週刊READING LIFE vol.129

目覚めを噛み締めて生きる《週刊READING LIFE vol.129「人生で一番『生きててよかった』と思った瞬間」》


2021/05/24/公開
青野まみこ(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
今日も無事に、朝、目が覚めた。
 
わざわざ「目が覚めた」と書いたのには理由がある。
前の日から睡眠時間を取ったと思っていても、そのままもう2度と目が覚めない人だっているからだ。
しっかりと眠って、目が覚める。それは決して当たり前のことではない。あの日から、そう思っている。
 
 
 
今の仕事に就いて約2年半が経つ。
平日フルタイムなので、なかなか自由になる時間が限られている。その中でも検診には行っておかないといけないかなとは思っていて、でも時間が合わずに医者に行く日を1日伸ばしにしていた。
 
自覚症状はあった。
その5年ほど前から体調不良は感じていた。だが長期間ずっとどこかが痛いというわけではなく、症状が出たり出なかったりだった。具合が悪くなければ普通に家のことも仕事もこなしていたし、寝込みっぱなしでもなかったから、そんなに深刻な事態だとは思っていなかった。当時から年に1回健康診断は受けていたけど、医者に行っても、
 
「これは病気というほどのものでもないですから、このまま様子見ておいていいんじゃないですか」
 
と言われるだけだった。
治療に通うのも費用と時間がかかるし、エコーも撮った上で医者が「様子見でいいですよ」って言うんだからそれ信じていいよね? と思うのが普通だろう。それでも症状は結構激しく出ることがあったけど、医者がそう言ってるからこのまま普通に暮らしていていいよね。そう判断して、不調を抱えたまま年に1回の検査を受け続けていた。
 
ところが今の仕事に就いてから、検診に行くタイミングを完全に逃していた。
平日は帰宅してしまうともう医院は閉まっている時間だった。日曜日は休診だし土曜も予約が取りづらい。そのうちそのうちと思っていると瞬く間に年末がやってきた。検診も期限があるし、年が明けたらまた行けなくなっちゃう。どうしようかと思っていると、年末の仕事納めの後にやっている医院を1軒だけ見つけた。
 
(行くんならこの日しかない、ここに行こう)
 
職場の仕事納めは世間よりも少しだけ早い。数日だけど暮れまで余裕があった。そんな中、12月28日にやっている医院が1軒だけあったのだ。これを逃したらもう土日もあるし来年に伸びてしまう。この日にロックオンして予約を取って、検診に出かけた。
 
「いつからこういう症状なの?」
私から概略を聞いた医師は眉をひそめた。
「5年ほど前からです」
「何にもしていなかったの?」
「年に1回は検診に行っていましたけど、その時診てくれたお医者さんはみんな『病気ではないから経過観察で大丈夫ですよ』って言っていたので、特に治療はしていなかったんですけど」
「でも、この症状は普通じゃないよね。それはご自分ではおかしいと思わなかったの?」
「確かに辛くはあって、どうにかしたいとは思っていたんですけどね」
「まあ、診てみましょう」
 
そう言って医師はエコーを撮った。
 
「……うわ、これはなんだ」
 
エコーを当てながら医師は話した。
 
「これ、ここ見て。ここに黒い影が2つあるでしょう。これ、嫌な感じがするんだよね」
「え……」
「とりあえず血液検査をするから、結果は来年だけどまた来て」
 
その日の診察はそれで終わった。そして年が明けて再診に出かけた。
 
「血液検査の結果だけどね、よくなかったね。ひどい貧血だよ。そりゃ当然だ」
「……」
「あなたこんなになっててよく我慢してるね。今は仕事に行くだけでやっとだと思うよ」
 
仕事に行くだけでやっとだと思うよ。
 
私はその言葉を頭の中で繰り返した。
仕事に行くだけでやっと。それは確かにそうだった。
 
5年ほど前から、身体の疲れ方がすごく酷くなってきたような気がしていた。出歩くと疲れが取れるのにとても時間がかかっていた。採用面接の場で、
「お住まいが少しご遠方のようですけど、通勤や勤務にあたって体力的に大丈夫ですか?」
と訊かれて誰が、
「すごく疲れているんです」
なんて答えられようか。そんなことを言ったら懸念材料になってしまう。体調不良があることはあるけど、それは悟られないようにしないといけない。身体のリスクを抱えた人を採用する職場は滅多にないから。そんな負い目を抱えた転職活動だった。
 
転職してからは慣れない平日フルタイム勤務のために、いろんなことを前倒しでしないといけなかった。家事も日頃の雑事も出勤前にこなさないと家が回らない。通勤の往復の時間もとても負担になっていた。職場でのストレスもそこに加わった。そんな無理もたたっていたのだと思う。
 
「とりあえず検診結果が来週に出るから、それを見て治療方針を立てましょう」
 
検診の結果が出るのがなんとなく怖かった。もし何かの病気だったらどうしよう。職場にそんなことを言おうものなら『入ったばかりなのに』と人事に言われるから嫌だなあ。色々なことを考えながら翌週結果を聞きに行った。
 
「よくないですね。今はいわゆる『前がん状態』です。がんになりかけている、ということ。よかったら大学病院を紹介します」
 
どうしよう。大学病院なんてかなり身体が悪い人が行くところに紹介されちゃうよ。でもここの医院じゃ手に負えないわけだから仕方がない。一体なんなのか、はっきりしてもらいたい気持ちがあった。
 
大学病院の初診の予約を決めるのが大変だった。まだ有給休暇がないので平日の初診は避けたかった。土曜日に絞って探してもらっていたがなかなか早い日が取れない。やっと取れた日は、街の医院の初診から40日ほど経っていた。
 
「紹介状を拝見しました。まずは内視鏡検査をして、状態を調べましょう」
 
内視鏡検査は半日入院をしなければいけなかった。大げさなと思わなくもないけど、きちんと調べるためだ。半日入院をして細胞診をした結果、やはりあまりよくない状態であること、そして手術が今取れる最善の方法であることが説明された。
 
「このまま経過観察をしてもいいのかもしれませんが、年月が経って悪くなる可能性もあります。そうであれば手術してしまった方がいいように思いますが、いかがでしょうか」
 
私の答えは決まっていた。
手術が怖いからって、ぐずぐずと先に伸ばしていつまでも体内に悪いものを持ち歩いていたってなんの意味もないじゃないか。そんなものはさっさと取るに限る。
 
「先生、手術をお願いします」
 
手術一択だった。医師も私の決断を聞いて、少しほっとしたような表情になった。
 
 
 
手術しますと答えたはいいが、そんなこと人生で生まれて初めてのことだ。入院なんて出産の時しかしたことがない。
 
なんだかすごく大げさなことになってるんだけど。だって、5年前から検診していた医者は「病気じゃないですから様子見でいいですよ」って言ってたじゃない。なので自分でも「こんなもんか」って過ごしてきた。なのでなんなんだこれは。私の頭の中に「セカンドオピニオン」という選択肢が浮かばなかったのが最大のミスだと思った。なんであの時、他の医者に行かなかったんだろうか。なんで「おかしい」と思わなかったんだろうか。そうしたらもっと早くに決着がついていたのに。
 
私を検診で診てきた医者たちに対してはすごくモヤモヤしたし、単に自分たちが面倒な患者を抱えたくなかったからそんなことを言っていたのかもしれないと疑ってもいた。今更いろいろと考えてもらちが明かないけど、今となっては身体の症状が一向によくならなかった時点で「正常じゃなかった」のだから、そこから大きく前進するきっかけができて、それでいいじゃないかと割り切ることにした。
 
「有休ですね。どうかしたの?」
「ちょっと通院しているんです」
「ええ? どこかお悪いの?」
「ええ、まあ」
 
入職から半年未満なのでまだ有給休暇がないにも関わらず、私が休暇届を出す回数が多くなっていたことに課長が気がついた。できるだけ通院の日は土曜日になるようにスケジュールを組んでいたが、大学病院なので全部の診察を土曜日で済ませることがだんだん不可能になっていた。私は別室に呼ばれた。
 
「少し詳しく話してくれませんか?」
「実は年明けから大学病院に通っていて、手術が必要と言われています。ご報告が遅くなってしまって申し訳ないのですが、もう手術日は決まっています。1週間ほど入院しなくてはいけないのですが」
「そうなんですか。それは大変ですね。今は勤務することに支障はないんですか?」
「はい。特に問題はないです」
「この症状は、ここに就職する前からあったんですか?」
「あったのかもしれませんが、普通に仕事も家事もできていましたし、検診でも病気ではないと言われていたので、自分では特に重大なこととは思っていなかったものですから」
 
上司としていろいろと確認しておかなくてはいけないことはわかるからこちらも答えないといけないけど、実際この5年間、症状がある時は身体がしんどかったことは言わなかった。症状を隠して就職したのかと訊かれて、まるで犯罪者みたいな扱いをされたくはなかったから。
 
私は悪いことは、何一つしていない。だから堂々と答えた。自分の身体を治すことが最優先だし、そのためには自分にとって有利な状況を作っておかなくてはいけないと本能的に考えていた。私の回復を邪魔することからは、何があっても守らなくてはいけない。たとえそれが職場の人間であっても、私の妨げになるのならそれは敵になるのだ。
 
 
 
腹腔鏡手術の日は、暮れに初めて医院の診察を受けてから5ヶ月経っていた。
前日から絶食になってくると「だんだん病人らしくなってきたかな」と思えるようになった。そのくらい、症状が出ていない時は普通だったから、病人という自覚もあまりなく過ごしてきた。手術室に向かう時も、普通に自分の足で歩いて行ったくらいだ。これから本当に手術する人なの? これから何が起きるのか、自分でもなんだか不思議な感覚だった。
 
手術室のライトはTVドラマでしか見たことがなかったけど、こうして実物を見上げるとすごく明るいものなんだなと思っていた。なんというか、手術に対してなんの恐れも持っていなかった。
 
「ではこれから始めます。10数えてくださいね。1、2、3、……」
 
麻酔をかける瞬間のこともよく覚えている。そして数え始めた瞬間から記憶がなくなったことも。そこからは真っ暗な闇の中に私は落ちて行った。
 
……。
 
「はい、終わりましたよ」
 
看護師が声をかけたと同時に私は目を覚ましていた。
 
(あ、終わったのか)
 
手術には3時間以上かかっていたというのに、まるで1分間くらいしか経っていなかったような、深い深い眠りだった。その間に全ては終わっていた。
 
(どこも、痛くない)
 
術後間もないのに痛みがほとんどない。開腹手術と違って腹腔鏡手術は身体の負担が軽いですよと医師に言われて、迷わずそれにしてくださいとお願いした。こんなにも楽だったとは。
夫は医師に呼ばれて、摘出した私の病理部分を見て説明を受けていた。それはなかなかにリアリスティックな光景だったと思うけど、自分ではそれを見ていないし、痛みもなかったから実感がない。けれど、私はこうして無事に手術から生還している。一連のことがまるで夢のような出来事だった。
 
(無事だったんだな)
 
そこからの回復は極めて順調で、術後の合併症もなく、きっかり6日で退院した。月曜日に入院して、翌週の月曜日からは普通に職場に戻った。
 
そしてあの手術から間もなく2年が経つ。
今は半年ごとの経過観察だが、そんなことがあったのかと思うくらい何事もなく過ごせている。振り返ると、すごくすごく主治医の腕が良かったのだと改めて思う。何事もなく過ごせていること、それは決して当たり前のことではない。いくつもの偶然が重なって、今、私はここにいる。
 
毎朝起きるたびに「今日も無事に目が覚めた」と思っている。世の中には、朝起きないでそのままあの世に召されてしまう人だっているのだから。あの手術を経験してからというもの、眠りから目が覚めることだって当たり前じゃないと思うようになった。眠って、起きる。そんな当たり前のことでも、生きている実感がある。また明日の朝もちゃんと起きられたら、私はそろそろと起き上がって生き生きと活動をするのだろう。何事もなく起きられる幸せを忘れることがないように、これからも目覚めていこう。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
青野まみこ(READING LIFE編集部公認ライター)

「客観的な文章が書けるようになりたくて」2019年8月天狼院書店ライティング・ゼミに参加、2020年3月同ライターズ倶楽部参加。同年9月READING LIFE編集部公認ライター。

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2021-05-24 | Posted in 週刊READING LIFE vol.129

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