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仕事が消えて「仕事」を見つけた。そして私は生き返った《週刊READING LIFE Vol.62 もしも「仕事」が消えたなら》


記事:井村ゆうこ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

「働くことだけが、人生じゃないだろ? なんでそんなに無理してまで、仕事することにこだわるんだよ?」
 
深夜帰宅した夫が、散らかったリビングで、洗濯物を畳んでいる私を見て言った。私は返事をする代わりに、汚れた食器が山積みになったキッチンのシンクに目をやる。頭の中では、布団に潜り込むまで、あとどのくらい時間が必要か、計算がはじまる。ざっと家事に30分、明日の保育園準備に10分、メールの返信や郵便物のチェックに15分……。
 
「いいかげん、仕事辞めろよ。このままだと倒れるぞ」
 
夫の声が、洗濯物をこれ以上なく雑に畳んでいる私の手を、一瞬止める。ここで反論したら、寝るまでにまた余計に時間がかかってしまう。1分でも早く眠りにつきたい私は、喉元まで駆け上がってきた悲鳴を無理矢理、胃だか肺だか腸に押し戻す。しかし、体の奥にしまい込んだはずの悲鳴は、気がつけば頭の中で暴れまわっていた。
 
「仕事がない毎日が、どんなものか知りもしないで、勝手なこと言わないでよ!」

 

 

 

30歳で、いわゆる転勤族の夫と結婚してからというもの、2年から4年の周期でやってくる引越しの度に、私は仕事探しを繰りかえしてきた。
転勤辞令の出た夫に帯同して引っ越しを余儀なくされる、私のような転勤族の妻たちは、引越しの度に自分の仕事を辞めざるを得ないことが多い。配偶者の転勤に合わせて、社員が異動できる制度を設けている企業も増えてきてはいるが、残念ながら、私たちが結婚した当時は、私が退職するか、別居婚でスタートするかの選択肢しかなかった。私は退職することを選んだ。
 
私の仕事探しは、現在6歳になる娘が生まれるまでは、順調だったと言えるだろう。
引越し後一ケ月以内には、毎回求職活動は終了していた。常に仕事は消えることなく、私の人生に存在していた。状況が一変したのは、娘を出産してからだ。
 
まず、「子どもが3歳になるまでは、母親たるもの家にいるべし」という、古い固定概念が私の目の前に立ちはだかった。産後半年余りで職探しを始めようとした私に、姑が待ったをかけてきたのだ。ただ、姑は同居しているわけでもなければ、近くに住んでいるわけでもない。新幹線で2時間以上かかる場所から飛んでくるクレームを、私は適当に受け流し、やり過ごそうとした。しかし程なくして、本当の敵はいちばん身近にいることに、私は気がついた。夫である。
 
「仕事するなんてまだ早いだろ。子どもが3歳になるまでは、家にいろよ」
 
夫がそう口にしたとき、平成も25年目を迎えていた。にもかかわらず、なんなのだろうか、この昭和的発言は。驚きというより、おそれに近い感情を抱いたことを、私はたぶん一生忘れないだろう。
結婚するとき、「転勤にはついていくけど、仕事はずっと続けたい」と言った私に、「専業主婦になってくれなんて思ってないよ。お前が仕事好きなこと、知っているし」と笑顔で返した人間と、本当に同一人物の発言なのだろうかと疑った。
 
夫の理解と協力なくして、乳飲み子を抱える私の仕事探しを進めることはむずかしかった。私の「働きたい」という訴えをのらりくらりとかわし、真剣に取り合おうとしない夫を前に、私のこころの中には、いつしかあきらめが広がっていった。
 
気がつけば、私の目の前から完全に、仕事が消えていた。
 
それから数カ月経ったある晩、娘を寝かしつけた後、ボリュームを絞ったラジオの音を聴きながら、キッチンで離乳食を作っていたときのことだ。リスナーからのお悩み相談コーナーが始まると、さまざまな悩みが次々と披露されていった。
恋の悩み、家族や子育ての悩み、職場での人間関係の悩み、仕事を辞めたくて仕方ないという悩み……。耳に届く、世の中の「悩み」を前に、私はなぜだか涙が止まらなくなった。
 
転勤族として移り住んだ、知らない土地での初めての子育ては、試行錯誤の連続で、毎日が信じられないくらいあっという間に過ぎていった。娘とふたり、家に閉じこもっていては、イライラしてしまうのは目に見えていたので、積極的に外に出ていき、頼れる人も増えていった。少しずつ着実に大きくなっていく我が子を肌で感じることができるしあわせを、噛みしめていた。
 
それでも。それなのに。
私は、社会から、世界から、取り残されてしまっているという感覚を、捨て去ることができずにいた。
普段は忘れたふりをして遠くへ追いやっていたその感覚が、ラジオから流れる、「悩み」の洪水によって、一気に押し戻されてきたのだ。社会とつながり、社会の中で生きていればこそ生まれる「悩み」を持ちえない自分自身の存在意義を疑う気持ちを、抑えることができなかった。
 
半年後、強引に夫の了承をとりつけた私は、フルタイムの仕事を手に入れた。

 

 

 

2歳になったばかりの娘を預けながら、フルタイム勤務の仕事に就くのは、想像以上に過酷だった。
まず第一に、希望する保育園に空きがなく、すぐに預け先を確保することができなかったのが想定外だった。当時住んでいたのは東北の地方都市だ。待機児童問題は都会の話だとばかり思い、保育園の確保より就職面接を優先させてしまったのがいけなかった。一時預かりや無認可保育園などを利用して、なんとか娘を預けながら働き始めたが、現実は厳しかった。
 
荒れていく家の中と、手抜きになる料理。寝不足とイライラで、どんどん余裕がなくなっていく私。
 
夫は、予想通りとばかりに、ため息をつきながら、冒頭のセリフを繰りかえす。
「働くことだけが、人生じゃないだろ? なんでそんなに無理してまで、仕事することにこだわるんだよ?」「いいかげん、仕事辞めろよ。このままだと倒れるぞ」
 
私の声にならない反論は、頭の中だけで嵐のように荒れ狂う。
「仕事がない毎日が、どんなものか知りもしないで、勝手なこと言わないでよ!」
 
大学を卒業してから20年以上、一度も離職したことなく同じ会社で働き続けている夫には、目の前から仕事がなくなるなんてことは、想像できないだろう。深夜ラジオに耳を傾けながら感じる孤独を、理解することは、永遠に不可能だろう。
そのことで、夫を責めるつもりはない。かつて、同じ会社で同じ仕事をしていた者として、夫が日々どれだけ大きな理不尽と戦い、どれだけ強力なストレスを抱えているか、よく知っている。きっと「仕事なんて消えてしまえ」と思ったことも1度や2度ではなかったはずだ。
 
ただ、私にとって仕事をしないということは、自分の立っている場所がぐらぐら揺れて、ものすごく不安定になること。自分の生きている意味がゆらゆら揺れて、ものすごく心細くなるということを、分かって欲しかった。
 
フルタイム勤務開始から半年、泣いてぐずる娘をほったらかしにして、朝のキッチンでチョコレートと菓子パンを食べる手を止められなくなり、夜は眠ることができなくなり、髪の毛がごっそりと抜けた。
神さまに言いわけするように、娘が幼稚園に通えるようになったら再開することを誓い、私は仕事を辞めた。
 
しかし、結論から言うと、私は自分で自分の誓いを破った。
なぜなら、「仕事」はこれまで、一度も私の目の前から消えていなかったし、これからも消えることはないということに、気がついたからだ。
 
私に大きな気づきを与えてくれたのは、娘を連れて通った子育て支援センターで出会った人々だ。
その支援センターには、多くの転勤族が子どもを遊ばせに連れて来ていた。
フルタイム勤務を辞めてしばらくしたころ、支援センターの先生から「この春、新しくきた転勤族のひとたち向けに、この地域の過ごし方を紹介するセミナーを開催して欲しい」と依頼された。高齢出産で娘を産んだ私は、まわりのママたちより貫禄があったのだろう。「あなたなら、いろいろ知ってるでしょ!」と背中を押され、初めてのセミナー講師を務める運びとなったのだ。
 
元々、学級委員長タイプでもなく、決して社交的でもない私にとって、人前で話しをするのは苦手分野だ。しかし、このときは「やりたい」気持ちが勝っていた。理由は単純だ。頼りにされたのがうれしかったのだ。自分でも誰かの役に立つことできると思うと、体中をやる気がみなぎっていくのが分かった。
それは、へとへとになってこなしていたフルタイムの仕事のときには感じなかった、腹の底からわき上がってくるような種類の、やる気だった。
 
セミナーでは、小さな子どもが遊べる公園や、子連れでも入りやすいお店、いざという時に助けてくれる支援センターや病院などを落とし込んだ、手作りの地図を配った。東北の厳しい冬を乗り越える、アイデアグッズを実演してみせた。地元出身の友だちの手を借りて、観光スポットや穴場の施設など、地域を詳細に紹介した。
 
セミナー終了後、参加者の方や支援センターの先生から「ありがとう」とお礼を言われたとき、私ははっきりと感じることができた。自分が社会という渦の中にいることを。
セミナー講師はあくまでもボランティアで、1円も報酬は発生していない。それでも、仕事をしているときと同じように、もしかしたらそれ以上に、自分が社会という大地に、しっかりと立っていることを感じたのだ。
 
社会から取り残されていたのは、仕事をしていない、私ではなかった。
組織に所属し、そこで働き、収入を得ることでしか、自分の生まれてきた価値を見出すことができないという思い込みが、私を社会から遠ざけていたのだ。
生きている限り、社会とつながることができる「仕事」は、常に目の前に広がっていたのに。
 
転勤族向けの地域紹介セミナーをきっかけに広がった人脈のおかげで、現在私は場所や時間にしばられない働き方が可能となり、収入も得ている。目の前にあった「仕事」が私を社会につなぎとめてくれてくれたのだ。
 
私のように夫の転勤や子育て、介護の問題によって、自らのキャリアが途絶え、社会から取り残されてしまったと感じる女性は、数多く存在するだろう。実際、私のまわりにも、キャリアに悩む女性は少なくない。そんな人たちに、大それたアドバイスはできないが、ふたつだけ伝えたておきい。
 
キャリアを一旦あきらめたとしても、社会の中に必ず居場所はある。
社会の中で、自分の存在する意味を確認できる「仕事」は必ずある。
 
手にしていた仕事が消えることはあっても、社会の一員として、私たちが取り組むべき「仕事」は決して消えないのだ。
 
私はこれからも死ぬまで、「仕事」をしていくことに、こだわって生きていきたい。

 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
井村ゆう子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

転勤族の夫と共に、全国を渡り歩くこと、13年目。現在2回目の大阪生活満喫中。
育児と両立できる仕事を模索する中で、天狼院書店のライティングゼミを受講。
「書くこと」で人生を変えたいと、ライターズ俱楽部に挑戦中。
天狼院メディアグランプリ30th season総合優勝。
趣味は、未練たっぷりの短歌を詠むことと、甘さたっぷりのお菓子を作ること。


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