週刊READING LIFE vol.22

妥協しないためには、センスがいる〜どうして、筋ジストロフィーの鹿野さんはあんな夜更けにバナナを食べられたのか?〜《週刊 READING LIFE vol.22「妥協論」》


記事:坂田光太郎(READING LIFE 編集部ライターズ倶楽部)
 
 

「どうして、席に座らないの?」

 
 
 

私にとって混み合った電車の特等席はドア扉のサイドだ。
ドア扉のサイドに背をもたれることで、少々の揺れであっても、身体は安定してその場に立ち続ける事が出来る。
当たり前だが、すぐ電車から降りる事が出来し、意外と疲労は感じない。
長年の電車通勤で編み出した特等席、それがドア扉のサイドなのだ。
電車に乗ったら、まずドア扉のサイドがあいている箇所を探す。
そして空いてたいら、座席が数カ所空いていたとしても、サイドめがけて小走りするのだ。もうこれは癖になっている。
そんな長年の癖が、友人と電車に乗ったときについ出てしまった。
 
「席空いているのになんで座らないの?」
その電車は混んでは無いものの、乗車してすぐ座れる余裕はなかった。
私たちは、ある程度乗車時間が長かったので、座れるタイミングは何度かあったが、スルーした。
「まあ良いじゃん。立っていようよ」と私はお茶を濁し、結局座ることはなかった。
実はこういうやや混みの車内が一番座りたくない。
それは、ある経験をしたからだ。
 
数年前のことだ。
私はやや混みの電車でたまたま席が空いたので当時は当然のように座った。
しばらく揺られていると、歳は60代か、70代かのおじさんが私の目の前に立った。
ここで背が曲がったおじいさんが立っていたら、私は席を譲る。
だが、立派な体つきとザ頑固オヤジという顔をしているおじさんだ。
下手に席を譲れば「ワシはそんなに年寄りではない!」と怒られるかもしれない。
似た経験をお持ちの方もいるのではないだろうか。
こういうときはどう対応すれば正解なのだろう。
あの時の私は怒られること思い席を譲らなかった。
気づかないふりをしてゲームをした。
間違えだった。
しばらく時間が経った時だ。
「おい!」
前から太い声が聞こえた。おじさんだ。
「年寄りが前に立っているのだから、席を譲るのが普通だろ」
と年寄りには程遠いおじさんが言ってきた。
年寄りなんて思わなかったのですなんて言える分けなく、
「すみません」といって席を譲った。
普通の人ならここで話は終わるが、私の場合は少し様子が違う。
「あ……」私が立った瞬間おじさんが思わず声を漏らした。
 
理由はわかった。私には足に麻痺があり、普通の人より少し内股になる。
おじさんの心情としたら、「やばい。障害者立たせてしまった、、、」という感じだろうか。
おじさんが少し時間を置き私の目を見て「だったら許す」と言ったのだ。
よく分からないが許された。
しかし、その一見を周りに見られた事が恥ずかしくなり、私は用のない駅に降りた。
私にとって満席の電車での特等席はドア扉のサイドだ。
でもそれは、妥協なのかもしれない。
もちろん座りたいが、あんな恥ずかしい思いをするぐらいなら座りたくない。
しかし、身体に負担をかけたくない。といろいろ考えた上でドア扉のサイドという妥協が生まれたのかもしれない。
 
妥協は大人のステップだ。そう思っていた。
仕事をやるようになってからは、数段その思いが強くなった。
帰りたいけど、人が足りない。だから残業する。これも妥協だ。
この日休みたいけど、他の人と休みが被るから仕事をする。これも妥協だ。
妥協しないで仕事をする人は周りで見た事がない。
たしかに妥協しなくてはいけない場面は多い世の中だ。
でも妥協し続けるのはいかがだろうかと最近思う。
そう考えるようになったのは、ある映画を観たからだ。
 
それは、2018年12月公開の「こんな夜更にバナナかよ」である。
話題性がある映画だったので、聞いたことがある人も多いのではないだろうか?
物語は筋ジストロフィーという筋肉が徐々に衰えていく病気を持ち車椅子生活を送る鹿野靖明さんと、鹿野さんを支えるボランティアの生活をコミカルに描いた映画ものだ。
障害者映画というと辛気臭いとつい嫌悪感を抱いてしまうが、鹿野さん役をコメディ俳優として定評のある大泉洋さんが演じたことで、非常に明るい映画となっていた。観客からも笑いが漏れていた。
そして、この物語の凄いところが、実話であることだ。
「こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」というノンフィクション書籍が原作なのだ。
本当にこんな人がいたとは。映画を見終えた私はそうため息をついた。
 
物語は、24時間介助が必要な鹿野さんの元にボランティアとして、大学生 の安堂美咲さんが来るところから始まる。
鹿野さんは、指先しか動かなく、自分でご飯を食べることも、トイレに行くことも、寝返りをうつことさえできない。
それら一つ一つの動作を数人のボランティアが支援しているのだ。
当時「身体が動かなくなったら病院で生活する」というのが一般的な考えだったらしい。
だが、鹿野さんは病院での生活を嫌い、普通の部屋で自ら集めたボランティアとの生活を始めた。
ボランティアと言っているが、すごいことだ。
なぜなら、鹿野さんと支援をする人にはお金が発生していない。
無償なのだ。
だから、やめる自由も、支援を続けない自由もボランティアサイドにある。
だが、鹿野さんはボランティアがいないと動くことさえもできない。
ボランティアがいないと死んでしまうかもしれない。
この時点でとてつもない信頼関係がなくてはこの状況は成立しないことがわかるだろう。
私は、「鹿野さんは色んなことをボランティアの方に気を使って今の信頼があるのかな」と思い込んでいた。
全く違った。
それは、この映画のタイトルに良く現れている。
新人ボランティアの安堂さんが、夜のボランティアに入った時、
なかなか眠りにつかない鹿野さんがある衝撃的なことを言った。
「なんか腹減ってきたな。バナナ食べたい。バナナ、買ってきて」
一応伝えとくと、これは夜中の出来事だ。
しかも、コンビニが今より発達してない時代に。
どれだけ難しいこと要求しているかわかるだろうか。
この一言が物語るように鹿野さんはワガママなのだ。
欲しいと思った物には貪欲に要求するし、やりたいことはどんなに病状が悪化しようと実現させてしまう。
病院を出ることも、医者と相当争ったことを映画の中で描いている。
一切の妥協をしないのだ。
安堂さんはそんな欲望むき出しの鹿野さんに最初は嫌悪感を抱き、ボランティアを辞めてしまうが、次第に鹿野さんの人柄に惚れ込み鹿野ボランティアの一員になっていく。
そこが鹿野さんは凄い。
一切妥協しないことをボランティアに容認させてしまう鹿野さんの魅力。
 
それがなんなのだろうか?
映画の鑑賞を終えて日にちが経った今でも正直明確な答えが見つからないでいる。
しかし、このセリフにヒントがあるのではないかと思う。
「人に迷惑をかけるのは当たり前」
この言葉は、作品内で何度も出たセリフのひとつだ。
「人に迷惑をかけるのは当たり前」と思うことで、ボランティアに鹿野さんは、遠慮しないで全てをあからさまにするのだ。
全てをあからさまで、無防備になる。それが、鹿野さんの策略か、必然的になったのかはわからないが、全てをあからさまにする人間の前では人は怒りなどを失うのではないらしい。
怒りを失い次第にワガママを愛嬌として受け入れられたのではないか。
実際のところ何が魅力だったのかはわからないがこれだけは言える。
 
鹿野さんは自分の困っていることを伝える天才だ。
困っていることを躊躇なく他人に伝えることが、苦手と感じる方も多いのではないだろうか。
私もその一人で
「予定があって帰りたいけど、仕事があるから、残業する」
は、まさに自分の実体験である。
今考えれば仕事を他の人に任せて帰ることもできたかもしれない。
でもそれができないのは「人に迷惑をかけたくない」という意識があったからだ。
だから「予定を潰して、残業をする」という妥協を選択してしまったのだ。
 
妥協は大人のステップだと思っていた。
でも鹿野さんを見てから思うのだ。
 
妥協は都合のいい自分からの意見からの逃げ道だと。
自分の意見から「妥協」という逃げ道を作っているのだ。
それは時に大事なことだ。
お互い妥協しあって、生きて行くことは大切なことだ。
でも職場や社会の環境が明らかに変化している中で「妥協しない」ことも時として必要なのではないかと思うようになった。
それは、共働きや、介護しながらの仕事や、私みたいな障害者や外人が仕事をするなど様々事情や特色のある人たちが働く時代だ。
お互いを容認しあいながら、生きていかないといけない時代なのだ。
 
そんな時こそ鹿野さんのような自分の意見が言える力が必要なのだ。
ここだけは「妥協しない」という強い気持ちが必要なのだ。
妥協するは案外誰にでもできる。自分の意見を曲げて、周りにあわせればいい。
大人の得意分野だ。しかし妥協しないためには、センスがいる。
 
鹿野さんは「妥協しないセンス」のプルフェッショナルだ。
だから、無防とおもえた病院以外の生活が実現できたのだ。
さすがに鹿野さんみたいに言いたい放題言ったら大怪我すると思う。
ヘルパーの利用経験がある障害者友達も「さすがに、あんな言いたい放題
が許されないよね」と言っていた。
同感だ。
しかし、自分の弱い部分を他人に言えば、意外と応援してくれるかもしれない。
「実は、子育て中でどうしても子供を幼稚園に送ってからじゃないと出社できない」とか、
「祖母の介護で定時に帰らなくてはいけない」など自分の「妥協できない」事情を話せば意外と他人は応援してくれる。
そして自分の弱い部分を見せることは相手を信頼していることを示すことにもなる。
人間は信頼されることが誇りと感じる生き物だ。
自分の弱い部分を見せることで信頼関係が生まれる。
きっと鹿野さんもそうやってボランティアと信頼関係を作ったのだろう。
まずは「人に迷惑をかけて当たり前」と思うこと。
そして自分を赤裸々にすること。
妥協ばかりの今だからこそ鹿野さんのような「妥協しないセンス」が必要なのかもしれない。
そんなことを教えてくれた映画であった。
 
今更思うことがある。
もし、あの電車でおじさんに足の障害のことを伝えたら、あんなに気まずい感じにならなくて良くったのにと今更ながら思う。
自分を伝えなくては他人には伝わらない。当たり前のことだ。
でも当たり前なことを見失うのが人間だ。
会社で妥協をする事が多いと感じたらそんな当たり前なこと思い出すだけで妥協する事柄が減るかもしれない。
まず自分を伝える。痛い部分も。弱い部分も。
そこから、信頼関係も絆も生まれるのだ。
もしかしたら「妥協しないセンス」とは「かけがえのない仲間を創るセンス」でもあるかもしれない。
 
鹿野さんは2003年この世を去った。
しかしボランティアの皆さんは今でも年に1回集まり、鹿野さんと過ごした日々に思いを馳せるらしい。
当人がお亡くなりになったあとでも強い絆で結ばれているのだ。さすがすぎる。
やはり、鹿野さんは「妥協しないセンスのプロフェッショナル」だ。
そして間違いなく、「かけがえのない仲間を創るプロフェッショナル」でもあったのだ。
「妥協しないセンス」私も身につけていきたいと思う。
そう、まずは自分を伝えることから。

 
 

❏ライタープロフィール
坂田光太郎 26歳
READING LIFE 編集部ライターズ倶楽部
東京生まれ東京育ち
10代の頃は小説家を目指し、公募に数多くの作品を出すも夢半ば挫折し、現在IT会社に勤務。
それでも書くことに、携わりたいと思いライティングゼミを受講する
今後読者に寄り添えるライターになるため現在修行中。。。

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2019-03-05 | Posted in 週刊READING LIFE vol.22

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