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週刊READING LIFE Vol.38

考えることで、個人は社会よりも優先される《週刊READING LIFE Vol.38「社会と個人」》


記事:千葉とうしろう(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

「緊急車両が通過します」
 
私はパトカーを運転しながら、助手席の相方がマイクに向かって話すのを聞いた。緊急走行は非日常だ。緊急走行をする片時だけ、ふわふわドキドキした中に自分を置くことができる。これっていうのは「面白い」と言えなくもない。モラルを欠いた言い方かもしれないが、緊急走行ってのは面白くもあるのだ。
 
まっすぐに伸びる国道の片側が渋滞になっている。渋滞はおそらく2キロほど続いているだろう。普通に車を運転していれば、この渋滞の最後尾に車をつけなくてはならない。自分たちも渋滞の列に並ばなければならない。だけど私が運転しているのはパトカーだ。目的地はこの渋滞の最前列。警察官は渋滞を引き起こしている交通事故の中心地に行って、交通事故を処理し、渋滞を解消しなければならない。
 
渋滞の最後尾にかかろうというタイミングで、右にハンドルを切って対向車線に飛び出す。アクセルを踏む。助手席の相方が「緊急車両が通るので道を空けてください」との決まり文句。パトカーは中央線のほぼ真ん中を突き進む。向かってくる車は左に避けて道を譲ってくれる。自分たちだけが突き進む中、左右の車は止まっている。こんなのは非日常だろう。
 
渋滞をすり抜けて交通事故の中心地に近づくと、まずは交通事故を起こした車が見えてくる。道路に対して斜めの方向を向いて止まっている車が二台。110番通報では停止している車に後続車が追突したとのことだったので、この2台が当事車両だと想像がつく。それから人が数人、路上にいるのが見えてくる。110番の情報通り、それほどひどい怪我人はいないようだ。我々よりも先についている制服を着た警察官が一人、うなだれている女性が一人、踏ん反り返って大声で女性に詰め寄っている横柄そうな男性が一人。男性が言っていることはよく聞こえないが、おそらく「どうしてくれるんだよ!」とか「弁償しろよ!」という類の言葉を女性に言っているのだろう。
 
ここで私が思うのが、「ああ、今回もか」という感想。警察官をやっていると何回か見る光景。時々出会う状況。さて、何が何回か見る光景で、何が時々出会う状況なのか。
 
うなだれている人がいて、横柄な態度の人がいて、という光景。うなだれている人は第一当事者なのだと予想がつく。突っ込んだ方で、加害者。簡単に言えば、悪い方。「自分は悪いことをした」という自責の念から、うなだれているのは理解できる。
 
横柄な態度をとっている人は第二当事者なのだと予想がつく。突っ込まれた方で、被害者。簡単に言えば、悪くない方。「この場合は自分が被害者で、悪いのは向こうの人」とわかっているから横柄な態度ができるのだろう。停止していたところに後方から追突されたのでは、確かにこの男性に非はないだろう。
 
時々勘違いしている人いるが、被害者というのは権利ではない。被害者である事が権利だと勘違いしている人が時々いる。事件や事故に巻き込まれた際、被害者と加害者に分けて処理されるが、被害者というのはあくまでも立場である。被害者になった途端、加害者に対して横柄な態度をとっても許されるという勘違いがよく見受けられる。勘違いもはなはだしい。
 
被害者が悪人で、加害者が善人だったら、世の中はずいぶんと楽になるだろう。どんなにシンプルだろうか。悪い人が悪い事をする。善い人は悪い事をしない。単純に黒と白に分けられる世の中であれば、法律ももっと単純になっているだろう。どんな時が被害者でどんな時が加害者か、なんて細かく規定する必要も無くなる。
 
現実は、そう単純ではない。黒と白にハッキリと分けられるものではないのだ。混沌としたグレーがどこまでも続く。善い人間が加害者になり得るし、悪い人間が被害者にもなり得る。自分が被害者だからといって加害者に詰め寄ったり、横柄な態度をとっている人間を見ると、どっちが被害者でどっちが加害者なのかわからなくなる。交通事故の中心地は、今回も色がランダムに混ざり合った混沌とした状況だったのだ。
 
さて、社会の根底には法律がある。法治国家と言われるように、生活する上で法律を抜きにすることはできない。我々は、法律で縛られた上で生活しているのだ。子どもの頃から言われてこなかっただろうか。「悪いことはしてはいけない」と。親や、先生や、近所の大人から言われてこなかっただろうか。「決まりごとを破ってはいけない」と。
 
だけど、何が悪いことなのか。悪いこととは何なのか。何をすれば善くて、何をすれば悪いのか。
 
我々の生活は法律に根ざしている。法律に縛られている。であれば、法律違反が悪いことなのか。守るべき決まりごととは法律なのか。法律違反をしなければ悪いことではないのか。法律によって加害者に分類されれば悪い人で、法律によって被害者に分類されれば善い人になるのか。
 
社会は混沌としている。単純に白と黒に分けられるものではない。善い人が被害者で、悪い人が加害者であるばかりじゃないのだ。善い人だって悪い事をするし、状況次第で加害者にもなる。悪い人だって善い事をするし、状況次第で被害者にもなる。
 
先に交通事故現場の具体的な経験を書いたが、被害者になった人間が善人かというとそうでもない。被害者という立場を権利だと勘違いして加害者に詰め寄る人はごまんといる。かと言って、相手に詰め寄るような人は悪い人なのかというと、そうとも言い切れない。「相手に詰め寄るような人は悪い人」と機械的に思っていては、それも安易すぎるだろう。
 
要は、単純じゃないのだ。「これをやってはいけない」「これを破ってはいけない」という絶対的なものが一つあれば、どんなに楽だろう。生活をしていて分からない時に、日常の中で迷った時に、絶対的に頼れるものがあれば、どんなに頭は楽になるだろう。実際は、頼れるものはない。法律ですら絶対的なものではない。法律ですら万能ではない。もしも法律が万能だと思っていたら、善人はどんどん処罰されてしまって、悪人はどんどん処罰されずに放免されてしまうと思う。人間的な感情とは正反対の社会が出来上がっていくことだろう。現実の法律とは穴だらけなのだ。
 
だから、私たちは自分たちで考えなければならない。「法律は絶対ではないのだ」と腹をくくって、個人である我々一人一人が考えを深めなければならない。これは、個人は社会よりも優先される、とも言える。「社会とはこれだ」「絶対的に守るべきものはこれだ」と与えられる基準を単純に受け入れるのではなく、一人一人が「これが社会だ」「これが基準だ」と考えを深めなければならない。
 
我々一人一人は、それぞれ価値観を持っている。価値観は基準がバラバラだ。何が好きで何が嫌いなのか。どこまで受け入れられて、どこから受け入れられないのか。そんなものは人それぞれである。状況は人それぞれ違うからである。
 
定規と言えばわかりやすいだろうか。我々一人一人は、物事を測るための定規を持っている。人それぞれ、自分の定規でもって物事を測っている。物事に出くわした際に、単純に元から与えられている定規で測ってはいないだろうか。元から与えられている定規では、目盛りが正しいかどうかなんてわからない。与えられている定規の目盛りが正しいと思い込んでいては、物事は正確には測れない。
 
物事を正確に測らなければ、世の中は間違った方向に向かうかもしれない。自分たちも損をするかもしれない。間違っているものを正しいと思い込んでしまうかもしれない。もっと美味しいものがあるのに、「近所で売られているものが世界で一番美味しい」と思って大きな損失を被ってしまうかもしれない。
 
法律をそのまま受け入れて「被害者と分類された人が善い人で、加害者と分類された人が悪い人」などと思い込んでいては、間違った方向で世の中が進んでしまう。
 
本当は善い人を「悪い人」だと思ってしまうかもしれない。その「悪い人」を非難してしまうかもしれない。自分の好きな人が「悪い人」だと分類された時に、助けることができなくなってしまうかもしれない。自分が「悪い人」だと分類された時に、どうしようもないと諦めてしまうかもしれない。
 
本当は悪い人を「善い人」だと思ってしまうかもしれない。その「善い人」を擁護してしまうかもしれない。社会にのさばる本当は悪い人を、「善い人」だと思い込んで放置してしまうかもしれない。自分も、本当は悪い事を善い事だと勘違いしてしまうかもしれない。
 
絶対的な価値観ってあるのか。万人に共通する価値観ってあるのか。わからない。あるのかもしれないし、無いのかもしれない。あったとしても、これが「絶対的な価値観だ」と認識することはできないだろう。なぜなら、自分は自分であって他人にはなれないから。自分の認識を飛び越えて、他人の認識を認識することなんてできない。自分にとっては善いことでも、他人にとっても善いことなのかどうかは分からない。「客観的な視点を持て」とか「自分勝手になるな」とは言われるけれど、本当の意味でそうはなれない。
 
じゃあお手上げなのか。「定規の目盛りは人それぞれ」だと、絶対的な価値観の存在を諦めるのか。万人に共通する正確な目盛りはないからと、社会を見限ってしまうのか。そうではない。絶対的な価値観を認識することはできなくても、絶対的な価値観に近づくことはできる。人それぞれの定規を、正確な目盛りに近づけることはできる。どうやって近づけるのか。それは考えることだ。考えることで、絶対的な価値観に近づくことができる。
 
考えるのだ。「本当にそうなのか」とか「一見、善く見える方が、本当は間違っているのではないか」と。考えるという行為が、本当に正しい目盛りに近づくための唯一の方法といえる。
 
これは受動的ではなく、能動的になることでもある。社会から「これ」と言われたことを、ただ受け入れるのではない。「これ」と言われたものに対して、個人が考えるのである。ただただ受け入れているだけでは、「それ」が本当かどうかわからない。社会にとっては善くても個人にとっては悪いことかもしれない。
 
「自分で考えても実際は変わらないじゃないか」と思うかもしれない。「たとえ個人が考えたとしても、物事の事実は変わらないじゃないか」と。そんなことはない。考えることが重要だと気づけば、世界が変わる。物事を疑う事を続ければ、自分から周囲へ、周囲から社会へと価値観が波及するだろう。
 
社会から受け入れるだけでは、本当に正しいかどうかは分からない。本当の正しさに近づくには、一人一人の個人が「考える」という行為をしなければならないのだ。「個人的に見ればなんだか違う」という思いが、社会にはたくさんある。「社会的には善いと言われているけれど、自分的にはダメだな」と思うことが世の中にはたくさんある。そんな時に「何が正しいのか」とか「何を頼ったらいいのか」と途方に暮れそうになる。答えは、考えることにある。
 
じゃあ、考えれば法律違反でも善いことになるのか。例えば悪いことの最高峰に殺人がある。刑法第199条には、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」と記載されている。深く考えさえすれば、殺人も許されるのか。短絡的な殺人は許されなくて、深く考えた末の殺人は許されるのか。どうなのか。私は「許される場合もある」と考えている。
 
日本は法治国家だ。法律は万人に平等でなければならない。万人に平等であることを示すために、ハッキリと具体的に明記されている。だけど、そのハッキリと示された線にも幅がある。だから裁判官から犯人に言い渡される処罰には幅がある。処罰を言い渡す裁判官は、「この場合はどうか」を必死に考えているのだ。
 
だいたい、殺人が悪いことだとされてきたのは、人間の歴史で見れば最近だ。日本の歴史の中でも、ずっと強い者が弱い者を殺す時代が続いてきたのだ。ついこの間までは、日本も世界大戦に首を突っ込んでいたはずだ。
 
絶対的に正しい「これ」というのは、わかり得るはずもない。それは人間にはまだまだ認識できないことが多いからだ。わからないことばかりだからだ。宇宙の果てだってわからない。我々人間自身が何からできているのか、すらわかっていない。そんな我々に社会の何がわかるだろう。
 
社会を疑って個人が考える。考えるという行為は、個人でなくてはならない。考えることが、社会の視点に近づく道だ。考えることで、個人は社会よりも優先されるのだ。

 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
千葉とうしろう(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

宮城県生まれ。大学卒業後、民間企業を経て警察官へ。警察の仕事に誇りを感じ、少年犯罪を中心に積極的に対応。しかし警察経験を重ねるうちに、組織の建前を優先した官僚主義に疑問を感じるようになる。現在は組織から離れ、非行診断士へと転身。警察のフィルターを通して見た社会について発信。何気なく受けた天狼院書店スピードライティングゼミで、書くことの解放感に目覚める。

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2019-06-24 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.38

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