週刊READING LIFE vol,115

怒りって悪いもの?《週刊READING LIFE vol.115「溜飲が下がる」》


2021/02/15/公開
記事:長谷川順子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
こわくて手が震えていた。
電話の向こうで、お坊さんが激しく怒鳴っていて、その罵声にからだ全身で恐怖を感じていた。
こんなことぐらいで動揺して震えるなんて恥ずかしいと思うのに、震えはおさまらない。
激しい怒りの声を聴いていることに耐え切れず、耳を離した。
受話器を離しても聞こえてくる……
 
なんで怒られたのかわからないほどだった。
どうやら、自分が嘘をついたと私に責められている、と勘違いされたらしい。
あまりの激昂に、口を挟む暇もなく、怒って気が済んだのかガチャンと切られた。
 
でも、まだ手の震えがとまらなかった。
私にとって、男性の怒鳴り声はとてつもなくおそろしい。
私は、男性の怒鳴り声を避けるために生きてきた、と言ってもいいかもしれない。
 
それほど、おそろしい怒りに平穏な心が乱される。
不安と恐怖でいたたまれなくなる。
なのでいつも、怒られたらどうしようという思いが消えない。
 
こどものとき、朝起きていちばんにすることは、今日は父の機嫌がよいかどうかを確認することだった。
機嫌が悪いときは、おとなしくする。はしゃがない。
私の自己表現は、父の機嫌に左右されていた。
母はいつも父に怒られていた。
そして、母は何も言い返しもせず、黙って耐えていた。
それを見ているからかわからないが、私も怒られたら黙っていた。
 
結婚するなら、怒らない男性がいいと思っていた。
でも、私の前にあらわれる男性は、よく怒る。
どうしてだろう。
 
心理学的には、鏡の法則といって、周りにいる人は、自分自身をあらわすという。
私が怒っているから、目の前に怒っている人があらわれるということか。
怒っている自覚がないのだから、難しい。
こどものころから、怒られないように自分の感情を抑えてきたから、それが当たり前になって、自分の感情がわからなくなっていた。
 
怒られたらどうしよう、という思考なので、自分が怒るということはなかった。
いや、例外があって、母にだけは怒ることができた。
母にだけはささいなことで怒ってしまう。
まるで父のように。
父が母を怒っていたから?
自分も同じように怒るのか……
私も怒りたかったのか。
 
あるセミナーで、同じグループになった女性が、ずっと怒っている表情のひとだった。
たぶん、普通の表情が怒っている印象なのだが、彼女がびっくりすることを言った。
「私、怒ったことないんです」
え、こんなに怒っているって感じがするのに?と思った。
そのことに、とても考えさせられた。
怒っている感じが強いのに、本人は怒っていないという人が、目の前にいるということは、私がそうだということだ。
彼女が、胸の奥深くに何かしらの怒りを溜めているのは、よくわかった。
私も、自分のなかに怒りを溜めこんでいるということか。
 
何の怒りだろうか。
昔であれば、心当たりもあった。
父に対する不満、男性に対する不満を、ぶちまけることができなかったからだ。
 
父は亡くなったし、いまは自由なひとり暮らし。
何に対して怒っているのだろうか。
 
私に厳しくあたる男性がいた。
立場が上なので、そんな言い方しなくてもと思っても、何も言えない。
そうだ、立場が上の人や、強い力を持っている人に、私は従ってしまうのだ。
それが本意でないとき、そうしてしまう自分が嫌なのだ。
そして、自分自身に怒っている。
 
自分の本心を出さないことが、自分自身を怒りで傷つけているということに、最近気がついた。自分が怒りを発散しない限り、怒りは消えないのだ。
 
厳しくあたってくる男性に嫌味を言われた。
心がチクッとした。
何も言わなかった。
数時間後に、彼が段差で派手にこけたと聞いたとき、溜飲が下がった。
でも、私が自分で怒りを発散していくことができないと、ずっと怒っている人が目の前にあらわれる。
 
 
 
「こんな能をやって、どう責任とってくれるんだ!!!」
先日、お能を観たあと、怒鳴っている男性がいた。
お能の余韻に耽って、みな沈黙の中、観客は静かに帰ってゆくときだった。
 
静けさを破って、声を張り上げていた。
みんな、ゆっくりとおもいをめぐらせながら、気分よく帰っていきたい。
怒鳴られたら、ドキッとするし、気分悪い。
邪悪な雰囲気が漂った。
 
構わず、その人は怒り心頭で、怒鳴り続ける。
その場から立ち去りたかった。
 
「こんな弱法師(よろぼし)、弱法師じゃない!!」
「20時までに終わらせるために、省略してこんな能をするんだったら、公演自体をやめたらよかったんだよ!」
その男性の言う言葉をよく聞いていると、お能にかなり詳しい人だ。
私は初めて弱法師を観て、どこを省略したかなんてわからない。
 
「クリサシがない弱法師なんてやるんじゃないよ!!!」
クリサシって何?
クリサシという言葉を私は知らなかった。クリサシというのは、どうやら能のなかの曲のう謡(うたい)のクライマックスへと向かう部分のようだ。その部分が、今日は省略してなかったらしい。そんなことは、弱法師の謡を知っていて、全体を観たことがある人しかわからない。
 
「ああ、この人は、お能を愛しているんだな」と感じた。
 
静まらないその男性の張り上げる怒鳴り声を、周りのお客さんが見守っていたが、そのなかの一人の女性が、手を挙げて言った。
「それは、世阿弥が後からつけたから、最初はなかったですし、私は今日の公演を満足しています」
と、能楽堂側をフォローするように言った。
 
すごいと思った。
何がすごいかって、お能に対する愛だ。
その女性は、弱法師が長年演じられているうちに、手を加えられて最初の弱法師から変わっていったことを知っていて、最初の弱法師にはそのクリサシの部分がなかったから、今日のはこれはこれでいいのだ、と言ったのだ。
何のことを言っているのか私にはわからなかったが、とにかくその女性も弱法師に詳しくて、お能を愛している、ということだけがわかった。
 
弱法師は、世阿弥の息子の観世元雅がつくったとされる。観世元雅は世阿弥より先に30代で亡くなってしまった。世阿弥が息子のつくった弱法師の演目を、書き直した。現在は主に世阿弥が書き直したものが演じられているらしい。
そんなことも、お能が好きでないとわからない。
 
男性は、女性の言葉を聞いて、
「それはあなたの意見だ。私は、私の意見をこうやって主張してるんだよ!」と言った。
 
邪悪だと思った空気が変わった。
邪悪なんかじゃない。
お能に対する愛がそこにあるだけだ。
 
それぞれに真剣にお能に向き合って、愛している。
真剣だからこそ、自分が観たかった「弱法師」じゃない!って激怒するのだ。
それに対して、これも弱法師だよ、と女性の愛で包み込んだ。
 
私は、愛に満ちた瞬間に立ち会えたのだ!
怒りが愛でできていることを感じた瞬間でもあった。
 
怒りというものは、マイナスなもの、ネガティブなものだと思っていた。
だからこそ、抑え込んで、感じないようにしていたのだ。
怒りを消さないといけないと思っていた。
けれども、怒りというのは、愛をあらわしている。
真剣だからこそ、怒りが生じるのだ。
ネガティブな思いも抱えながら、より深くその物事に近づける。
その根っこにあるのは、愛だった。
 
そもそも、お能というのは、死ぬに死にきれない幽霊が主人公だ。
この世の怒りや恨み、つらみ、不満を、幽霊になって出てきて、お坊さんにぶちまける。
お坊さんが共感してくれる。
お坊さんは観客の代表として存在する。
その霊の、やるせない思いを鎮めてやる。
 
能舞台には、背景の壁に必ず老松が描かれている「鏡板」がある。老松には神さまが宿るからだそうだ。お能は、そもそも神さまのために奉納されているのだという。
でも、神さまである老松が描かれた壁面に背を向けて演じて、奉納といえるのか。松が描かれた壁面のことを、「鏡板」と呼ぶのは、松が描かれた壁面を鏡と見立てているからだ。
神さまが、私たちと同じ客席側にいて、鏡に写っている姿が、老松なのである。
 
お能を観て、観客もそれぞれに思いに馳せる。
感じとり方は、ひとりひとり異なるだろう。
歌舞伎と異なって、ストーリーがすぐに展開していかない。ゆったりと時間が流れてゆく。なので、観ている人が、個々に自由に、自分の思いを馳せることができるのだ。
自分のなかの思いと重ね合わせて鑑賞する。
ふだん感じない奥深くの自分の思いと向き合う。
 
舞台は鏡であり、自分自身の心を見つめることができるという。
お能を、自分の心をうつす場所としてとらえるのである。
 
 
怒りは、春に増えるらしい。
中国の古くからの考え方の陰陽五行では、春に影響を強く受ける臓器が肝で、その肝が不調になると、怒りの感情が出やすくなるのだという。
その怒りというエネルギーは強くて、春に新芽は怒って芽吹いてくるのだ。
種から芽を出すには、固い殻を破る強いエネルギーがいる。
怒りには、その強さがある。
何かを始めるには、怒りのパワーは必要だったりするのだ。
 
むしろ、怒りや不満があるから、新しいことができるともいえる。
問題がなければ、そのままで変える必要もない。
 
その怒りのエネルギーをどのように自分にとってプラスに変換していけるかが、大切なのかもしれない。
 
 
私は、自分を怒ってくれる人のことを、自分と真剣に向き合って愛してくれていると感じていることに気がついた。
だから、怒ってくれる人に惹かれてしまうのだ。
おそらく父の影響だろう。
 
特に、指導してくれる先生に対して、厳しく指摘してくださる方についてゆきたいと思う。いつも穏やかで絶対に怒らないという先生も、楽しくていいのかもしれないが、表面的に当たり障りなく指導して、本質的核心に触れられていない気がしてしまうのである。
ズバリ自分の治すべきところを、言ってほしい。
 
こんなだから、やはり、怒るひとがあらわれる。
怒る人はそれだけ、生きることに真剣なのかなと思う。
 
 
お坊さんに電話で大声で怒鳴られたときには、お坊さんなのにこんなに怒るんだ、とも思ったりした。
でも、私の何かで怒らせたのは間違いがないので、反省して、不快な気持ちにさせてしまったことのお詫びの気持ちをお手紙にしたためて、すぐに郵送した。
すると、次にお目にかかったときには、お坊さんは菓子折りをお持ちになって、あのときは感情的に怒ってしまって申し訳なかったと、お詫びされた。
お坊さんも人間なんだ。
勝手に理想化してはいけない。
 
 
怒りを通して、世の中が愛に満ちていると感じた。
だって、怒りの中にでさえ、あるのだもの。
愛に満ちた世界にいることが嬉しくなった。
その世界にいる今の幸せに感謝した。
 
すべてのものごとや人と真剣に向き合って、生きていく。
そのとき生じる怒りも決して恐れずに。
自分の怒りもちゃんと感じて、生きるパワーに変えていこう。
そして、私の殻を破っていく。
 
今日は母の誕生日。
愛を怒りで表現せずに、感謝を伝えよう。
いま生きてくれていることを。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
長谷川順子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

京都生まれ京都育ち。同志社大学卒。会社員。
運命の流れに乗って、長年住み慣れた京都から、東京に移り住む。趣味はいけばな、朗読、温泉への旅。
好きなものは、美しいもの、自然、神秘的なもの。本物、本当のこと。関心があるのは、陰陽五行、気、この世の真理、心理、目に見えないもの。さまざまなひとやものとの出逢いのなかで得た結晶のようなものをことばに綴りながら、ライティングを学んでいる。

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2021-02-15 | Posted in 週刊READING LIFE vol,115

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