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2020に伝えたい1964

聖火を運んで来たのは、金栗四三さんだった《2020に伝えたい1964~Epilogue②~》


2022/01/24/公開
記事:山田将治(READING LIFE公認ライター)
 
 
「山田さん、三宅義信さんですよ。天国からも観えますか?」
2021年7月23日、テレビで放映されている第32回近代オリンピック東京大会開会式の映像を観ながら、思わず私は、天国へ召された恩人に向かってそう叫んでいた。
 
 
今回の東京オリンピックを前に、本来ならこの開会式を観て頂きたかった多くの方々が天国へ召されてしまっていた。
特に、1964年に開催された前回の東京オリンピックのメダリストの方々、例えば、金メダルを獲得した女子バレーボールチームの主将・河西昌枝さんや、男子体操で圧倒的な試技を見せ、個人総合を始めとする3個の金メダルを獲得した遠藤幸雄さんがお亡くなりに為ったのは、残念でならない。
何故なら、聖火の最終ランナーはメダリスト、それも多くが金メダリストと相場が決まっているからだ。私は密かに、河西さんか遠藤さんが、東京オリンピックのレジェンド金メダリストとして、今回の聖火最終ランナーを務めるのではないかと願っていたからだ。
 
他にも、是非共二度目の東京オリンピックに御運び頂きたかった、『東京の名花』と称されたチェコスロバキア(当時の)のベラ・チャスラフスカさんや、日本の柔道界に唯一人立ち向かったオランダのアントン・ヘーシンクさんも、残念なことに2020年を前にお亡くなりに為られた。
それと、1964年の東京オリンピックの際に、堂々と聖火台に点火した坂井義則さんも、既に天国へ旅立たれていた。
 
そしてもう一人、何が有っても東京オリンピックを御覧に為られる様願った方が居る。
その方は、私にとって一方的な恩人でもあった。
 
 
私の恩人とは、同姓だったが親戚の伯父さんではない。
夏季オリンピックの際に、いつも金色のハットと白の羽織姿で、両手に日の丸をあしらった扇子を持ち、何処の国の選手に対しても公平に応援していた名物オジサンといえば、どなたも一度は目にした記憶があることだろう。
『オリンピックおじさん』のニックネームを持つこの方は、御名前を山田直稔(やまだなおとし)さんという。
東京・江東区でワイヤーロープを扱う本業の他に、ホテルや不動産という手広く事業をされていた方だ。
同じ江東区で生まれ育ち、前回・1964年の東京オリンピックを体験した私は、20年程前、地元・商工会関係の会合で山田直稔さんと直接会話させて頂く機会に恵まれた。交換させて頂いた名刺には、金文字で『国際オリンピック応援団長』の肩書が付けられていた。
私はその際、
「あの山田さんですか? 私も山田と申します」
と、挨拶した。
そして暫しの間、山田直稔さんから1964年の東京オリンピックの想い出話を伺うことが出来た。如何にも豪快な中小企業主といった感じの山田さんは、私のオリンピック好きを感じ取られると、
「もう一度、東京で聖火を見たいものだ」
と、感慨深げに仰った。私は、
「間違いなく、もう一度来ますから、御身体を大切に長生きして下さい」
と、当時70代半ばだった山田さんに申し出た。さらに、
「それ(もう一度、東京オリンピックが開催される)以降は、『オリンピック好きの山田』を引き継ぎます」
と、約束した。山田直稔さんは、嬉しそうに、
「それなら安心だ。宜しくお願いしますよ」
と、私の手を取りながら仰って下さった。
残念なことに山田直稔さんは、本来の東京オリンピック開幕まで後1年と為った2019年3月、私に想いを託すかの様に息を引き取られた。
92年の大往生だった。
当初の約束よりも早く、私は『オリンピック好きの山田』を引き継ぐことに為った。
これは余談だが、こうしてオリンピックに関する連載を続けることが出来たのも、山田直稔さんへの恩返しの現れかもしれない。
 
 
御案内の通り流行り病での一年延期や、次々と出て来る不祥事で、“TOKYO2020”は、開催前から今一つ盛り上がりに欠けていた。聖火の最終ランナーも、最後まで発表されることは無かった。
私は思わず、
「こんな失態を見せたら、さぞかし山田直稔さんは怒られるだろうなぁ」
と、想像していた。
 
オリンピック史上初めて一年の延期を経て、2021年7月23日に新装なった国立競技場に聖火がやって来た。
真夏の開催となった今回の東京オリンピックでは、開会式が夜間に行われることに為った。年端の行かない子供は最後まで観ることが出来ず、後日、録画で観直すことと為っただろう。誠に不粋なことだ。
私があれ程願っていた、古関裕而さんの『東京オリンピック・マーチ』も、選手入場では流れることが無かった。
 
やや興冷めし始めた私は次の瞬間、眼を見開いた。
それは、オリンピック旗入場役の先頭に、小柄な老人を見付けたからだ。
その方は、1964年の東京オリンピックで地元日本に最初の金メダルとその後のモメンタムをもたらした、ウエイトリフティングの三宅義信さんだった。
冒頭のセリフは、三宅さんの御姿を見付けた私が、思わず呟いたものだ。
 
私は一つでも、山田さんに良い報告が出来たことで安心した。
 
 
翌7月24日の午前0時少し前、何だか知り切れトンボみたいなオリンピック開会式中継が終了した。
完全に感情の消化不良に陥った私は、昼間に撮り貯めて置いた映像を観直し始めた。その映像は、聖火が日本の各地をリレーされ、開催地の東京都庁前に到着した時のものだ。
今回の聖火リレーは、希望する有名人が担っていた。勿論、中にはアスリートとは言い切れない方も居たが、それでも何らかの形でスポーツと関りがある方達だった。
 
7月23日正午、小池百合子東京都知事を始めとする面々が待ちわびる中、聖火は、東京都庁前の特設ステージに到着した。都庁へ最後に運んで来たのは、歌舞伎役者の中村勘九郎さんだった。
勘九郎さんは、髪を丸坊主にし、やや古めかしいウエアに足袋に近い様なシューズで聖火を運んで来た。
聖火台に点火し、笑顔で小池都知事と挨拶した。実に和やかな光景だった。
 
中村勘九郎さんは、今回の東京オリンピック開催に合わせて製作された、NHKの大河ドラマ『いだてん』で、主人公の金栗四三(かなくりしそう)さんを演じられた。多分、その縁で都庁へ聖火を運ぶ大役を任されたのだろう。
金栗さんといえば、日本初のオリンピアンだ。種目がマラソンだったことは、皆さん御存知のことだろう。
 
私はふと思い付いて、映像をリバースしてみた。中村勘九郎さんの姿を再確認する為だ。
改めて観ると、勘九郎さんの古めかしい衣装は、大河ドラマ『いだてん』の中で、金栗四三さんを演じた際に身に付けていたものだった。そうでなければ、足袋屋さんが特注で作ってくれたランニング用の足袋、通称『金栗シューズ』を履いてくることは無かった筈だ。
 
私は勝手に、中村勘九郎さんが、前回1964年の東京オリンピックの際に、聖火ランナーを務めることが無かった金栗四三さんを、聖火の最終ランナーにしたかったのではと感じた。
私は、中村勘九郎さんの想いを大切にしたいと考えた。
 
 
生前、山田直稔さんは、存命中だった金栗四三さんと御逢いに為ったことが有ると仰っていた。
 
私は心の中で、
「今回の聖火最終ランナーは、金栗四三さんでしたよ」
と、山田直稔さんに報告した。
 
もう一つ、恩返しが出来た気分に為った。
 
 
 
 

❏ライタープロフィール
山田将治(Shoji Thx Yamada)(READING LIFE公認ライター)

1959年生まれ 東京生まれ東京育ち
5歳の時に前回の東京オリンピックを体験し、全ての記憶の始まりとなってしまった男。東京の外では全く生活をしたことがない。前回のオリンピックの影響が計り知れなく、開会式の21年後に結婚式を挙げてしまったほど。挙句の果ては、買い替えた車のナンバーをオリンピックプレートにし、かつ、10-10を指定番号にして取得。直近の引っ越しでは、当時のマラソンコースに近いという理由だけで調布市の甲州街道沿いに決めてしまった。

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2022-01-19 | Posted in 2020に伝えたい1964

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