週刊READING LIFE vol.86

厚さ1ミリ、大人の教養本《週刊READING LIFE Vol,86 大人の教養》


記事:井村ゆうこ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
小学1年生の娘は、我が家でいちばんの読書家だ。
朝、布団から抜け出すと、本棚から読みかけの本を取り出し、パジャマ姿のままページを開く。顔を洗って着替えなさいと促しても、なかなか本から顔を上げようとしない。
夜、眠りにつく直前までこの調子で、暇さえあれば本を読んでいる。
本さえあれば、ご機嫌で過ごしてくれるのだから、ひとりっ子を育てる母としては、ありがたい限りだ。
そんな娘の本の読み方に、最近変化が現れた。
「ママ、知ってる? 万里の長城の長さは何キロメートルでしょうか?」
開いたページを隠すように胸にあてた娘が、私にクイズを出してくる。
「えーと、わからないな。ヒントちょうだい、ヒント」
白旗を上げる母の元に駆けよった娘が、本を目の前に広げる。
娘の指が、『8000、1万、2万』という3択の答えをなぞる。
「うーん、1万キロメートルかな?」
「ブー。2万キロメートルでした」
万里の長城とは、そんなに長いのか。写真でしか見たことのない世界遺産の姿を頭に描きながら、目がクイズの下の解説を追う。遠い昔に習ったはずの、薄れ、消えかけていた知識が新たに上書きされていく。
「明日はね、アテネのアクロポリスについてクイズ出すからね」
宿題を言い渡す教師のような口調で娘が宣言し、本を閉じた。
表紙には『小学生なら知っておきたい教養 366』と書かれていた。
 
教育学者の齋藤孝先生が著者であるこの本は、1日1ページを366日読み進めることによって、一生ものの知性を養おうという狙いを持っている。
扱われているのは、言葉、文学、世界、歴史、文化、芸術、自然と科学という7つのジャンルで、その中から毎週1つ、テーマが設定されている。366日かけて52のテーマを網羅できる計算だ。
もくじには、学校の教科書とはひと味違った切り口のテーマが並んでいる。
例えば、言葉のジャンルからは「声に出して読みたい落語」、文学のジャンルからは「世界のこわい話」、歴史のジャンルからは「世紀の大恋愛」といった具合だ。
 
小学生になったばかりの娘の本棚にこの本を置いたのは、母である私だ。理由は2つある。
ひとつ目は、「知る」よろこびを、今のうちから体感して欲しかったからだ。
娘はこれから小学校、中学校、高校と長い時間をかけて、多くの知識を猛スピードで獲得していく。
学年が進めば進むほど、苦手な教科や、おもしろいと感じられない勉強も増えていくに違いない。
自分の好きな本だけを朝から晩まで読んでいればいい「読書家」だけではいられないことに気づいていくはずだ。
そんなとき、難しいと感じるもの、苦手だと感じるものから完全に目を背けるのではなく、どうにかこうにか付き合う方法を自分で探して欲しいと思う。
世界史に登場する、長い横文字の単語に拒否反応を示したとき、「かわいい民族衣装」という視点から「世界」を見たことを思い出して欲しい。
理科室で、どうしてこの実験をする必要性があるのかと疑問に思ったとき、「生きもののふしぎ」に驚きの声を上げた自分を振り返って欲しい。
何かを「知る」よろこびが、こころと脳と体の中に残っていれば、子どもは「知る」チャンスをみすみす逃すようなことをしないはずだと、私は信じたい。
 
ふたつ目は、知識を無駄にしない力を身につけて欲しかったからだ。
『小学生なら知っておきたい教養 366』のまえがきに、こうある。
 
“この本は「勉強」の本じゃないよ。
「教養」の本なんだ。
教養っていうのは、勉強で得た知識をいかす力のこと。
「猿も木から落ちる」ということわざを知っていることは、「知識」だよね。
でも、ただ知っているだけでは宝のもちぐされ。
たとえば、とても足がはやくていつもかけっこでは1位のお友だちがいたとする。
その子が運動会で転んでしまった時、「失敗することはだれにでもあるよ。“猿も木から落ちる”というし、
気にすることないよ」ってはげますことができるんだ。
そうしたら、そのとこわざはキミの「教養」になる。
教養があると、キミのいうことに説得力が出て、人生が豊かに、深くなっていくんだ”
 
書店でこのまえがきを読んだとき、私は自分の顔が熱くなるのを感じた。
子どものときからため込み続け、失くし続け、補充し続けている知識を、どれほど無駄にしているか痛感して、身がすくんだ。
と同時に、娘には同じ轍を踏ませたくないと痛切に感じた。
子どもにはできるだけたくさんの知識を身につけて欲しいと願う。だが、せっかく手にした知識をいかすことができなかったら、勉強に費やした時間が無駄になってしまう。
このことを知っているのは、大人だけだ。
自分の得た知識を、十分にいかすことができていないと身にしみて実感している、大人だけだ。
娘には勉強で得た知識を、いかす力を身につけて欲しい。深く、豊かな人生を歩んで欲しい。
大人になったとき、勉強した時間を無駄にしたと後悔して欲しくない。
私はそう願い、本を抱いてレジへ向かった。

 

 

 

娘が本を読み、クイズを出し、私が答える。それから、いっしょに本を開き答え合わせをする。
就寝前の数分間の習慣ができ上ってから、2ヶ月が経とうとしている。
娘が、得た知識を「教養」とできるほどに理解するまでには、まだまだ時間がかかるだろう。
新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言が開けて、通常の授業が開始されてまだ10日あまり。
クラス全員がやっとそろった教室で、ひらがなや10までの数字を勉強している娘にとって、「万里の長城」は「ばんりのちょうじょう」であり、「2万」は「2まん」であり、「教養」は「きょうよう」以外の何ものでもないだろう。
万里の長城が建設された理由も、世界遺産がなんたるかも、1万と2万の違いも、ちんぷんかんぷんに違いない。
勉強をはじめたばかりの小学1年生である今は、それでいいのだと思う。
「きょうよう」が「おしえる」「おそわる」「やしなう」という意味の漢字からでき上っていることを、いずれ理解し、自分の中に蓄積した知識を「きょうよう」から「教養」へと昇華し、活用するようになる日がきっと来るはずだ。
 
では、大人である私はどうだ。
クイズに答え、本に目を落とすたびに気づく。新たな知識を得ることは、それまで「その知識を知らなかった自分」を発見し認めることだと。
教育学者である齋藤先生が「小学生なら知っておきたい」とする教養の中には、私が全く知らなかったもの、浅い理解しかできていないものが、情けないほど多く含まれている。
その度に私は、知らずに過ごしてきた自分を見つけて少し落ち込む。
が、次の瞬間、これまでの人生で養ってきた経験が顔を出して、私を勇気づける。
 
「万里の長城が2万キロメートルであることは記憶にないが、万里の長城を建設したとされる秦の始皇帝が中国を統一したことは知っているし、1から10まで中国語で数を数えることもできるじゃないか!」
 
「オペラの『トゥーランドット』を作ったのがプッチーニだと答えられなくても、劇中で歌われる代表曲『誰も寝てはならぬ』に乗って氷の上を滑り、荒川静香選手が金メダルをとった瞬間を目撃しているではないか!」
 
勉強して得た知識をいかす力が「教養」ならば、知識の穴を埋める力が「経験」ではないだろうか。
子どもが、真っ白な画用紙に次々に「知識」という絵の具を塗って、「教養」とういう絵を完成させていくならば、大人は、「経験」というのりを使って「教養」というパズルを完成させていく。
 
大人が新たな知識を得るということは、自分のパズルに足りないピースがあることを知り、足りないピースを探し、埋めていく作業に思える。
すぐにピースは見つかることもあれば、しっくりくるピースが見つからないこともあるだろう。
そんなとき、ピースとピースをつなぐのが「経験」だ。
唯一大人が子どもに勝つことができる、この「経験」という武器が、のりのように広がって、知識の不足を埋めてくれる。
 
娘がせっせっと知識を吸収し、「きょうよう」を「教養」へと塗り替えているとなりで、大人の私ができることは、不格好な自分のパズルと向き合うことだけだ。「教養」が「きょうよう」へと逆回転しないように、こころと脳と体にピースを貼り付けていくことだけだ。
 
自分に足りないものがあることを知る。
大人の教養は、そこからしか出発できないのではないだろうか。
経験をうまいこと使い、足りない「教養」を補足していく。
大人の教養は、そうやって完成に向けて進んでいくしかないのだと思う。
そして、「教養」にはきっと、完成とか、終わりとかはないのだろう。
命が尽きるその瞬間まで、私たちは自分に「まだ知らないことがある」と、認めていくしかない。
 
『大人なら知っておきたい教養』という本を作るとするならば、果たしてページ数はいくつになるのだろうか。
366という数字では足りないかもしれない。
いや、もしかしたら、紙は1枚あればいいのかもしれない。
表紙を開いて現れるページの真ん中に、ひと言書き記してさえあれば、いいのかもしれない。
 
大人の諸君は、教養を自分で見つけ、つかまえ、付け足していくこと!
 
大人の教養本は、みんなが同じ内容を習う教科書とは違う。
大人の数だけ、それぞれの教養がある。
大人の数だけ、中身の違う、教養本があるに違いない。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
井村ゆう子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

転勤族の夫と共に、全国を渡り歩くこと、13年目。現在2回目の大阪生活満喫中。
育児と両立できる仕事を模索する中で、天狼院書店のライティングゼミを受講。
「書くこと」で人生を変えたいと、ライターズ俱楽部に挑戦中。
天狼院メディアグランプリ30th season総合優勝。
趣味は、未練たっぷりの短歌を詠むことと、甘さたっぷりのお菓子を作ること。

この記事は、「ライティング・ゼミ」を受講したスタッフが書いてます。 ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

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2020-07-06 | Posted in 週刊READING LIFE vol.86

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