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週刊READING LIFE vol.21

その子を産むべきか、産まざるべきか?《週刊 READING LIFE vol.21「文系VS理系!」》


相澤綾子(READING LIFE 編集部ライターズ倶楽部)
 
 
※この話はフィクションです。
 
 
私は8階のベランダの手すりから下を見下ろした。9月も下旬になり、夜の風は少し肌寒いくらいに感じる。
もっと身を乗り出すべきだろうか。サンダルを脱ぎ、柵の下に足を乗せ、腕で手すりをつかんで前のめりになれば。あと少し思い切れば、この状況から解放される。
自転車に乗った女子高生二人が、明るい笑い声をあげながら走り抜けていく。私にもあんな時があった。33歳になって、こんなに苦しいことが待っているなんて想像していなかった。この3週間のうちに決めなければいけないことのあまりの大きさに、逃げ出したくなっていた
死ぬ前にもう少しだけ考えよう、と思い直して、私は手すりを降り、サンダルを履いて、部屋の中に戻った。明日には夫も海外出張から戻ってくる。

 
 
 

2週間前、私は妊娠4カ月を迎えた。前回の検診の時には、赤ちゃんは片足を自転車をこぐように必死に動かしていた。それは既にもう一人のヒトだった。彼または彼女は、私でも夫でもない、別の人間なのだということを理解した。
また今日もそんな姿を見られるのではないかと期待しつつ、私は診察室に入った。
先生はいつものようにエコーを見始めた。ただ、それがいつもよりもずっと長く続いた。私のおなかに当てたエコーの機械を色んな角度に動かし、黙ったまま画面を見つめていた。ようやく先生が口を開いた。
「他の病院で詳しい検査を受けた方が良いですね」
「えっ?」
やっと出した声は、かすれていて、ほとんど音にならなかった。
「胎児の首のうしろにむくみがあります。6.3ミリですね。こういう時は内臓疾患や染色体異常の可能性があります。6.3ミリだと、3分の1くらいの確率ですかね」
そんなことは、妊娠関係の本のどこにも書かれていなかった。私の勉強不足だろうか。
「染色体異常って分かりますか?」
「ダウン症とか、ですよね」
反射的に言葉が出ていた。目の吊り上がった、笑顔が特徴的な顔をぼんやりと思い浮かべる。
「そうです。そういう子が生まれるかもしれません。あとで『知らなかった』と言われたら困りますから、お伝えしました」
先生は口早にそう言うと、くるりと椅子の向きを変えて、机に向かった。
「A病院宛で紹介状を書いておきますからね。まず検査してもらってください」
何か言おうと思ったけれど、口の中がからからに乾いて何も言うことができなかった。先生は夫を呼び出し、同じような説明をした。その後で、助産師が声をかけてきた。
「大丈夫だったら、また戻って来られますから」
私には、「ダメだったら、戻って来れませんから」という風にしか聞こえなかった。
待合室に先に戻っていた夫の椅子の隣に、母子手帳と紹介状の入った封筒を投げ出した。
「もうダメなんだ」
そう言うと、涙があふれてきた。

 
 
 

先生の話はよく分からなかったが、詳しいことはA病院で訊くようにというのが態度に出ていて、それ以上訊けなかった。A病院は平日しかやっていないので、予約を取るにも月曜まで待たなければいけない。私はスマホを取り出し、「胎児、首のうしろ、むくみ」と入力して検索した。膨大な量の結果がでてきた。どれも、それらしい内容が書かれているページだった。そこには私の全く知らなかった世界が広がっていた。
首のうしろのむくみはNTと呼ばれること、妊娠12週くらいの厚みが参考となり、それを過ぎると疑いのある子も徐々に小さくなっていくこと、厚みが大きければ大きいほど、染色体異常の疑いが大きくなり、同じ厚みでも年齢が高ければ、疑いが大きくなる。
しかし、そもそも日本でNTをきちんと測定できる医師は60名程度しかいないということだった。私がかかった産婦人科の医師は、その一人だとは思えなかった。もしそうだったとしたら、詳しく説明してくれたのではないか。
週明けにA病院の予約をした。最初は3週間先になると言われたが、細かな事情を話すとすぐに調整してくれて、3日後に私の予約を確保してくれた。
「これは心配することなんかありませんよ」
とA病院の先生に言ってもらえることを念じた。
一方で情報はできるだけ集めようと考えて、仕事帰りに図書館でダウン症関連の本を何冊か借りた。染色体異常といえば、一番可能性が高いのがダウン症だからだ。一通り読んだ後、ダウン症の女の子の子育てをしている家族の漫画を夫に渡した。夫は10日間の海外出張に行くことになっていた。その間に読んでもらうためだ。私は夫に尋ねた。
「どう考えているの?」
「検査して、駄目だったら、諦めるしかないんじゃないかな」
夫はちゃんと読んでくれるのだろうか。

 
 
 

A病院の医師は、私の年齢でNT6.3ミリから考えられる染色体異常の可能性は5%だと説明した。予約の時に「これは心配なんかすることありませんよ」と言われると念じたのに、あっさり望みは消えた。遺伝子カウンセラーを紹介され、今後私がどのような選択をすることができるかについて、教えてもらうことになった。
これから赤ちゃんの状況について調べるためには、ここ数年話題になっている新型出生前検査(NIPT)という血液検査、以前からある羊水検査の2つの方法があった。新型出生前検査は、母親の血液を採取して検査するもので、99.9%の精度で、胎児の染色体異常が分かるという。羊水検査の方は、100%の精度だが、羊水を採取するので、300分の1の確率で流産の可能性がある。
今の私には、新型出生前検査を受けて、陽性、つまり染色体異常だったら羊水検査を受ける、最初から羊水検査を受ける、どちらの検査も受けないという3つの選択肢があった。
もし陽性で、妊娠継続を諦める場合には、人工死産という方法を取る。人工的にラミナリアやバルーンで子宮口を広げ、薬で陣痛を起こし、出産するのだという。
カウンセラーは、いつでも電話していいと言ってくれた。

 
 
 

私は帰りの車を運転しながら、考えた。それぞれの数字が頭の中にくっきりと浮かんでいた。
赤ちゃんが染色体異常の可能性は5%。
新型出生前検査を受ければ、赤ちゃんに染色体異常があるか分かるが、精度は99.9%。
羊水検査は、100%の精度で分かるが、300分の1の確率で流産の可能性がある。
新型出生前検査を受けて、安心したい。5%の確率ということは、95%は大丈夫ということなのだ。検査して陰性なら、それでこの悩みからすっと解放されるはずだ。だから受けたい。それが一番の気持ちだった。
でも、もし陽性だったら? 羊水検査を受けることになる。そしてまた陽性だったら、間違いなく赤ちゃんに染色体異常があるということになる。そうしたら、私はどうすればよいのか。
どうして迷うのだろう。どうして不安になるのだろう。95%の確率で染色体異常はないと言われているのだから、何も不安になることはないじゃないか。新型出生前検査を受けて、安心すればいいじゃないか。なんだ、大丈夫だったね、と笑うことができる。
そう思うたびに、「でも、もし陽性だったら」という気持ちが沸き起こった。
その度に私は頭の中で、いや、95%の確率で染色体異常はないのだから、と言い聞かせようとした。その繰り返しだった。
そのうちに、私は気付いてしまった。こんなに不安になるのは、きっとおなかの中の子に染色体異常があるからなのだ。頭の中では分からなくても、私の身体がそれを知っているのだ。だから私の行動を止めようとしているのだ。私は赤ちゃんがおなかの中で片足を動かしていた姿を思い浮かべた。
何度も何度も往復しているうちに、95%という数字は、私にとって、全く意味を持たなくなった。結局、赤ちゃんが染色体異常かどうかは、ゼロかイチしかないのだ。
きっと大丈夫だからなんて考えていても意味がない。検査結果が出た後のことを考えるしかない。もし陽性だったら、私はどうすればよいのだろうか。人工死産を選ぶのか。
私は人工死産についてネットで検索した。前期破水や胎児水腫、無脳症などにより、人工死産を選ばざるを得なかった人たちの体験談を紹介するページを見つけた。その中には、染色体異常も含まれていた。
誰もが苦しい決断をしていた。子どもができた喜びから、妊娠中の様々なトラブル、見つかった胎児の異常。病院で今後、胎児がどうなっていくかを説明され、家族と話し合い、人工死産を選ぶしかないと結論づけた様子がつづられていた。
一つ一つの体験談を読みながら、ただ泣くことしかできなかった。つわりで水分をとるのもやっとだったのに、よくこんなに身体の中に水分が入っていると驚くくらい、たくさん涙が出てきた。
どの人も、そうするしかなかったのだろうな、私でも同じ選択をしただろうなと思うようなものばかりだった。ラミナリアで子宮口を広げる痛みに耐え、陣痛の痛みに耐え、生まれてきた子どもに対面する。既に亡くなっていることもあれば、まだ息をしていて、それが消えていくのを見守らなければいけないこともある。そうするしかなかったと書いている人もいれば、他の道があったのではないかと後悔の念にさいなまれている人もいた。ひょっとするとその気持ちはこの体験談を書いた瞬間を切り取っただけのもので、本当はその後も心が揺れることもあるのかもしれない。誰もが悲しみと苦しみでいっぱいだった。
絞り出されるように書かれたそういう気持ちは、生々しく伝わってきた。私は耐えられるのだろうか。
私は今の時点では、検査を受けずにそのまま妊娠を継続するという選択も十分に可能だった。こんなつらい選択をしなければいけないのなら、検査しないまま妊娠を継続した方がいいのではないかと思った。検査を受け、子どもを迎える準備につなげるという選択肢もあった。でも、私はその勇気もなかった。
私は結婚してから子どもができるまで、6年かかった。もしどうせ産めない子なら、早く諦めて、新しい子どもができるチャンスを早く作るべきなのではないか、そんな考えも頭の中をよぎった。
毎朝、目を覚ますと、つわりの気持ち悪さとともに、自分の置かれた状況に気付いて、すぐに涙が出てきた。どんなに考えても、新型出生前検査を受けて安心したい、という気持ちが一番に出てきた。考え始めると、すぐにもし陽性だったら、という不安が押し寄せてきて、堂々巡りだった。ここ2週間、そんな堂々巡りを毎日繰り返してきた。

 
 
 

私はベランダから部屋に入ると、既に暗くなっていた部屋に明かりをつけ、テーブルの上にノートと筆箱を出した。
私は、検査を受けるか受けないか、検査して陽性か陰性か、陽性で人工死産をするか、しないか、全てのパターンを書き出した。そして、自分がその時どんな気持ちになるか、どんな風に考えるかを書いた。
例えば、検査をして陰性だと判明したところには、不安が解消されて嬉しい、と書いた。検査をして陽性で、人工死産を選んだところには、悲しみ・自責の念、と書いた。検査をしないで、妊娠を継続して、陽性だった時には、育てるのが大変、検査をしなかったことを後悔するかもしれないと書いた。それぞれの状況を想像していると、また涙が出てきた。でも気持ちは不思議と落ち着いてきた。そして、なんとなく、自分が後悔しない選択は、これなんじゃないだろうかというものが見つかった。
明日夫が帰ってきたら、これを見せようと思った。あとは、夫が同じ気持ちになってくれればいい。

 
 
 

帰ってきた夫は、私が書いた表を見て、自分も同じようなことをやってみたいと考えていたと言った。夫と私の違ったところは、彼の方が、羊水検査で300分の1の確率で、流産する可能性があることを大きく考えていた。「それだけは絶対に避けたい」と言っていた。
そして私たちは、検査をせず、妊娠を継続する道を選んだ。でもこれはあくまでも私たちの選択であって、それぞれの夫婦に、それぞれの選択があるのだと思う。こんな風に自分の人生そのものに関わることを考えなければいけない時に、数字のデータとかはあまり役に立たないんじゃないか。自分たちがどう感じるのかを徹底的に掘り下げて、そこから結論が導かれるのかもしれない。
半年後、私たちの子どもが産まれた。彼はダウン症だった。彼には申し訳ないけれど、やっぱり悲しくて泣いた。でも後悔はしていない。彼は生まれる前からずっと、今も毎日、私たちに色んなことを教えてくれている。

 
 
 

❏ライタープロフィール
相澤綾子(Ayako Aizawa)
READING LIFE編集部ライターズ倶楽部。1976年千葉県市原市生まれ。地方公務員。3児の母。
2017年8月に受講を開始した天狼院ライティングゼミをきっかけにライターを目指す。

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2019-02-25 | Posted in 週刊READING LIFE vol.21

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