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京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜

【京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜】第一話 かっこいい上司になりたいあなたへ《もえりの心スケッチ手帳》


文:鈴木萌里(京都天狼院スタッフ)

何から話し始めるのが良いだろう。
私の今の状況を、初めましての読者の皆さんに一発で上手に説明するのは難しい。
うーん、そうだなあ……。
ひとまず、この状況……というか、私の困惑っぷりを実感していただこうかしら。

「えーっと……」

そのときの私は、かつてないほど戸惑っていた。
ついこの間まで就職活動をしていたから、面接の場面で緊張したり、急に真新しい質問が飛んできて戸惑ったりすることに慣れていた……はずなのに。

これは一体、どういうことなんだ。

“泣く子も黙る”真夏のあっつい京都の昼下がり、店番をしていた私の目の前で、30代ぐらいの一人の見知らぬ男が私に頭を下げている。
ワックスで中途半端に固められた前髪に、半袖のワイシャツ、地味なグレーのネクタイ。
手には重たいパソコンでも入っていそうな、光沢のないビジネスバッグが握られている。
見れば、白いワイシャツの襟はよれよれで、「アイロン失敗したのかな」と心配になるくらいだった。
いや、男の身なりなんて、今の私にはどうでもいい。
ただ一つだけ言えるのは、先ほど目の前で私に懇願するような視線を送りつつ男が放った一言が、私の頭を「?」でいっぱいにしているということ。
あまりの困惑で私が何も言えずにいると、男は再びゆっくりと、その言葉を口にした。

「お願いします! 店員さん。僕を、助けてくれませんか?」

***

建仁寺へと続く道、祇園のとある路地に佇む書店、その名も天狼院書店『京都天狼院』。
私がその、なんだか強そうな名前をした書店でアルバイトを始めたのは、今からちょうど4ヶ月前のことだった。

「こんにちは。鈴木もえりさん、ですね」
「はい、よろしくお願いします」

アルバイトの面接を受けるために店舗を訪れたとき、面接の担当をしてくれたのは、京都天狼院の“女将”こと店長のナツさん。
それから、小説家でプロカメラマンをしていて、さらに三県に渡って展開しているこの天狼院書店の店主を務め、様々な雑誌の記事を書き——と、本当はもっともっとたくさんの仕事を、まるで遊んでいるかのようにこなしている三浦社長。
その二名が、京都天狼院の中にある“一度座ったら抜けられない”こたつ席で、私と向き合っていた。

しかし、それにしても。
聞いてほしい。
この書店、ナニカがおかしい。
何か、「異常」な気配を感じる。

え、何が異常かって?
だって、面接で初めて会ったときに、

「バターチキンカレー食べながら話しても良い?」

と、無邪気聞いてくる社長に会ったことある?
私は今年22歳だけれど、22年間生きてきて、目の前で突然「バターチキンカレー」を食べ始める社長に会ったことはただの一度もない。いや、もしこんなことがあったら奇跡に近いが。
し、か、も!
この「バターチキンカレー」の香ばしいカレーがまた、私の食欲を刺激する。
なんでも、福岡の店舗で店長を務める川代紗生さんというスタッフが以前お付き合いをしていた彼のために開発したカレー、名付けて「元カレー(元彼が大好きだったカレー)」らしい。この時点でだいぶクレイジーな匂いがするが、川代さんと元彼さんとのバターチキンカレーストーリーは、女子たちの間で共感の嵐を吹き起こしている。

——と、話が少し逸れてしまったので、一旦面接の場面に戻ろう。

「なんでウチで働きたいの?」
「えー、きみ、京大生なの!」
「ねえねえ、京大生ってなんでそんなに勉強できるの?」

面接前に送っていた私の履歴書を見ながら、社長が次々と私に向かってあっちこっちに質問を投げかけるものだから、私は「え、えっと」と一つ一つの問いに答えられずにしどろもどろ。

でも、そんな三浦社長が履歴書の「志望動機」欄を目にした途端、私はドキッと心の中で一歩後ずさりしたい気分になった。

「へぇ、小説家になりたいんだ!」

彼は、今まで繰り出したどんな質問より大きな声を上げ、興奮した様子で私の志望動機に書かれた夢を、見つけてくれた。

「はい。天狼院書店で働けば、近づくんじゃないかと思って」

このとき、本当はもう一つだけ、言わなければならないことがあった。小説家になりたいという夢に関係する重大な問題を。
しかし、まだそのことについて触れるにはまだ早いと思った。私もスタッフの人たちも、今日初めて知り合ったばかりなのだから。

「ここで、働かせてくださいますか……?」

総じてフランクな面接ではあったが、面接をしているからには、落ちる可能性もあるわけで。
とりわけ自信家でもない私——というか、どちらかと言えば先天的に自信がない病を患っている私は、アルバイトの面接だとて合格する自信は全くなかった。
だから、面接が終了する間際、こんなふうに少しだけ探り気味に聞いた。

「はい、もちろん」

返事をしてくれたのは、社長の隣で何度か質問をくれた女将のナツさんだった。その一言にほっと安堵しつつも、ナツさんの次の言葉を聞いて、私はまた首を傾げた。

「ただ、ウチの書店での仕事は、鈴木さんが思っているような仕事とは少しだけ違っているかも。それでも大丈夫?」

私が思っている仕事と違う……?

確か、天狼院書店はカフェと本屋が一体になった書店だと聞いている。
それに加えて、ライティングや写真、デザイン等のクリエイティブを学べるイベント、それから不定期で著名人のトークイベントを開催しているとも。

それだけならもうすでに知っていることだし、何も不思議に思うところはないはずだ。
「違っているって、どんなふうにでしょうか?」
「うーん、それは働いてみてからのお楽しみで」
そう言うナツさんの笑顔を見ると、もうこれ以上何も聞けなくなった私は、なすすべもなく「分かりました」と腑に落ちないまま頭を下げていた。

***

そんなこんなで、一風変わった、いや、十風ぐらい変わったこの『京都天狼院』でアルバイトを始めることになった大学4回生の8月。
初日のシフトは、カフェのメニューやら本の整理の仕方やら覚えることがいっぱいで大変だったが、とりわけ変わったこともなく一日を終えた。
ダンボールで運ばれてきた真新しい本を出す喜びや、袋から取り出した雑誌を本棚に並べるときの、あの書店員にしか味わえない新鮮さといったら!
本が好きだという人になら、想像——いや、妄想しただけでもよだれが垂れるということをお分かりいただけるだろう。そんなお仕事を、本当に実践できる日が来るなんて。
初日にして、年甲斐もなく有頂天になっていた京都大学文学部の私だったが、まさか、この感動が間もなく打ち砕かれることになるなんて、思いもしなかった。
次の、シフトに入るまでは——。

「じゃあ、もえちゃん。私はこれから向こうで他の仕事してるから、何かあったらいつでも呼んでね」

京都天狼院でのアルバイト二日目。
オープンからシフトに入っていた私は朝にやるべきことを一通り終えたあと、女将のナツさんが一台のパソコンを手に、私にそう告げた。ちなみにここでは、スタッフ同士ニックネームで呼び合うことになっており、私は晴れて「もえちゃん」称号をいただいた。スタッフの一員になれた気分でちょっと嬉しい。いやだいぶ嬉しい。
社員さんは店舗の店番以外にも事務的な仕事からイベントに関する仕事までありとあらゆる業務を担っているので、普段はこうしてアルバイトスタッフが一人で店頭に立つことが多いそうだ。
ナツさんからそう説明を受けると、私は早く一人で仕事ができるようになりたいという気持ちに駆られていたため、「はい、頑張ります!」と威勢良く返事をした。ここが頑張りどき。一日でも早く仕事に慣れるのだ!

「いらっしゃいませ!」

そう意気込んで、一番初めにやって来たお客さん。
それが、例のサラリーマン風の彼、だった。

「こんにちは、あの……」

町家を改装して造り上げた書店の、木材でできた四角い入り口から恐る恐るといった感じで足を踏み入れ、スタッフの私が立っているカウンターまで歩いて来た彼は、どう見ても本を買いに来たり、はたまたコーヒーを飲みに来たりといった普通の目的でここを訪れたという感じではなかった。それは、彼のしゃんとしない身なりや、しょぼくれた自身のない足取りからして明らかだった。

「いらっしゃいませ。ご注文はこちらで承っておりますが」

いくらその男が一般客でないと感じたからといって、店員たるもの、きちんと接客しなければならない——そう思った私は、とりあえず目の前でなんだか挙動不審にしている彼に声をかけた。

「ああ、違うんです」

「?」

サラリーマンの男性は、注文を受けようとしていた私に向かって右手をブンと横に振って、それからこう言った。

「お願いします! 店員さん。僕を、助けてくれませんか?」

「え?」

目の前に立つお客さんとも言えぬ男性が、突然この場にそぐわない台詞を吐いて勢いよく頭を下げてくるものだから、当然のように私は困惑した。
えーっと……。
これって、どういう状況……?

「あの」

何が起こっているのか全く理解できない私は、とりあえず彼に事情を聞こうと、ひとまずすぐに用意できるアイスティーをカップに注いで手渡した。
すると今度はお金を払いもせずにアイスティーを差し出されたサラリーマン男性の方が、きょとん顔でしどろもどろ、あたりをぐるりと見回して、恐る恐る手を伸ばした。

「何だかよく分からないのですが、とりあえずあちらにお座りください」

男性はその一言で、私が「いったん落ち着いて」と言っていることを理解してくれたのだろう。

「あ、ありがとうございます」

ぺこりと頭を下げて、私が指差す方——こたつ席に向かった。
そこは紛れもなく、私がここで働くための面接を受けた場所だ。
京都天狼院には、二階にテーブル席があるだけでなく、一階にもカフェを利用するお客さん向けにこたつ席が設けられている。
もちろん夏は暑いので毛布はないが、畳にローテーブルが置いてあって木の匂いがする空間は、誰にとっても憩いの場になる(と勝手に思っている)。

「それで、どうされたんですか?」

その時間はちょうど他のお客さんがいなかったため、男性がこたつ席に行くと同時に私も冷たいお水を手に男性のいるこたつ席の対面に座った。
よく見ると、彼はワイシャツがよれていたり地味な色のネクタイをしていたりするだけでなく、額にびっしょりと汗をかいていた。

「実は、以前友人が、この書店の店員さんに悩みを聞いてもらってすっきりしたと言っていて」

「悩み……?」
アルバイト二日目の私には、男性の言っていることが瞬時に理解できない。
ただ、この書店ではよくお客さんと他愛のないお喋りをしたり、店やイベントの説明をしたりするといったことが日常茶飯事だということは知っていた。

「よく話を聞いてくれる綺麗なお姉さんと喋っているうちに、悩み相談をしてしまったんだと……」

「あー……」

その言葉を聞いて、なんとなく察しがついた。
おそらく、ナツさんがいつものようにお客さんと話をしていたところ、お客さんから悩みを相談されたのだろう。ナツさんだったら優しくてどんな話でも受け止めてくれる気がする。まだ数回しか顔を合わせていない私でもそう思うのだ。何回もこの書店を訪れているお客さんならなおさらだろう。

だからナツさんは、面接のときにこう言ったのだ。

——ただ、ウチの書店での仕事は、鈴木さんが思っているような仕事とは少しだけ違っているかも。それでも大丈夫?

……なるほど。
これが、女将の言う、「普通と違う仕事」なのか。
そう勝手に納得した私は、男性の目をじっと見つめた。

「わざわざお越しいただいたところ申し訳ありませんが、おそらく、ご友人は私ではなく店長に話を聞いてもらったのだと思います」
「ああ、そうだったんですね。すみません」
「いえ」
「その店長さんは、今日はお休みなんですか?」
「休みではないでのすが、今日は私が店番なんです」
「そうですか……」

そう言って残念そうに俯く男性を見ていると、逆に申し訳なくなった。
本当は今二階で仕事をしているナツさんを呼びに行けば済むのだけれど、これぐらいのことで女将を呼びに行くわけにもいかない——という謎のアルバイター精神が働いていた。
しかしそれ以上に、目の前で落胆している彼を放っておくのがいたたまれなくて。

「あの……、もしよければ、私がお話をお聞きしましょうか」

気づいたら、自分で彼にそう提案していた。

「ほ、本当ですか!」

私の言葉を聞いた男性が、さっきまでの落胆っぷりをよそに、ぐんとテーブルの向こうから身を乗り出した。
そんな男性の反応を見て、私は一瞬驚いたが「ええ」と快く頷いた。

「ありがとうっ!」

まだ悩みが解決されたわけでもないのに、まるで少年のように笑う男性。

「申し遅れました。僕は東堂出版社第一営業部の、岡本英介といいます」

東堂出版……大きな出版社でないが、何度か耳にしたことはある。確か、芸術系の書籍に強い小さな出版社だ。
私は東堂出版社の本をあまり読んだことはないが、出版社の営業マンならさぞ忙しい毎日を送っているのだろう——そのぐらいは想像できた。
彼は、そこで一度手元のアイスティーをごくんと一口飲んで、話し始める。

「第一営業部には、毎年数名の新入社員を迎え入れることになっているのですが……」

岡本の話を簡単にまとめると、こうだった。
第一営業部に今年も4月に二人の新入社員が配属された。
男女一人ずつ。女性の方は人の話を熱心に聞く聞き上手タイプで、男性の方はハキハキとして元気が良く営業受けしそうな朗らかな性格だそうだ。
彼らなら営業マンとして着実に成長してくれる。
二人の教育係になった岡本は最初そう確信した。
しかし、岡本の期待は、彼らが入社してものの数ヶ月で打ち砕かれることになる。

「二人は確かに、営業の仕事をきちんとこなしてくれました。慣れないながらも一生懸命、頑張ってくれていたんです。でも」

入社して二ヶ月が経ってから、新入社員の二人は突然先輩の言うことを聞かなくなったらしい。
いや、「先輩の」というより、岡本の話を聞かなくなったのだという。
その話を聞いたとき、私は単に岡本が被害妄想をしているだけで、新入社員の二人は岡本以外の先輩の言うことを全般的に聞かなくなったのでは? と疑問に思いもしたが、いま目の前で汗を垂らしながらシワの寄ったシャツを着ている彼を見ると、失礼だけど、なんとなく二人が彼の言うことを聞かないという理由が分かる気がした。

「僕にはなんで二人が急に、僕の言うことを聞いてくれなくなったのか、分からないんです。だって、僕は二人がきちんと仕事をしてくれているのを確認した上で、二人に定時で上がらせてあげようと、残った仕事を僕自身が引き受けるなんてこともしたんですよ。二人に恨みを買うようなことは一切してないつもりなんです。むしろ、頑張った分楽させてあげたいと思ってるのに……」

ああ、そうか。
彼の言葉から、新入社員の二人がなぜ岡本の言うことを聞かなくなったのか、ちょっとだけ察しがついた。
しかし、それを今この場で言葉にして伝えるのは、私には少しばかり難しい。だって私は、まだ社会に出てすらいない、一介の大学生なのだ。そりゃ就職活動を終えているため、“働く”ことに関して敏感にはなっているが、岡本のように社会人として既に仕事とはなんたるかを経験している人に適当なアドバイスはできない。

「店員さん、僕はどうしたらいいんでしょう……? 彼らが僕の言うことを聞いてくれないと、僕の評価まで下がってしまうんです。それに、僕は彼らにもっと教えたいことがたくさんあるんです!」

岡本は懇願するような目で私を見つめた。その目は真剣だ。私がここで適当に陳腐な言葉を投げかけたって、到底納得してくれないだろう。

私は考えた。
どうやったら、私の言いたいことが彼に伝わるのか。
できれば簡単に、そして確実に伝えられるといいのだが——……。
数分間頭をフル回転させて考え込んだ私は、「そうだ」とあることを思いついて、こたつ席からすうっと立ち上がる。正座をしていたのでちょっとだけ足が痺れて痛い。
しかしその痛み以上に、私は彼をなんとかして助けたいという衝動に駆られていた。

「確かここにあったはず」

「あった!」と、レジ横の棚に置いてあった一冊のソフトカバー本を手にとって再びこたつへと舞い戻る。

「これ、読んでみてください」

私は岡本の前に、一冊の本を差し出した。
タイトルは『ひとつむぎの手』。
医師として勤めながら小説を書いている知念実希人さんの最新作だった。

「これは、小説……?」

差し出された鮮やかな黄色いカバーの本を不思議そうにまじまじと見つめる岡本は、私の予想通り、頭の上に「?」を浮かべている。
それもそうだ。
サラリーマンに本を勧めるなら、ふつうの人はビジネス本とか自己啓発本とかを勧めるだろうから。
しかし、そこは勘弁してほしい。
だって私は、普段ほとんど小説しか読んでいないから、他のカテゴリーの本は分からないのだ。
だけどそれだけじゃない。
本当は、私が彼に小説を勧める理由はもう一つあった。

「はい、小説です。きっと今の岡本さんにぴったりだと思います」

「はあ……そうなんですね。分かりました。書店員さんが勧めるならきっと良い話なんでしょうね。一度読んでみます」

いまいち腑に落ちない様子ではあったが、とりあえず『ひとつむぎの手』を読んでくれるらしいので、私はほっとする。

「ぜひ。読み終わったらまた感想聞かせてくださいね」

話が終わると同時にアイスティーを飲み終えた岡本は、「そろそろ仕事に戻らないと」と腕時計を見て急ぎ出した。
私は岡本を出口まで見送るときに、「あっ」と思い出して、彼のシャツの襟を綺麗に直してあげた。

「ありがとう。この本読み終えたらまた来るよ」
「はい」
「そういえば、店員さんのお名前は?」
岡本に名前を聞かれ、私は咄嗟に下の名前を名乗った。
「もえり、さん。今日はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
よほど時間が迫っていたのか、岡本はそれだけ言うとすぐに身を翻して道路の向こうに消えていった。
私はふう、と息をついて店の仕事に戻ろうとした。

「もえちゃんお疲れさま」

振り返った先にいつの間にかナツさんが立っていて、私は驚く。

「知ってたんですか」

「うん。声が聞こえてきたから。階段からそっと見守ってた」

そうだったのか。見られていたと思うとなんだか恥ずかしい。

「あのお客さん大丈夫かなあ」

「きっと大丈夫よ。とりあえず帰ってくるの、待ってましょう」

ナツさんの言う通り、二週間後岡本さんが再び京都天狼院にやって来たのを見た私は、一目で彼が変わったことが分かった。
まず、前回来たときと服装が違った。
シャツはきちんと襟が立ってアイロンもかかっていたし、ワインレッドのネクタイは自信に満ちた彼の心を表しているみたいだった。

「こんにちは」

私が「いらっしゃいませ」と発する前に、彼の方から私に気持ちの良い挨拶が飛んできた。

「岡本さん、こんにちは」

私が岡本に挨拶を返すなり、彼はすたすたとカウンターまでやって来て、私に笑顔を向けてくれた。

「もえりさん、この本すごいです! 本を読んでから、僕の方に落ち度がたくさんあったんだって気づいたんです。それから部下たちへの接し方を見直してみて。この本の主人公みたいに。そうしたら、まるで人が変わったみたいに、素直に僕の言うことを聞いてくれるようになったんです!」

——俺、自分は定時で帰って、岡本さんが遅くまで残業しているのが嫌だったんです。自分の仕事は自分でちゃんと最後までやりたいじゃないですか。

——私も、なんかちょっと甘やかされてるみたいで……。手伝えることがあったら何でもやるので、本気でぶつかってきてください。私たちも本気で応えますから。

岡本の話によると、どうやら岡本の部下たちは、彼が「頑張った分だけ賞賛したい」というスタンスにこだわりすぎて、自分たちに大変な仕事を任せてもらえていないと不満だったそうだ。
出版社という大変な仕事に就いた営業の新入社員なのだ。きっとやる気や責任感も人一倍強かったのだろう。その気持ちを踏みにじられたような感覚になったのかもしれない。おそらく岡本の優しさが、部下に正しい形で伝わっていなかったのだろう。

前回と今日と合わせて二度会っただけの私でも、彼がとても興奮しているということが分かった。それから、言いようもないほどの喜びに満ちているということも。

「それは良かったです。その本、感動しますでしょう?」

「はい、とても! 恥ずかしながら今まで小説なんて、数えるほどしか読んだことがなかったんです。それが、こんなに面白くて心を動かされるものだなんて。こんな素敵な本を教えてくれて、ありがとうございます」

目の前で頭を下げている岡本を見て、私は少しだけおかしくなる。たって、二週間前も彼は私に向かって頭を下げていたのに、その意味はまるで違っているから。
前回は不安、今回は喜び。
思えば、彼におすすめした小説『ひとつむぎの手』に登場する主人公、平良祐介も、物語の始まりと終わりではこんなふうに変わっていた。
心臓外科医のプロフェッショナルを目指す彼と、三人の研修医の物語。
初めは研修医たちとうまく関係が築けなかった彼が、どのようにして最後に強い絆で結ばれるようになったか。
彼らが信頼関係を構築してく様が、「部下に言うことを聞いてほしい」と悩んでいた岡本の心に響いて、何かしらのヒントを与えてくれるのではないかと思ったのだ。
結果は私の思惑通りで、岡本は小説の主人公のように、部下の二人と上手く信頼関係を築くことに成功したらしい。

「小説は、確かにビジネス本や自己啓発本とは違います。端的に『こういう時はこうすればいい』って答えが書いてあるものじゃなくて、一つのストーリーだから。でも、きっと一度読んで感動した物語は、他の種類の本にはないくらい、自分の考え方とか行動まで変えてしまう力があると思うんです。だからこれからも、たまには小説も読んでみてくださいね」

そう、私がサラリーマンの彼にあえて小説を勧めたもう一つの理由。
それは、小説が持つ力を実感してほしかったから。
小説がどれほど人の心にメッセージを訴えうるものなのか、伝えたかったから。

「そうですね。今回のことで考えが変わりました。本当にありがとうございますっ」

岡本は威勢の良い声で私にそう言ってくれた。
そんな彼の様子を見て思った。
きっともう、彼は大丈夫。
この先もかっこいい上司として、二人の部下を立派に育てあげるだろう。
また彼がお客さんとしてやって来てくれる日が楽しみだ。

かっこいい上司になりたいあなたへ。
知念実希人著『ひとつむぎの手』はいかがでしょう?

【第一話 終】

*このお話はフィクションです。

この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

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