週刊READING LIFE vol.2

「働き方」×「改革」=「働きやすさ」となるには《週刊READING LIFE vol.2「私の働き方改革」》


記事:濱田 綾(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

「お母さんは、大きくなったら何になるの?」
きらきらした澄んだ瞳で息子が尋ねる。
その澄み具合に、何とも言えない気持ちになる。
「お母さんは、もう大人だからなぁ」
苦し紛れのごまかしが、ズドンと心の中に落ちた。

いつからだろう。
自分は何を大事にしているのか。
何のために働いているのか。
そんなことも考えないまま、日々を必死にこなしていた。

我が家は、都市部に多いといわれる、典型的な共働きの核家族だ。

すべては、朝から始まる。
何度迎えても、戦場のようなあわただしさ。
時計を見るたびに焦るが、何とか自分を落ち着かせる。
必死の思いで、保育園の送迎や見送りまで漕ぎつき、満員電車に駆け込む。
時間ギリギリだ。
この数年間で、どんなに混んでいても、何とか乗り込むという技だけは身に着けた。
絶妙なバランスで重なり合っている、ぎゅうぎゅう詰めの電車の中。
散らかったままのリビングが気にかかりながらも、頭の中を仕事モードに切り替える。

そして何とか息を整え、職場に着く。
少しでも追いつこうと、昨日残した仕事に取り掛かる。
それでも、あっという間に始業時間はやってくる。
ああ、また持ち越してしまった。
後悔しながらも、そんなことは言ってはいられない。
午前中のあわただしさも手伝って、あっという間にお昼の時間を迎える。
まずいな。夕方までに仕事終わるかな。
残りの仕事の分量と時計とを見比べて、考える。
まずい。

昼休憩もそこそこに、そっと残りの仕事に取り掛かる。
そう。そうっと。
すみっこで、見つからないように注意していたつもりだった。
でも、なんでこんな時だけは見つかるんだろう。
後ろから声をかけられ、ぎくっと背中が反応する。
「休むのも仕事のうち。しっかり休みなさい」
「子育てする人が、働きやすい職場を目指しているんだから。休憩時間には働かない」
上司に釘を刺され、しぶしぶと休憩室に戻る。
言われることは、いつも正しい。
でも、保育園のお迎えに間に合わせるには、休憩なんてゆっくり取っている場合じゃない。
そんなこと言うなら、業務量も少なくなるようなシステムになればいいのに。
そもそも「働きやすさ」ってどういうことなのか。
システムや体裁を整えただけで「働きやすさ」は存在するのか。
そんな風に自分を正当化していた。

午後からも、時計の針の音に追い立てられるように過ごす。
とにかく迎えの時間までに、間に合わせなくては。
この時間帯の私は、きっと鬼気迫るような恐ろしい顔をしているんだと思う。
とにかく、とにかく。この時間までには!
そうしてタイムリミットを迎え、職場を後にする。
仕事が終わったわけではなく、リミットを迎えてしまったのだ。
「すいません。お先に失礼します。すいません」
何となく後味が悪いようで、人目を気にして。
何に謝っているのか分からなかったけれど、すいませんを連発する。

「はぁー今日も終わった」
はぁーとかふーとか、言葉にならない息遣いが、つい漏れ出てしまう。
家への帰り道では、どっと疲れが押し寄せる。
子供の顔を見て、触れ合いを大事にするなんて、そんな理想には程遠く。
一緒に歩いていても、頭では夕飯のメニューを考えている。
家に帰って。あれをして、これもしなきゃ。
そうして、少しのことにもイライラしてしまう。

「お母さんはね。お仕事してきたの! 疲れてるの。だからちょっと静かにしてよ」

今日の出来事を話そうとする息子に、つい当たってしまう。
そして、言ってしまった後に後悔するのだ。

私は何をしているんだろう。
何のために働いているんだろうか。
そもそも子供を育てながら、働くということ自体が難しいのか。
いや、見方を変えれば、保育園にも入れて、職場に復帰もできている。
そうだ。恵まれているのか。
それこそ、贅沢な悩みなのか。
自分で決めたことなんだから、しっかりしないと。
そんな理屈ではない想いが、ふつふつと頭の中に浮かんでくる。
子供の寝顔をなでながら、どうしようもなく泣けてくる夜も少なくなかった。

そんな日々を過ごしていた時だった。
息子が肺炎になってしまった。
最初は軽症で、飲み薬で何とかしていたものの、もう限界。
高熱が下がらなくなってしまった。
入院しないと厳しい状況だという。

「どうしよう」
「どうしたらいい? 仕事休める?」
そんな時でさえ、頭に浮かんだのは仕事のことだった。
いや、仕事そのものへの想いじゃなかった。
ただ、休むということを伝えることへの恐怖。
自分がどう思われるのかということへの恐怖だった。

こんな時でさえ。
息子が目の前で苦しんでいるときでさえ、自分のことを考えている。
そんな自分が心底嫌になった。
それでも、具合が良くなるまで休みが欲しいと言いきれなかった。
「この状況では、休ませられない」
その一言を聞いてから、怖くて、それ以上は言えなかった。

結局、日中は看護師さんにお世話になっていた。
夕方になると仕事を切り上げ、駆け足で病室に向かう。
そして、病室の小さな子供用のベッドで、一緒に丸くなって眠る。
熱さを感じる頬をなでながら、どうしようもない気持ちに襲われる。
夜が明けて。まだ眠っている息子を横目にそっと抜け出し、職場に向かう。
そんな、無理やりの日々を選択してしまった。
それでも職員の方々のおかげで、症状は良くなり、何とか退院の日を迎えた。

久しぶりに戻った我が家。
何気なく息子が言った。

「お母さん、またお仕事なの? また行っちゃう?」
「お母さんは、お仕事して大きくなったら何になるの?」

突っかえていたものが苦しくて、涙として溢れそうになった。
そしてつい、ごまかした。
「お母さんは、もう大人だからなぁ」
まっすぐな瞳にこたえられない自分が、悔しくて苦しくて、仕方がなかった。

このままでいいのか。
そもそも、私は何のために働いてきたのか。
生活のため? 自分のため? 職場のため?
そんなことを考えることすら、忘れていた。
働き始めた頃にはあった、期待や目標。
いつの間にか忙しさに流され、お給料や休日をモチベーションにする日々。
それでも子供を育てながら、働ける場所もある。
だけど、この苦しさと自分への悔しさは何だろう。

忙しい。業務量が多い。定時に帰れない。
でも、お迎えの時間は待ってはくれない。
職場では子育てをしながら、働く人が少ない。
なかなか休みも言い出せない。
有給は山ほどあるのに、いつ使ったのかも思い出せない。
そんな環境はきついよ。しょうがないよ。
色んな思いが頭の中をめぐる。
でも、ふと気づく。
これ、言い訳だ。
そう、全部。
自分を納得させる言い訳だ。

結局、私には「自分が働くことを選んでいる」という覚悟がなかったのだ。
まるで、自分だけが何かを背負っているように。
自分主体で、そして受け身の姿勢でしかなかった。
システムさえ変われば「働きやすさ」は変わると、誰かや環境のせいにしていた。
「働く」ということは、自分にとってはどういうことなのか。
今の自分は、何を大事にしたいのか。
これからは、何を大事にしていきたいのか。
その一番大事な、自分の軸を持っていなかったのだ。
そして、自分の環境は、自分で選んでいるという覚悟がなかった。
だから自分だけがと悲観的になり、余裕もなく、こなすだけの日々を過ごす。
そんな状況を作ったのは、私自身だったんだ。

職場には、様々な人がいて、それぞれ事情や抱えるものの違いがある。
それぞれにとっての「働きやすさ」とは何なのか。
単なる制度やシステムだけでは、かたち作られていかないだろう。
与えられたものをただ受け入れるだけではなく、自分事として主体性を持つ事。
自分の環境は、自分で選んでいるんだという認識を、覚悟を持つこと。
無関心でもなく、傍観でもなく。都合のよい解釈でもなく。
そう、自分の働き方、自分の人生への責任は自分にあるんだ。

そして、そもそも「働きやすさ」は誰のためのものなんだろう。

今、働いている世代のためなのか。
会社の、組織のためなのか。
様々な背景で、働きたくても働けない方のためなのか。
それとも会社が根付いている地域のためなのか。
ビジネスの先にいる人たちのためなのか。

私には、大事にしたい一つの答えがある。
それは、子供たちにとってだ。
もちろん、自分の子供にとってという意味もあるけれど。
もっと広い意味の、未来への可能性を秘めた子供たちにとって。
「働きやすさ」という言葉がわざわざ出てこないほど、当たり前となっている。
そんな社会であってほしいと願わずにはいられない。

悶々と考えていたあの頃。
言い訳ばかりしている、覚悟のない自分がいた。
でも澄んだ瞳に映る未来には、明るい光も伴っていてほしい。

仕事は、働くことは、確かに色んな苦しさもある。
いいことばかりじゃない。
いや、苦しいことや悩むことのほうが多いかもしれない。
でも、その中で少し報われる。
少しばかり、楽しさや、やりがいが見つかる。
その思いが忘れられずに、また続ける。
その繰り返しで。
でも、そんな風に過ごしていくことは、悪くないよ。
子供のままじゃなくて、大人になるのも悪くないよ。
そんな風に思ってもらえる、身近な大人でいたい。
そんな風に思える社会をつなげていきたい。
それは、今の私たち大人の宿題のようなものだと思う。

「働きやすさ」を求めて改革を語る前に、必要なことがある。
言葉だけが、システムだけが、一人歩きしないために必要なことがある。

それは、自分の意識を見直して、覚悟を持つこと。
受け身の姿勢ではなく、自分事として主体的に捉えること。
誰のための、何のための「働きやすさ」が必要なのかと立ち返ること。
そんな、当たり前とも思えることが「働きやすさ」を形作る一歩になるのではないか。

「お母さんはね。大人になるのも悪くないって思えるような、かっこいい大人になるよ」

相変わらず澄んだ瞳の息子に答えながら、そう思った。

❏ライタープロフィール
濱田 綾
福井県生まれ。国立工業高等専門学校 電子制御工学科卒業。在学中に看護師を志すも、ひょんなご縁から、卒業後は女性自衛官となる。イメージ通り、顔も体も泥まみれの青春時代。それでも看護師の道が諦めきれず、何とか入試をクリアして、看護学生に。国家試験も何とかパスして、銃を注射に持ち代え白衣の戦士となる。総合病院に10年勤務。主に呼吸器・消化器内科、訪問看護に従事。プライベートでは、男子3兄弟の母で日々格闘中。
今年度より池袋にほど近い、内科クリニックで勤務している。クリニック開業前から携わり、看護師業務の枠を超えて、様々な仕事に取り組む。そんな中で、ブログやホームページの文章を書く、言葉で想いを伝えるということの難しさを実感する。上司の勧めから「ライティング・ゼミ」を知り、2018年6月に平日コースを受講。「文章は人を表す」は、ゼミを受ける中で一番強く感じたこと。上っ面だけではない、想いを載せた文章を綴りたい。そんな歩み方していきたいと思い、9月より「ライターズ倶楽部」に参加中。

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2018-10-15 | Posted in 週刊READING LIFE vol.2

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