週刊READING LIFE vol.122

漫画『ヘタリア』で過呼吸を治した、とあるオタクの記録《週刊READING LIFE vol.122「ブレイクスルー」》


2021/04/05/公開
緒方 愛実(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
数年前、とある大型商業施設の中。日曜日とあって、多くの人で賑わっている。楽しそうにはしゃぐ家族、ゆったりウィンドウショッピングをする老夫婦、腕を組んで仲睦まじげに歩いているカップル。老若男女、それぞれが休日の買い物を楽しんでいる。
その人混みの中で、顔面蒼白の女がいた。行き交う人々の邪魔にならないギリギリの蛇行歩行、呼吸は浅く、喉はヒューヒュー鳴っている。周りの人々との温度差が天と地ほどの開きがある。
過呼吸発作を起こした、瀕死の私である。
 
どうして、こんなに人がいるんだろう。
どうして、私はこんな日にでかけて大丈夫だと思ったのか。
 
酸欠の頭でぐるぐると考えたって、答えなんて出るはずもない。
当時の私は、離れ小島のようだった。
過労が原因で退職し、無職になったものの、自由を謳歌しているわけではなかった。真面目で完璧主義だったことが災いし、退職した自分を責めていた。
 
なぜ、上手く立ち回れなかったのか。
仕事を辞めて、何もしていない無職の私は劣等生物なのではないか。
そう、きっと世間の人は思うに違いない。
反社会的な人間である私は、いったいどうしたらいいのだろう。
恐ろしい。
何も持っていない自分が。
世間の厳しい目が。
恐ろしくて堪らない。
 
疲れた心身を更に、自分で追い詰め、不眠症と過呼吸発作を患うようになってしまった。
元々、私は、呼吸が浅く、入眠障害のような体質だった。布団に入っても、すぐには寝付くことはない。良くて、1時間、そのまま明朝まで寝付けないことが普通だった。それが更に、悪化。あの時期は、1時間も熟睡していなかったかもしれない。意識を薄っすら持ったまま、ただ、布団の中で丸まっていた。カーテンの隙間から伸びる陽の光を、空虚な瞳と心で見つめていた。
過呼吸発作は、なんでもない時に理由もなく起こることもあった。多くは、今回のように、人混みや、電車の中でも発生した。人間と空間の圧迫感に、極限まで虚弱になった、私の心身が悲鳴を上げてしまうのだ。
具合も天気も良かったから、つい、油断してしまった。
浅い呼吸を繰り返しながら、必死で私は、自力での回復を試みる。だが、体調の急降下と同時に、精神まで急降下して、虚弱な自分を心の中で責めてしまう。終わりも救いもない、それでも辞められない。癖のように、呪いのように、真っ暗な言葉と気持ちが、押し寄せる。
私の頭の中で、私という小島が荒波に揉まれて揺さぶられる。ゆっくりと、世界から、また引き離れようとする。
 
ダメだ!
 
私は、ショルダーバックの肩紐を強く握りしめる。ギュッと目を閉じ、深呼吸を繰り返す。
 
苦しくなったら、彼のことを考えよう。
きっと、また、助けてくれる。
 
大きく息を吸って、吐きながら、ある人物の面影を瞼の裏に描く。豪快に口を開けて、楽しそうに走り回る、彼の姿を。
 
そうすると、不思議と呼吸が落ち着いて来た。額と首筋の脂汗が、店内の冷房に吹かれ、ヒヤリとする。なんとか、平常時の体調にまで戻すことができた。
ホッとしながら、私は彼に感謝する。
 
やっぱり、この心の特効薬が一番効くな。
 
私は、体調が治まっている内にと、足早に買い物を済ませた。
 
早く家に帰らなければ。彼が待っていてくれるんだから。
 
彼、というのは、私の彼氏でも、家族でもない。
ペットやその他の生き物か、と聞かれたら、私は首を横に降る。
だが、この世に実在しないのか、と聞かれたら、私は大声でNein! (ドイツ語でいいえの意味)と叫ぶ。
では、彼は何者なのか。
彼は、紙の中、時として、画面の向こうに存在する。
 
そう、彼は二次元。漫画とアニメに登場する人物。そして、私は、その彼に惚れ込んだオタクなのだ。
 
彼と出会うきっかけとなったのは、無職になり、療養も兼ねて長期に家にいることとなった私に、従姉妹が貸してくれた漫画のシリーズ。
日丸屋 秀和著作、国擬人化漫画『ヘタリア』。
現在・過去に実在した国々などの、それぞれの国民の平均的な気質や文化などを織り交ぜて、キャラクター化した人物や実在した偉人が登場する物語が、オムニバス形式で描かれている。紀元前から、戦時中、近代までの実際に世界で起こった事柄、時事問題、時折ファンタジーな話、突然のセンチメンタルな話、からの、ギャグ展開まで、ふれ幅の大きな物語が紡がれる。
主人公の「イタリア」は、美味しいものと女の子が大好きで、息をするようにナンパをするが、心優しい青年。
「日本」は、見た目は大人しそうな青年。四季と食を愛し、オタク文化にも精通する。アルカイックスマイルを浮かべて、何を考えているか他国のキャラクターたちが理解し難い、ちょっと、いや、かなりの不思議ちゃんだ。
「ドイツ」は、四角四面の生真面目な青年。たくましい体躯をしているが、休日は、お菓子作りや愛犬との触れ合いの時間を愛する、かわいい所がある。
その他にも、たくさんの国々を擬人化したキャラクターたちが登場する中で、私がゾッコンなのは、「プロイセン」というキャラクターだ。
プロイセンという国名を、世界史を学ばれた方は知識として知っているかもしれない。現代のドイツの礎となった、実在した国で、「国家を持つ軍」と呼ばれ、フリードリヒ二世のもと軍事で強国までのし上がった過去を持つ。明治時代には、憲法、医学、陸軍の技術等を学ぶため岩倉使節団や森鴎外など日本の要人たちが留学・滞在した国でもある。日本とも、大変縁の深い国なのだ。
そして、それを擬人化・キャラクター化するとどうなるかというと、大変コミカルな男性となっている。軍国なだけあり、粗野で乱暴。なかなかに、横暴な言動を行い、他国を振り回す、「俺様」なやつである。だが、反面、時間を守り、規律に従う、生真面目な気質も併せ持つ。弟分である「ドイツ」や、知古の「イタリア」と「日本」もやさしく接しかわいがっている。「またあいつ何かやってるよ」と、周囲に仕方ないと笑われ、小鳥もなつく愛されキャラだ、と私は思っている。
はじめは、まったくプロイセンという国を知らなかったので、「ふーん、そんな国があったのか」ぐらいにしか思っていなかった。
だが、ある物語で、私の脳天に電撃が落ちた。
 
それは、中世ごろのエピソード。幼馴染的な女性キャラと「プロイセン」を主人公にした物語だ。戦で負傷した彼女を見つけ、はじめはあざ笑っていた「プロイセン」。だが、彼女の服の胸元がはだけていることに気がついてしまう。彼女は、戦に立ちたいのに自分が女であることを悲しみ、落ち込む。
そこで、何と、「プロイセン」は、彼女に自分の服を投げ渡すのだ。そして、ギクシャクしつつも、はげましの言葉を残し、背を向けて去っていくのだ。
 
普段、粗野な人物が、突然見せるやさしさ。
ヤンキーが、大雨の中震える捨てられた子犬に、傘を差し出し、ずぶ濡れで駆けていく。
ふふ、あいつ、やさしいとこあるじゃん……である。
なんて、少女漫画的ギャップ!
私の脳天に雷が、心に何かが突き抜けた。
音にするなら、ズギャーーーーーーーーン!! である。
乾いた心に突然降り注いだ、恵みの雨。
退職する直前から、その当時まで、大好きな漫画や映画を見ても、心も涙腺もピクリとも揺れなかったというのに。
久しぶりに胸が鼓動を強く打った気がした。カーテンを引いた仄暗い部屋の中、おもむろに漫画を持って立ち上がる。
 
「……な、なんだこれ、好き!!」
 
片手で顔を覆ったまま、一人叫んだ。口のニヤつきが治まらない。歪ながら、久しぶりに心から笑えた。
 
それから、従姉妹に懇願して、過去に放送のあった『ヘタリア』のアニメDVDやCDを山のように借りた。
他のキャラクターたちの物語ももちろん見たが、特に「プロイセン」が登場した回や、CDは歌詞とセリフを覚えるほど見聞した。
ドラマCDというものがあり、声優さんがセリフに声をあてた音声劇を収録した作品だ。ウォークマンなどの小型音楽再生機にデータを入れれば、場所を選ばず、音声で物語が楽しめる。そして、一見、オタク活動しているようには見えないので、世間体的にも楽だ。まぁ、私は別段、恥ずかしいという気持ちなどなかったけれど。
私は、薄暗い部屋で一人、寝転んでいた。耳にはイヤホンをつけたまま。大好きなキャラクターたちが、耳元で大騒ぎしているのだから、当然、熟睡できるわけない。だが、それでも、とても救われた気がした。彼が今日も高らかに笑っている。
おまえは一人じゃないぜ!
そう、彼が言ってくれている気がした。
私は、口元に微笑を浮かべ、ちょっぴり泣いた。
 
かわいい、かっこいい、などの感動した気持ちを表すオタク言語に「萌え」という感嘆詞がある。
一言では、収まりきれないが、確かに、瀕死の私を動かしたのは「萌え」だ。
オタクは、キャラクターや物語を愛した極め人だ。
徐々に不眠症が回復しはじめた私もまた、加速する。
キャラクターの「プロイセン」を愛するあまり、プロイセンという国に興味が湧いたのだ。歴史書、軍事記録などの専門書も図書館で借りて読んだ。だが、プロイセンの専門書は、日本国内、九州の田舎はより数が限られている。図書館所蔵の本はすぐに借り尽くしてしまった。専門家自体もいない。周りに、同じように話せるオタクもいない。ないない尽くし。追い込まれた私は、考えた。
 
もっと、プロイセンのことが知りたい。
ドイツ語の原語で書かれた、翻訳ではなくて原書でプロイセンの史料が読みたい。
むしろ、ドイツ、プロイセンのあったベルリンやポツダムに行きたい。
聖地巡礼したい!
なら、ドイツ語読めて、話せた方が有利だな!!
 
恋は人を変える。
私は、「萌え」を原動力にして、孤独な世界から飛び出した。
まず、TVの語学学習番組、『ヘタリア』の旅行に使える指差しドイツ語単語帳などで、独学で基礎を学んだ。そして、日本とドイツの親善交流活動等を行う、西日本日独協会主催のドイツ語教室の中級クラスに突入。熱意というよりは、若干狂気を感じる学習意欲とマニアック過ぎる知識を披露し、みんなに驚かれた。
私のようなドイツ・プロイセン文化オタクは、そこにもいなかった。
どちらかというと、講演会で招待された、専門家の方や教授と話が大いに盛り上がった。
「なぜ、留学経験もないのに、そんなにドイツの知識が深いのですか!?」
教授たちは、私のドイツ・プロイセン狂人ぶりに、舌を巻きつつ、大いに面白がってくれた。
気がつけば、西日本日独協会のボランティア役員の席に付き、日本全国にある各県の日独協会の若手のみなさんと日本国内を飛び回り、日独の架け橋となるためイベント手掛けるようになった。
 
並行して、『ヘタリア』でつながった友人とも出会えた。『ヘタリア』を愛するオタクの人々のことを、属に「ヘタクラ」と呼ぶのだが、みなさんもなかなかの狂人だ。同じように、外国語を修得した人は珍しくない。大学の専門コースへ進んだ方、留学しそのままその国に住み働いている方もいる。中には、外交官のような、まさに国と国の架け橋となる職に就いた方もいる。だが、多くは、一般的な会社員や主婦の方が多いようだ。しかし、日常をおくりながら、みんなそれぞれに、心の中に燃え上がる「萌え」を大事に抱えている。
みんな狂おしいくらいに『ヘタリア』を愛している。そして、良い方向に人生が狂っている。
みんな違って、みんな狂人だ。
 
絶海の孤島にポツリといたはずが、気がつけば、私は、さまざまな所に着岸している。
今日は、会社員。
明日は、ヘタクラ。
次は、ドイツ・プロイセン文化の探求者。
さて、次は、どこへ行こう。
自分の思う通りに、たまに、思わぬ方向に、大海原を突き進んでいる。
 
いつの間にか、過呼吸発作は治まった。だが、時折、ストレスが貯まると、突発的に発症することがある。
そんな時は、落ち着いて目を閉じる。そうすれば、瞼の裏に、元気に駆け回る彼の姿を思い描ける。
きっと、彼がまた手を引いてくれる。
 
「ケセセッ、ぼーっとしてたらもったいないぜ! 楽しいことには、どんどん首突っ込んで行け!!」
 
私は、Ja(ドイツ語で、はい)と笑顔でうなづく。胸は高まるけれど、呼吸は落ち着いて行く。開いた目は、真っ直ぐにその先を見つめて。
 
オタク言語の感嘆詞で、「ありがとう地球」というのがある。
大好きなキャラクター今日もかわいい、かっこよくて元気くれてありがとう。
作者様ありがとう。
漫画を出版してくれて、編集者さん、ありがとう。
アニメ版の監督さんありがとう。
作者様を産んでくれたお母様ありがとう。
なんかもう、全部含めてありがとう!
この世のすべて、地球、ありがとう!!
という、オタクが表現するBIG LOVEだ。
2021年4月初旬、7期目となる『ヘタリア』の新作アニメの放送スタートが決定した。
ひとえに、体調を崩しながらも『ヘタリア』を描き続けてくださる作者の日丸屋先生、それを応援し丸ごと愛し続けた狂人の「ヘタクラ」さんたちの切なる思い、数え切れないほどの方々のご尽力が実を結んだのだと思う。
また、動いてしゃべる彼らに会えてしまう。
すでに、世界中に散らばる「ヘタクラ」さんたちが、うれしすぎて発狂している姿をSNSで確認している。
私もその一人。
あぁ、過呼吸どころか、心臓が止まるかもしれない。
でも、大丈夫、私はもう一人ではない。一緒に喜び、踊り狂ってくれる仲間がいる。
私は、また、「萌え」を原動力に、新たな道を切り開いて行こう。
さて、その前に、今日も愛を込めて、心の中で力いっぱいハグしよう。
 
ありがとう地球!!
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
緒方 愛実(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

福岡県出身。カメラ、ドイツ語、占いなど多彩な特技・資格を持つ「よろず屋フォトライター」。漫画『ヘタリア』の「プロイセン」に心臓を撃ち抜かれたことをきっかけに、国内外の日独親善交流の関係者や専門家に引かれるほどのDeutscher -Geek(ドイツオタク)に急成長。現在、日独青年交流を行う団体・JG-Youth(日独ユースネットワーク)の役員としてオタク知識と熱意をフルに活用中。
貪欲な好奇心とハプニング体質を武器に、笑顔と癒しを届けることをよろこびに活動している。
※写真:2016年ドイツ・ポツダムのサンスーシ宮殿敷地内にて。フリードリヒ二世(通称・フリッツ親父)様の墓前にご報告と感謝の祈りを捧げている著者。

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2021-04-05 | Posted in 週刊READING LIFE vol.122

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