」を「成長」と捉えるような関わり方をしていきたいと思っている。
 
母のためじゃない、あくまで自分のために。それが一番楽に生きられる「思考法」だからだ。

 
 
 

❏ライタープロフィール
國正 珠緒 READING LIFE 編集部ライターズ倶楽部
東京都生まれ東京都在住
庭や門周りなど家の外部空間を専門に設計(エクステリアデザインと言います)する仕事をしています。モットーは「住んでる人が素敵に見える門構え、手入れよりも豊かに過ごす時間が長くなる庭を作ります」
自社のホームページを少しでも読みやすいものにしたくて、ライティングゼミに通い始めて「書くこと」の奥深い魅力にはまっています。
エクステリアコーディネーター2級 公認講師

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2019-02-04 | Posted in 週刊READING LIFE vol.18

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