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京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜

【京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜】第三話 夢を追いたくて就職に悩むあなたへ 後編≪もえりの心スケッチ手帳≫


文:鈴木萌里(京都天狼院スタッフ)
 
「あの」
 
お店に来たおばあさんとお孫さんの微笑ましい光景を見て、自分の祖母との思い出に耽っていた私は、レジカウンターの前にお客さんが立っていることに気がつかなかった。
「い、いらっしゃいませ」
はっと我に返り、お客さんの対応をしようと構える。
「注文って、ここで大丈夫ですか?」
「はい、こちらで承っております」
黒髪の男性客がカウンターの上のメニュー表をじっと見つめている。背中には黒のリュックサック。顔つきからして、たぶん私や以前来てくれた仲野香穂と同じぐらいの歳の学生だろう。
自分が3回生以上になってから分かったのだが、大学生も1、2回生と3、4回生では随分と違う。それは、身なりだったり自分の心意気だったり。自分以外の学生を見た場合でも、実際に話をしなくても大体は区別がつくものだ。
友人との会話も、大学の授業やサークルの話から、就職とか結婚とか、ちょっとだけ背伸びをした大人の話題に変わる。私自身がそうだからよく分かる。そういったちょっぴり大人ぶった話をするとき、「どうやって一限をサボるか」「効率的にテスト勉強をするか」「サークルのイベントを盛り上げるか」を考えていた数年前の自分が、ひどく子供じみて感じた。もちろんそれは大学4回生の自分の見方であり、きっとまた5年後は、「あの頃は子供だったんだ」と笑っているに違いないのに。
 
 
お客さんとしてやって来た推定21~23歳の男の子は、しばらくメニュー表を眺めた後、「じゃあ、アイスコーヒーと抹茶アイスで」と注文をした。
「かしこまりました。当店ではコーヒーの種類が二種類ございまして……」
コーヒーの注文が入ると、私たちスタッフは必ずコーヒーの種類を聞く。「天狼院オリジナルブレンド」か「イタリアンロースト」というものだ。
 
おすすめはもちろん、オリジナルブレンド!
 
なぜかって、京都市左京区の元田中という地域にある珈琲焙煎所「旅の音」のオーナーさんが、京都天狼院のためだけにつくってくださったコーヒーなのだ。
ほんのり香るベリーの風味がコーヒーの苦味と溶け合って絶妙に美味しい。
だからいつも、どちらの種類にするかを選べない方には、オリジナルの方をおすすめしている。
 
 
私が一通り説明し終えると、男性客は「オリジナルの方にします」と言ってくれた。
ちょっとオリジナルの説明の方に肩入れしすぎたか。まあいっか。
お会計を済ませた後は、コーヒー、アイスの準備に追われる。
「一階を使っても良いですか?」
「はい、構いません」
一人でシフトに入っている時にはまだお客さんへの席の案内に慣れていない私は、わたわたとトレイや飲み物を準備しながら彼の問いに答えるしかなかった。
 
 
無事にアイスコーヒーを入れ終わり、ソフトクリームを巻く作業に移る。これがまた、初心者には難しい。経験者の方なら分かってくれるだろうが、初めて挑戦した時には、まあ不恰好なソフトクリームが出来上がったことか。下の一巻きより、上の一巻きの方が円周が大きかったり、「くるんっ」とした可愛らしい先っぽが作れなかったり。いや、ソフトクリームに可愛らしさを求めてはダメなのか。でもでも、そっちの方がインスタ映えしそうだし。「今どき! インスタモテアイス☆」的なコンセプトで。断っておくが「インスタモテ」なんて言葉は聞いたことがない。たった今私がつくった。
「いやいや……」
作業している最中に妄想が繰り広げられるのが私のイタい癖だ。
そんなこんなでとりあえず綺麗な形にはなった(と思われる)バニラソフトクリームに、和三盆抹茶の粉をふりかける。とたん、ふんわりと香る抹茶の匂いに癒される。さすが、京都の代名詞だ。観光客の中で、抹茶を食べさえすれば、京都を満喫した気分になれる人はきっと8割にも上るだろうな。
最後にワッフルチップを添えて、コーヒーとともに、一階のこたつ席で待っている男性客にご提供。
「……お待たせしました。ブレンドのアイスコーヒーと、和三盆抹茶ソフトクリームになります」
彼は、何かの本を読んでいた。「何か」と表現したのは、その本がブックカバーに包まれていたため判別できなかったからだ。いや、たとえ判別できたとしても、お客さんの私物をじろじろ見るのは良くないし。
「ありがとうございます」
男の子はコーヒーと和三盆ソフトクリーム、それから私の顔を交互に見て何か物言いたげな顔をしている。なんだろう、私の髪にホコリでも付いているのだろうか。それとも、私の顔がそんなに珍妙なのだろうか。なんだそれ、どっちもイヤだ。
「えっと……」
さっと引き返せばいいものの、彼の視線が気になって、しゃがんだまま立ち上がれない私と、いつ言葉を発しようかと機会を伺っている男の子との、沈黙戦線。
比較的きれいに可愛く仕上がったソフトクリームの先っぽが溶け出している。
先制攻撃を打ったのは、彼の方だった。
「あなたが……、もえりさんですか?」
本当は、「は?」と言いたかった。
だって、見知らぬ男性から突然名前を呼ばれる経験なんて、今までしたことがなかったし、これからもする予定がなかったんだもの。
「……どうして?」
さすがに、お客さんに向かって「は?」はマズイ。明日からクビになるかもしれないという野生的防衛本能が働いて、精一杯絞り出した台詞がそれだった。しかしタメ口をきいてしまったため、完全にグレーだ。
「あ、突然すみませんっ」
私が驚く顔を見た男性客も、おかしな質問をしてしまったことを後悔したらしく、ペコペコ頭を下げ始める。これじゃ、どっちが店員なのか分からない。
「……」
私と男性客との間に、再び沈黙が流れ出す。私も社交的な方ではないので、良いフォローが浮かばず、どうしたものかと困っていた。
しかし、救世主はこういう時にこそ現れるのだ。
 
「お疲れ様です〜!」
 
ガラガラと木製の扉が開き、一人の女性が店内に入って来た。
 
「お、お疲れ様です、ユキさん」
 
まさに、救世主。
店に入って来たのは、社員スタッフのユキさんだった。女将のナツさんとともに、京都天狼院書店の運営を支えてくれる要のような存在。私たちアルバイトスタッフにも丁寧に仕事を教えてくれる。そして、私とは違ってダントツに明るい。とりわけ弾むのが「カフェ巡りトーク」。なんでも彼女は、大のカフェ好きらしく、京都中、いや日本中のカフェ情報を調べまくっている。私が、「今度○○っていうカフェに行こうと思ってて」と話のボールを投げれば、「ああ! そこはね、期間限定のマフィンがね……」とすかさず打ち返してくれる。いい? どんなカフェでもよ。
私が京都中のカフェの名前を挙げたとて、たぶん全てのお店のおすすめメニューを語ってくれるに違いないんだから。
……と、話は脱線してしまったが、とにかくその救世主ユキさんがタイミング良く現れてくれたおかげで、私は男性客に「またあとで事情はお聞きします」と告げて立ち上がることができたのだった。
ユキさんが来てくれたあとは、いつも通りに接客をしていた。
ライティングゼミや秘めフォト(詳しくは天狼院書店HPで笑)といったイベントコーナーの前で立ち止まった方には、「こんにちは、初めてのご来店ですか?」とお声かけするのも、そろそろ緊張しなくなってきた。
「お疲れ様です!」
4時間のシフトの時間は長いとも短いとも言えないが、常に接客や本の発注、出し入れなどの業務をしていればあっという間に過ぎてゆく。
無事にシフトを終え、ユキさんに挨拶をし、帰り支度をしたあと、危うくそのまま帰りそうになった。いけない。こたつ席の男性客はまだ座椅子に座っているというのに。2時間ぐらい前に来た彼がまだ店にいる理由は、私を待っていたからかもしれないのだ。
 
「あの、もしかして私に何か用がありましたか?」
 
私が先ほどの男性客に声をかけたとき、彼はパソコンのキーボードを打ち鳴らしていた。時折手が止まり、それと同時にカタカタという音も途切れがちになる。画面を見て悶々と悩んでいる様子を見ると、学校のレポートでも書いているのかと思った。
 
「ああ、さっきはすみません。もう大丈夫なんですか?」
 
極めてフランクな口調で、彼はそう問うた。
 
「はい。もうシフトの時間は終わりましたので」
 
「そうですか。なら、少しだけ僕の話を聞いてもらえないでしょうか?」
 
彼の目はまっすぐに私を見据えていた。
なんとしても私と話がしたい、お願いだから聞いてくれ。という必死さが伝わってくる。
 
「分かりました。その前に、どうして私の名前を知っていたか、教えてくれませんか?」
 
そう。
この男性客は、初めて会う私のことを知っていたのだ。
名前だけ知っているのか、私という人物を知っていたのか。後者だったら驚くけれど。
「そうでした。実はあなたを知っていたのは、僕の知り合いからあなたのことを聞いたからなんです」
返って来た答えは、予想外のものだった。
まだ京都天狼院でアルバイトを始めたばかりの私は、あまり友人にここで働いていることを話していなかったから。
だから、彼の言う「知り合い」が誰なのか、心当たりがなかった。
「失礼ですが、そのお知り合いの方とはどなたでしょう」
店員であるシフトの時間は終わったものの、店員口調で訊いてしまう。
「仲野香穂さんです」
男性の口から出て来た名前に、これまたびっくりしてしまう私。
香穂といえば、本当数週間前に京都天狼院を訪れたお客さんで、歳が近いこともあり今では私の友人だ。今だってスマホを開けば彼女からのメッセージが来ているに違いない。
「え、香穂ちゃん? それはまた……」
男性客と思わぬところで繋がりがあると分かると、急に親近感が湧いて男性のことをまじまじと見つめてしまう。
「はい。僕は仲野さんと同じ大学の同じ学部なんです。受ける授業も同じものが多くて、テスト前やレポート提出前にはよく二人で勉強してました」
「ああ、そうだったんですね」
香穂と同じ学部ならば、彼も大学3回生なんだろう。授業も一緒に受けるぐらいならば、香穂とは結構仲が良いのだろうか。私はLINEで香穂と本の話ばかりしているので、お互いの交友関係までは知らなかった。
 
「それで、彼女から妙なことを聞いて、気になって京都天狼院書店に来てみたというわけです」
「妙なこと?」
この書店で”妙なこと“なんて数え切れないほどあるので、私は彼が何のことを言っているのか分からない。
「はい。もえりさんという店員さんが、“人生相談に乗ってくれる”という話です」
「え?」
男性の口から出て来た「人生相談」という言葉に、私の顔面はもう、絵に描いたように驚きであほづらになっていたことだろう。頭の中でひょっとこのお面が浮かんで消えた。
「仲野さんがそう言ってました」
「はあ……」
確かにここ最近は、サラリーマンの岡本といい、女子大生の香穂といい、この場所で他人の悩みを聞くことが多くなった。でもそれは、二人がたまたま日常生活に悩みを抱えていて、たまたまタイミング良くこの書店を訪れたからだ。それを“人生相談”だなんて。香穂のやつめ。大袈裟にもほどがある!
 
「あのですね、それは誤解です」
 
男性の勘違いを訂正するために、私はゆっくりと、彼の目を見て言った。
 
「確かに私はここで香穂ちゃんの悩みを聞いたけれど……。それは、本当に偶然のことなんです。偶然、彼女がすっごい意気消沈してこの店を訪れたから、見ていられなくなっただけで。だから、そのときだけなの。なんとなく、香穂ちゃんの話を聞いただけで、別に誰でも彼でも話を聞くというわけでは……」
 
私は彼に、半分本当で半分嘘の話をした。
悩みを聞いたのは香穂だけじゃなくて岡本のときもそうだったこと。
なんとなく話を聞いたのではなく、本気で彼女の力になりたいと思ったこと。
それらの真実は口にしなかった。
「そうなんですか? でも、仲野さんはおすすめの小説を紹介されて元気が出たって」
「それは……」
その通りだ。
自分でも本気でおすすめした小説で香穂がここまで立ち直ってくれるとは思っていなかったが、実際彼女は唯川恵先生の『さよならをするために』を読んで気持ちがすっきりしたと言ってくれた。
岡本のときもそうだ。自分の言うことを聞いてくれないという後輩の育て方について悩んでいた彼に、ビジネスとは全く無関係な小説を渡し、結果的に彼に働き方のヒントを与えることができたのだ。
しかし。
しかし、だ。
「もしかしてあなたも……何か悩みでもあるんですか?」
私の問いかけに、彼は即座に「はい」と頷いた。
「だから、もえりさんに話を聞いて欲しくて来たんです」
男性ははっきりと私に会いに来たと言った。
それだけ聞くと嬉しいのだが、私だって何でもかんでもその人にとってベストな答えをあげられるわけではない。私は便利屋でも、青色の猫型ロボットでもないのだ。
困った。彼を満足させられる自信がない私は、ちょっと俯いていた。
「もえりさん」
「はい」と、返事をすることができない。
できれば彼に、このまま諦めて欲しい。
これまでの二人には上手く悩みに効きそうな小説を見つけられたけれど、これ以上続けられる自信がないのだ。
けれども彼は、俯いたままの私に構わずこう続けた。
 
「僕は、就職に迷ってるんです」
 
ピクリ、と私の耳が反応して、無意識に肩が揺れる。
 
「就職、したくないんです」
 
ドク、ドク、と自分の心臓が荒い音を立てるのを聞いた。
 
「歌手になりたくて、これまでバンドしたり路上ライブしたりしてきたんですけど、上手くいかなくて……。気がついたらもう大学3年で」
 
夢を追いたいのに、このまま夢を追ってばかりではいられない年齢になってしまって。
自分の夢をまっすぐに追うのが理想だけど、自分の近々の生活とか、ちょっとの見栄を考えると夢なんて言ってる場合じゃないなって。
就活しなきゃいけないなって危機感を感じて。
現実に目を向けると、それだけ夢から目をそらすことになる毎日に悩んでるんです。
彼の言葉が、ゆっくりゆっくり、私の耳から脳に、心の深淵にじんわり広がってゆく。
気がつけば私は顔を上げて彼の目をまっすぐに見ていた。
それから彼の手元のパソコンと、その脇に置かれた本に目をやった。紙のブックカバーの下で「自己分析」という文字が、かすかに透けて見えた。
 
「面接の練習したりエントリーシートを書いたりしてみるものの、どれもしっくりこなくて……。僕はもう、どうすればいいか全く分からなくてー……」
 
彼のパソコンの画面をこっそり覗く。マスコミ系の会社のエントリーシートだろうか。「志望動機」「学生時代にがんばったこと」「弊社で成し遂げたいこと」といった質問がいくつかならんでいる。しかし、氏名欄の「増田大輝」以外に、埋まっている箇所はなかった。
 
「もえりさん、僕になにかヒントをくれませんか? 仲野さんから聞きました。もえりさんなら話を聞いてくれるだろうって。それから、悩みに効く小説を教えてくれるって」
 
「それは……」
 
確かに私は香穂の話を聞いたし、おすすめの小説を紹介した。そしてまた、香穂の友人だと言う男性客——増田大輝の話も聞いてしまった。最初は聞く気なんてなかったのに。
でも、彼の「就職したくない」「夢を追っていたい」という悩みに、身に覚えがあったから。
私は思わず、最後まで話に耳を傾けてしまったのだ。
「……ごめんなさい。ぱっとは思いつかなくて……」
就職したくない、夢を追いたい、どうしたらいいか分からない。
彼の気持ちは痛いほどよく分かる。けれど、私の頭の中の本棚をどんなに探しても、彼の悩みに効きそうな本が思い浮かばないのだ。
「そうですか……」
明らかに落胆した様子で、増田大輝はため息をついた。
「はい、せっかく来てくださったのに、ほんっとうに、ごめんなさいっ」
「いえ、無理を言っているのは承知ですから。分かりました。また遊びに来ますね」
彼はそう言うとパソコンや就活本をカバンの中にしまってすうっと立ち上がった。
きっと彼はもう、この店にはやって来ないだろう。
私はなんとなく、そう予感した。
 
家に帰ると夕方で、私は本を読んだり学校の課題をこなしたりして時間を潰した。
しかし、何をしていても、今日のバイトでの出来事が頭から離れなかった。
アルバイトでも学校生活でもそうだが、毎日の生活の中で全てが上手くいくことなんてない。たくさんのお客さんに来てもらって本が売れるときもあれば、全然売れないときもある。学校だって、テストで良い点数が取れることもあれば、普段は出席を取らない授業にたまたま遅刻した日が出席を取られる日だった、なんてことはよくある。
だから今日、私を目当てにやって来てくれたお客さんに本をおすすめできなかったことも、日常に潜む数多の失敗の中の一つにすぎない。
分かっている。自分は何か悪いことをしたわけではない。もともと本を紹介することが仕事ではないのだからと、分かっているのに。
 
それなのに、離れない。
 
課題をやっている間、お風呂でシャワーを浴びている時間、帰り際に彼が見て分かるぐらいがっくりと肩を落として凹んでいた様子が、何度も脳裏にフラッシュバックした。
「なんか、なかったっけ……」
良い本が。彼の悩みにそっと寄り添ってくれる本。
お風呂から上がった途端に、私は下宿の部屋に置いてある本棚をあさりまくっていた。
髪を乾かすことも忘れて、夢中になって探した。
濡れた髪の毛の先から滴り落ちる雫が冷たい。
それでも、「あれでもない、これでもない……」と考えながら本棚の奥の方まで手を伸ばした。
私の本棚には、「就職」「将来」「仕事」「アーティスト」なんてワードが入ったタイトルの本はない。小説しかない。就活をネタにした小説もあるが、それではダメだ。彼は就活なんてしたくないと思っているのだから。
 
「あっ」
 
そうしてしばらく小説のタイトルを見回して考えていたとき、ふと一冊の本が目に飛び込んできた。確か私が中学生の頃に読んで、ずっと忘れていた本。読んだ時の記憶はあまりないけれど、その本を読んだあとに胸の中に広がってゆくすっきりとした読後感だけは覚えている。
「よし」と、本を取り出して私は再びその本のページをざっとめくって内容を思い出す。
うん、これならいけるかもしれない。
この小説なら、彼に何かしらのヒントを与えてくれる。
確信した私は、スマホで香穂に連絡を取った。聞いてほしい。少しだけ、協力してほしいことがあるの。
香穂は快くOKと言ってくれた。私は仲良くなったばかりの友人に感謝し、目当ての本を鞄に入れて、家を飛び出した。
 
「こんばんはっ」
22時34分、私は京都天狼院書店の近くにある小さな公園に足を踏み入れた。
木製の椅子と滑り台だけが設置された小さな公園だ。夜の公園は少しばかり不気味だけれど、駅の近くだから怖くはなかった。
「こんばんは……」
私が公園に着いた時、増田大輝はすでに椅子に座って待っていた。
「遅くなって、ごめんなさい」
「いえ、今来たところなので」
香穂に、「増田くんに連絡してほしい」とメッセージを入れたのは、今からちょうど一時間前だ。それから連絡先をつないでもらい、私は彼とこの公園で待ち合わせの約束をした。渡したいものがあるからと言って。
 
「これ、あなたに読んでほしくて……」
 
急いで準備したため、髪の毛はバサバサでまだ少し濡れている。メイクも下地だけ塗って来ただけだ。けれど、中途半端な自分の身なりへの羞恥心より彼に本を渡して拒絶されないかどうかが何より心配だった。
 
「これを、わざわざ渡しに……?」
 
私が差し出した本をおずおずと受け取った彼は、本をの表紙を見て、それから裏返してさっとあらすじに目をやっていた。
 
「あの、昼間は期待に応えられなくてごめんなさい。家に帰ってから探したんです。その本は私の、道しるべみたいな大切な本なんです。だから増田さんにも読んでほしいと思って……」
 
「『永遠の出口』……」
 
彼はその本の題名を、大切な人の名前を呼ぶみたいに呟いた。
 
「森絵都さん。大好きなんです。その本も、他の作品も。将来とか仕事とか学校で悩んだら、その本を思い出していました」
 
伝われ。伝わって、お願い。
 
祈りながら彼の反応を見守った。
 
「ありがとうございます」
 
増田大輝がそう口にした時、私は『永遠の出口』を今ここで彼に渡せてよかったと心から思えた。
 
「読んでくれますか?」
 
「はい、もちろん。わざわざ持って来てくれたものを無下にするなんてできませんよ」
彼はそう言って、『永遠の出口』を大事そうに鞄にしまった。
 
「これ、早速帰りの電車で読んでみます」
 
「ありがとう!」
 
本を渡してから、私は不思議な気持ちに包まれていた。
今まで人に本を紹介して、「ありがとう」と言ってくれるのはいつも相手の方だった。でも、今回は違って、逆に本を渡した自分の方が「ありがとう」と言っている。本当に自分がおすすめしたい本を手に取ってくれてありがとう。心から嬉しいと思う。書店員だからこそ、この喜びを味わうことができたんだと今実感した。
 
 
***
 
 
増田大輝が再び店を訪れたのは、『永遠の出口』を渡してから一ヶ月過ぎた頃だった。
「こんにちは」
私もアルバイトの仕事に慣れ、自ら天狼院が主催するイベントに複数参加して、三浦社長が天狼院書店で提供したい読書の先にある体験を、肌で実感しつつあるところだ。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」
今日彼が来ることは、事前に連絡が来ていたため知っていた。
「はい、その節はありがとうございました」
レジカウンターの前で、彼は鞄の中を探り、『永遠の出口』を私に差し出す。
「この小説、最初は何の話かと思ったんです」
彼の言うことは至極もっともだと思う。
だって、森絵都先生の『永遠の出口』は、主人公の小学生の女の子が高校生になるまでの日常を描いた物語なのだ。これを聞いただけでは、就職にも将来の夢にも何ら直結していないし、物語自体に「え、面白いの?」と疑問を抱くだろう。
しかし、一度『永遠の出口』を読んだ私は、この本の面白さを知ってしまった。
どうして、と思う。
一体どうして、この本はこんなにも面白く、瑞々しいお話になっているんだろう!
彼も同じことを思ったらしく、「こんな小説は読んだことがありません」とびっくりした様子だった。
それもそのはず。
『永遠の出口』は、単なる日常生活を描いた本なのに、文章の一つ一つが生きていて、恐ろしいほど主人公が体験する日々をリアルに想像してしまう。
そんな物語だから。
 
「最後まで、ずっとなんでもえりさんがこの本を僕に紹介してくれたのか、分からなかったんです。でも、本当に最後まで読みきったあと、あなたが伝えたかったことが見えてきました」
 
『永遠の出口』の主人公は、高校生になってから、地球はいつか太陽に飲み込まれて滅びてしまうことを知って衝撃を受ける。
地球にも終わりがあること。自分が今毎日うだうだと将来や恋愛に悩んだって、そんなものも全て、すっぽりと太陽の熱に奪われ、破壊され、跡形もなく消え去ってしまうこと。どんな物事にも、“永遠”はないということ。
そのことを思うと、悩みの一つや二つが、軽く感じられる。
そして、物語の終わりには、こんな趣旨のことが書かれている。
自分兄弟も、母親も父親も、元恋人も友人も、将来どうなっているかなんて、今は想像できない。想像できない何かになっている可能性は大いにあって、毎日のちっぽけな悩みに立ち止まっている暇はないんだと。
 
「人生って、何が起こるか分からないんですよね。だったら僕も、今やりたいと思っていることをしたいって思いました」
 
就職に対する完全な答えを見つけたわけではない。
しかし、彼の表情はやはり、前回の二人と同じようにすっきりとしていた。
 
「そうですね。就職したくない気持ちと、夢を追いたい気持ちと、どっちをやってもいいんだと思います」
 
これじゃあ、本当の答えにはなっていないと分かっている。
それでも私は伝えたかった。
私も、夢と現実の間でいまだに迷子になっている一員として。
現実を考えて就職する道を選んでもいいし、夢を追いながら現実を選んでもいい。
夢にだけ一生懸命になってもいい。
でも、これだけは覚えていてほしい。
現実を追うことは夢から目をそらすことじゃないんだって。
 
「僕は歌手になりたい。その夢は絶対に捨てません。その上で、就職と向き合おうと思います」
捨てない。
夢は、絶対に捨てない。
彼が噛みしめるようにそう言ったとき、私は嬉しかった。
 
でも、嬉しさと同時に脳裏によぎったものは、私の書いた物語を読んで嬉しそうに笑う祖母の顔だった。
 
夢を追いたくて就職に悩むあなたへ。
森絵都著『永遠の出口』はいかがでしょう?
 
≪第三話 後編 終≫

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