週刊READING LIFE vol.4

あの時の涙が繋いでくれたもの《週刊READING LIFE vol.4「いくら泣いても、泣き足りないの。」》


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記事:濱田 綾(ライターズ倶楽部)

人前で涙を見せるようになったのは、いつからだろう。
どうして、ありふれたように見える日常に涙が出るんだろう。
年をとったからと、年齢のせいにしているけれど。
色んなことがつながって、今がある。
そういう感情が涙となり、その実感を幸せと呼ぶのかもしれない。

「がんばれー!」

広い空の下。子供たちの歓声。
それに負けない大人の歓声。
心地よい騒がしさの中で、いつも涙ぐんでしまう場面がある。
つい気持ちが高まる。
そう、運動会だ。
かけっこやダンス、どんな種目にも熱がこもっている。
どの子供をみても、その一生懸命さに涙が出そうになる。
大げさだけど、その姿からいのちを感じずにはいられない。
そして、決まって思い出すことがある。
小さな小さないのちが、ここへとつないでくれたことを。

あれは、朝晩が肌寒くなってきた日のことだった。
いつものように職場に出かけた。
まだ何の変哲もない、お腹をそっとなでながら。
ついこの間、小さないのちが宿っているのに気が付いた。
自分の中では不思議な気持ちが芽生えながらも、まだ何も変わらない。
もちろん時期も時期だから、まだ限られた人にしか知らせていない。
病院が職場だから大丈夫。
そんなよく分からない自信を持って。
いつもと変わらない日常の始まりだった。

その日は、なぜかいつもにも増して忙しかった。
みんなバタバタと速足で動き回る。
そのペースに巻き込まれるかのように速足になる。
病棟には、明日が山場かもしれないというくらいの患者さんもいる。
この日も例外ではなく、ピリピリした空気が流れていた。
そんな時、一人の患者さんが病室から出てこられた。
ゆっくり。でも、ふらふらと点滴棒を押しながら。
具合が悪くて、とても一人で歩ける状態ではなかったはずなのに。
目を疑った。でも、そんなことを言っている場合じゃない。
遠目にも、ふらふらしているのが見える。
そこから先は、理屈じゃなかった。
よくピンチの時は、周りがスローモーションに見えると言うけれど。
後にも先にも私が、そのスローモーションを見たのはあの時だけだった。
患者さんの側まで駆け寄ろうとしたとき。
点滴棒が、斜めに上から落ちてくるのが視界に入った。
患者さんの体も斜めに傾いているのが見えた。
やばい。
そう思ってからすぐのことだった。
「ガッシャーン」
「ドン」

大きな音がして、お尻に痛みを感じた。
何が何だか分からなかったけれど、私は尻もちをついていた。
患者さんは、私の上に座るかたちで倒れていた。
点滴棒は、かろうじて二人の頭上からは角度を変えて、少し離れて倒れた。
大きな音で、たくさんの人が集まってきた。
よく分からなかったけれど、まずい事になったのは間違いない。
大きな声だけは聞こえてくる。
怒られているのか。
それさえもよく分からなかった。
唖然としたまま、怒涛のような一瞬が過ぎた。
一人の先輩が、心配そうに手を差し伸べてくれた。

「大丈夫?」

すぐには意味が分からなかった。
しばらくして、思い出してしまった。
お腹の中の小さないのちのことに。
血の気が引くようだった。
幸い痛いのはお尻だけ。大丈夫。大丈夫。
そう思い込みたくて、何度もトイレへと向かう。
押し寄せるような不安な気持ちで、どうやって残りの仕事をしたか、そんなことも思い出せないくらいだった。
ただ、事を知る先輩が小声で言ってくれた。
「早く受診したほうがいい」
そして、代わりに色んな仕事をしてくれていたのを後で知った。

「今のところは、大丈夫そうですよ」
先輩の言葉を受けて、仕事終わりに慌てて受診した。
診察の結果は、特に異常がなかった。
不安な思いが、少し和らいだ。
でも、あの衝撃はかなりのものだった。
それを思い出すと、和らいだ不安が、またすぐに襲ってくる。
大丈夫。大丈夫。
そう思いたくて、ついお腹をなでる。
どうかこのまま何も起きませんように。
どうか。
そんな想いと裏腹に、いつからか、じんわりとお腹の痛みを感じ始めた。
気のせいであってほしい。
目覚めれば何もなかったように、いつもと同じ朝になる。
そんな淡い期待と打ち消しきれない不安を胸に、むりやり眠りについた。

けれど。
痛い。
生理痛のような、いや、もっと鋭い痛みで目が覚める。
お腹が痛い。
お腹を押さえるようにして、トイレへ向かう。
血の気が引くようだった。
頭からは血の気が引いていくのに、真っ赤な出血が止まらない。
ああ、もうだめだ。
どうしよう。
泣きそうになりながら、震える手で電話をかけ、病院へ向かった。

「これは……。流産ですね。残念ですが」
「体のことを優先すると、手術することになります。いいですか?」

遠い、どこか違うところで話を聞いているようだった。
でも、仮にも私は、病院で働いている。
よく分からない職業観と責任感で、だからこんな時こそ、しっかりしなきゃ。
そう思って、何とか自分を保とうとした。
けれど。よく分からない。実感がない。
言葉は分かるけれど、頭がついていかない。
いいですか? って何?
昨日までは大丈夫だったはず。
よくはない。よくはないけど。
仕方ない? 仕方ないのか……。
でも、やっぱりよく分からない。
これは、私に起こっていること?
昨日までは、何にもなかったのに?
どうして。どうして?
今から手術なの?
ということは、やっぱりもうだめなの?
頭の中をぐるぐると思考がまわる。
言葉が出ない。
差し出された説明書と同意書を見る。
時間を追うごとに激しくなっていくお腹の痛みと、現実かさえもよく分からない感覚と。
やっとの思いで、同意書にサインをした。
そうするしかなかった。
ふらふらとベッドに横たわり、思った。
どうか目覚めたら、夢であってほしい。
酷い夢だったと、そう言えるように。
ありもしない期待を抱いて、目を閉じた。

家への帰り道は、ひどい雨だった。
車のワイパーが、忙しそうに動いていたのだけは覚えている。
その動きを見ていると、何も考えなくてもいい気がしていた。
何だか嘘のような出来事で、ふわふわと宙に浮いているような、そんな感覚だった。

手術を終えてからは、家族も、先輩も、知る人はみな心配そうに声を掛けてくれた。
「残念だったね。大丈夫?」
でも声を掛けられても、今いちよく分からなかった。
残念か……。ああ、そうか。
私、手術したんだった。
お腹の痛みはなくなった。
今までいのちが宿っていても、何かの実感があったわけじゃない。
でも、無力感というか。
何かが、なくなった気がした。
ぽっかりと穴が空いたような、そんな感じだった。
お腹も空かない。
行きたいところもない。
食べたいものもない。
それでも仕事があることは、救いだった。
無理やりにでも、外に出る。
そして、誰かと話す。
自分のことは置いておいて、目の前のことに集中できる時間だった。
その時間だけは、ふっと消えたくなるような想いをしまって、ぐらぐらする足元を何とか保とうとしていた。

そんな日々が続き、女性特有の周期が、しばらくぶりにやってきたとき。
実感してしまった。
ああ、やっぱり小さないのちは、もうなくなってしまったんだと。
そして後悔か、悲しさか。
よく分からないけれど、次から次から感情が溢れてきて、涙が止まらなくなった。
もっと、私が気を付けていればよかったのか。
運が悪かったのか。
そもそも何の関係もなく、最初からそういう運命だったのか。
ごめんね。ごめん。
もうよく分からないけれど、とにかく泣くしかなかった。
泣いて、泣いて。
そうして、初めて気付いた。
そうか。
私、こうやって泣きたかったのかもしれない。
涙を流して。
後悔も懺悔も、悔しさも。
嫌な気持ちも、痛い思いも。
これからのことを考えるのが、怖い気持ちも。
そんなもの、全部流れてしまえばいいと思った。
涙で流れてくれれば。
あの時の打ち付けるような、激しい雨みたいに。
流れてほしい。消えてほしい。
そう思っていた。

もちろん、いくら泣いたって、絡んだ想いは、そんな簡単に洗い流されるはずもなく。
穴の開いたままの日々は、続いた。
むしろ、いのちに対してとても敏感になってしまっていた。
幸せそうなニュースを聞くと、心から祝福できない。
子供の姿や家族の姿を見るのが辛い。
いや。辛いという程、かわいいものではなかったかもしれない。
何で、私だったんだろう。
何で、こんな想いをしなくてはいけないの。
そんな黒い想いが、心の中を占めていくのが、嫌でたまらなかった。
そんな私を周りの人たちは、気遣ってくれた。
でも、その気遣いさえも、素直に受け入れられない自分がいた。
黒い想いに気付かれたくなくて。
これ以上、増やしたくなくて。
自分ひとりの殻の中に閉じこもりたかった。

そう。何度も声を荒げて泣いたこともある。
一人になると思い出されて、お風呂の中で静かに泣いたこともある。
泣いたからと言って、何かが変わるわけではなかったけれど。
それでも、泣くという感情を押し込めることはなくなっていった。
何度も何度も泣いて。声を荒げて。
黒い想いが薄くなり、濃くなり。また薄くなり。
そうして少しずつ、その間隔が伸びて。
少しずつ、少しずつ痛みの感覚が薄れてきた頃。
新しい、小さないのちが宿っていることを知った。

それは、嬉しさもあったけれど。
それ以上に、怖くてしかたなかった。
今度は、大丈夫だろうか。
また、同じようなことにならないだろうか。
あの時の、痛みを帯びた記憶は薄れてはいる。
でも、忘れたわけではない。
それでも。
信じるしかなかった。
そして、自分の殻から出たかった。
怖いけれど、ここで逃げたくなかった。
何とか仕事は、続けたかった。
自分を保ってきた、ひとつの場所だったから。
あの時のことを、どこかで仕事のせいにしていた。
そんな、自分から逃げたくなかったから。
色んなリスクはあるけれど。
怖い気持ちはあるけれど、仕事を続けるという決意をした。
まだ春の気配もしない、寒い寒い日の小さな決意。
大丈夫。大丈夫。
あの時のあなたが、きっと守ってくれる。
おまじないのように、あの時のいのちを心の支えにしていた。

そして、職場の先輩も。
「お腹のポケットに鏡を入れておくと、お守り代わりにいいらしいよ」
「はい。これ塩も」
そう言って、危なっかしい日々を支えてくれた。
他にもたくさんの人が、優しさをくれた。
色んな優しさに触れるたびに、自分の黒い想いが溶けていくようだった。
押しつぶされそうな不安で、泣いた日もあったけれど。
それでも何とか日々は過ぎ、お腹もぐんぐんと大きくなっていった。

そして、ようやく迎えたあの日。
小さないのちが、この手にずっしりとした重みとして感じられた日。
初めてその声を聞いて、その顔を見たとき。
大きな泣き声が響いたとき。
ふうっと力が抜けるような感覚がして、静かな涙が止まらなかった。
それは頬をつたって、次から次へと溢れてきた。
あたたかかった。
生まれてきてくれてありがとう。
ただ、それだけを思った。

涙って不思議だ。
色んな感情が湧き出て涙になる。
どうしようもない時に、静かに流れる涙も。
止まらないほど、声を荒げた涙も。
どんな涙も、色んな想いをのせている。
その時は、どうしようもなくても。
涙を流し、想いが薄まり、少しずつ。
懐かしく思えるようになることで、前へと歩めることもある。
そして時には、あたたかい感情が湧き出て、涙になったりもする。
きっと涙は、人生を歩んでいくための一つの力だ。

あれからいくつもの季節が流れ、いくつもの涙を流した。

「がんばれー!」

広い空の下。
感情を表に出し、そう叫べる今を幸せに思う。
会場では、子供たちのいのちが輝いている。
そして、思い出す。
あの小さないのちが、今につないでくれたことを。
たくさんの涙が後押しして、今につながっていることを。
黒い想いも、悔しい想いも。
悲しい想いも。
嬉しい想いも。
色んな感情が絡み合って、今の日々がある。
そして、これからも色んな感情と出逢っていくのだろう。
本当は苦しい感情は、避けたいけれど。
でもやっぱり。
意味のない事なんて。
意味のない感情なんて、何ひとつないと思うから。
きっと、どこかに繋がっていく。
だから、その時、その時の想いを感じて歩んでいきたい。

そんなことを想いながら、一生懸命な子供たちの姿が目に入る。
つい、また涙が出そうになる。

そう。
この入り混じった感情に名前をつけるなら、きっと。
幸せ。
そういうことなんだと思う。

 

 

❏ライタープロフィール
濱田 綾
福井県生まれ。国立工業高等専門学校 電子制御工学科卒業。在学中に看護師を志すも、ひょんなご縁から、卒業後は女性自衛官となる。イメージ通り、顔も体も泥まみれの青春時代。それでも看護師の道が諦めきれず、何とか入試をクリアして、看護学生に。国家試験も何とかパスして、銃を注射に持ち代え白衣の戦士となる。総合病院に10年勤務。主に呼吸器・消化器内科、訪問看護に従事。プライベートでは、男子3兄弟の母で日々格闘中。
今年度より池袋にほど近い、内科クリニックで勤務している。クリニック開業前から携わり、看護師業務の枠を超えて、様々な仕事に取り組む。そんな中で、ブログやホームページの文章を書く、言葉で想いを伝えるということの難しさを実感する。上司の勧めから「ライティング・ゼミ」を知り、2018年6月に平日コースを受講。「文章は人を表す」は、ゼミを受ける中で一番強く感じたこと。上っ面だけではない、想いを載せた文章を綴りたい。そんな歩み方していきたいと思い、9月より「ライターズ倶楽部」に参加中。

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2018-10-29 | Posted in 週刊READING LIFE vol.4

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