しいたけ嫌いから、愛を込めて。《週刊 READING LIFE vol.20「食のマイルール」》
飯田峰空(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「好き嫌いせずになんでも食べなさい!」
この言葉は、誰もが一度は言われたことがあるだろう。
好き嫌いの多かった私も当然のように、こう言われ続けていた。成長するための、大人になるための暗黙のルールのように思えた。そして、この台詞のプレッシャーと、自分の頑張りのおかげで大体の嫌いな食べものは克服できるようになった。でも、今でも食べられない食材が、たった一つだけある。
私はしいたけが嫌いだ。
グニュグニュした食感、存在感のある独特な匂い、細かいひだがある見た目、どれを取っても全く好きになれない。味に深みや奥行きを出すのはわかっている、特に和食に欠かせないのも知っている。それでも、どうしても嫌いなのだ。
大嫌いゆえに、しいたけとの思い出は数限りなくある。
小学校の給食で、献立にしいたけが入っている日には、配膳係を名乗り出たり、おかずをよそうクラスメイトに買収をもちかけて忖度してもらったりと、あらゆる手立てを使って自分の皿にしいたけが入らないようにしていた。
林間学校の時に、自分の皿にあるしいたけを食べてほしい、と友達にお願いしたら、そのかわりに肉もくれ、と言われて条件を泣く泣く受け入れたこともある。
またある時の夏休み。前日の夜に眠れないくらい楽しみにしていた親子料理教室で、一緒につくる餃子のレシピにしいたけが入っていると知るや否や、テンションが急降下して不機嫌になったのを覚えている。その時は、上手にできあがった餃子をほじくり、解体して、しいたけを除いて食べた。
それくらいしいたけを食べないことに、全力をかけていた。
それでも、こうして避けていられるのも子供のうちで、大人になったらしいたけを食べなくてはいけないんだろう、と思っていた。また、「大人になったら味覚が変わる」という魔法の言葉もあって、いつかは自然にしいたけが食べられるようになるとも思っていた。
こうした私としいたけの関係は、高校生の時が地獄のピークだった。
高校生ともなると、「子供だから仕方がない」が消滅し、「いい年なのにみっともない」に変わる。モラトリアムも終わり、「しいたけ、食べてあげようか?」の周りの優しさもなくなる。かといって、しいたけを避けるべく自分で全ての食事をコントロールするほどの裁量権がない。しいたけを目の前にして進むことも戻ることもできない袋小路に迷うのが、高校生の私だ。
私はこの時期に、不可抗力でしいたけを食べなくてはいけない時の奥義を身につけた。舌と上顎の両方にしいたけが接触しないように口の奥、喉の入り口にしいたけを入れ、喉に放り込む奥義だ。おえっとなるのを我慢しながら、私はその奥義で長らくその場をしのいでいた。
そして、私はしいたけの美味しさに目覚めることのないまま、大人になった。好き嫌いがある欠陥人間だ、大人として不完全だ……と思っていたのだが、ところがどっこい! 話してみると結構、大人でも嫌いな食べ物がある人はいるのだ。子供の頃と違って、毎日自分が何を食べるかの主導権を持っている大人は、嫌いな食べ物を無理に食べずに距離をとって生きていける。だからこそ嫌いが露呈することもなく、食べられるように格闘する必要もなく生活ができると気づいたのだ。
そして、心の奥底に隠し持つ嫌いな食べ物の話は、食事の席などでひょっこり顔を出す。好きな食べ物以上に切実で必死なのか、嫌いな食べ物の話は、その人の性格や人となりを垣間見ることができて面白い。だから、私はあえてその話題をして、相手の反応を見るのを楽しみにしている。
そうして嫌いな食べ物の話を聞いている内に、その答え方にいくつかパターンがあるな、と私は気づいた。
多いのは、嫌いだけれど料理に入っていれば食べる、という人。これぞ大人な対応で、実に平和的だ。多くの人がこう対処しているのかもしれないし、そうなれたら理想だと思うが、私はとてもその領域にはいけない。
次に、嫌いなことを表明して食べない人。食べないだけならまだしも、嫌いな食べ物そのものを侮辱する人がいる。食べている人が他にいるにもかかわらず、「そんなものを食べるなんて信じられない」というスタンスで話をしてくる。その場の雰囲気が悪くなるし、聞いていて不愉快になってくる。嫌いで食べられないのは理解できても、こういった人には絶対になりたくない。
そんな中、私の前に「第三の回答」をする人が現れた。
その人は、私が参加したギリシャ旅行ツアーの中にいた、一人の老紳士だった。ツアー参加者の中で一番年齢が高く、なかなか近寄りがたい雰囲気の方だったのだが、ある日の夕食で同じテーブルになった。
そこで、あることが起こった。
私の目の前に運ばれる料理と、彼の料理が違うのだ。ふとそのことを彼に話すと、
「私は、鶏肉が嫌いでしてね……」と彼は言った。
あ、これは鶏肉の悪口を言うパターンかな、と雰囲気が悪くなるのを覚悟して心がギュッと身構えたその瞬間だった。
「未熟なもので、鶏肉の美味しさがわからず、この年にまでなってしまいました」
あれ? 今まで聞いたことない切り返しだ。そう思って、周りを見渡すとちっとも雰囲気は悪くなっていなかった。むしろ、老紳士のその謙虚な姿勢と、老成している中から見える「欠けている」感じに、人としての可愛らしさを感じて、周りの人はほっこりしていた。
すごい、この老紳士の姿勢。
嫌いなものは嫌いと素直に主張する。その中で、嫌いな食べ物のことを悪く言わず、自分がその良さに気づけないという見方をする。そして、その食べ物を食べる相手に、嫌な気分を与えない。誰の心も乱すことなく、本人は見事に嫌いな食べ物を回避できている。その嫌いな食べ物も、残されて捨てられることもなければ、無理やり飲み込まれることもない。なんて全員がハッピーな食卓なんだ!
私はそれ以来、「しいたけは食べなくてよしとする。ただし、最大級の愛情を持って接する」ことをマイルールに決めた。
例えば、外で食事をする時。定食屋のように、好きなものを一人一品頼むときには、しいたけの入りそうな煮物、和食のおかずは一切選ばないことにしている。しいたけが活躍しているフィールドにわざわざ入っていって、彼の魅力を拒絶するようなことはしない。
また、中華料理などで大皿をみんなで分ける時には、その分け方にも目を光らせる。各自が皿によそうスタイルの時はいいとして、誰かが全員分をよそう時には、その役を率先してやって、しいたけを好きな人に食べてもらう。
そして、コース料理の場合には老紳士のように素直に言う。その時も、自分がしいたけの良さにまだ気づけていない姿勢でいる。
私が嫌いなしいたけを、他の誰かは愛している。
あの嫌いなしいたけの食感、匂い、味、見た目を、大好きな人がいる。
その気持ちを忘れずに、愛を込めてしいたけ嫌いでい続けよう。
私は、あの時の老紳士を食の師匠にした。
❏ライタープロフィール
飯田峰空
神奈川県生まれ、東京都在住。
大学卒業後、出版社・スポーツメーカーに勤務。その後、26年続けている書道で独立。書道家として、商品ロゴ、広告・テレビの番組タイトルなどを手がけている。文字に命とストーリーを吹き込んで届けるのがテーマ。魅力的な文章を書きたくて、天狼院書店ライティング・ゼミに参加。2020年東京オリンピックに、書道家・作家として関わるのが目標。
この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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