第3章 たった一つ、お気に入りのカレーがあるとしたら《老舗料亭3代目が伝える50までに覚えておきたい味》
記事:ギール里映(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
カレー、お好きですか。
子どもが好きな3大メニューがカレー、ラーメン、スパゲティと言われ、すっかり国民食となったカレーは、ご存知でしょうけれども、もともと日本の食べ物ではありません。カレーとはインドの食べ物の総称のことで、インドには”カレー”という名前の料理は存在しませんが、インド人たちが食べていたスパイシーな料理全般が16世紀にインドを植民地としていたイギリスに伝わり、そこでカレーという名前が与えられました。そこから19世紀になって、イギリスから伝わったのが日本のカレーの始まりと言われています。しかしいまではカレーはすっかり日本の食卓の定番となり、お家で、外で、また学校給食などでも、どこででも日常的に食べるものになりました。
カレーと一言で言っても、思い浮かべるカレーの種類は人によって大きく異なります。
カレールーで作る我が家のカレーだったり、インド人が作る本格的な本場のカレーだったり、北海道のスープカレーだったり、はたまたドライカレーだったり、そのバリエーションは無限です。唯一の共通点といえばスパイスを使うということぐらいでしょうか。辛さもまちまちだし、質感も様々。とろっとしているのか、さらっとしているのか、はたまたどろっとしているのか、同じカレーと呼ぶには憚られるほどです。小麦粉が入っている日本風もあれば、ココナツミルクが入るタイ風もある。八角や山椒が入った中華風、バターがたっぷり入ったイギリス風と、全世界で実に様々なバリエーションが食べられています。
人生50歳にもなったらそろそろ、これが私のお気に入りというカレーがあってもいい。
それも家の外で食べるよそ行きのカレーと、家で食べる日常のカレー、そんな風にハレの日とケの日の食べかたを使い分けたい。今日はその2種類のカレーをご紹介します。
まずは外で食べるカレー、つまりよそ行きの、ちょっと特別なカレーです。
基本的に外で食べるものの基準はいつも、”自分で作れるレベルではないもの”と考えたい。
わざわざお金を払って食べるのですから、自分で作ることができるレベルのものか、それ以下のものだとあまりにももったいない。どうせ外で食べるなら、腕のいいシェフが丹精込めてつくる、思いっきりよそ行きの、自分の発想をはるかに超えたクオリティであってほしい。もちろん味も圧倒的に美味しいものがいいと思うのです。
そんなカレーが食べられるお店が、ロンドンにあります。
カレーの本場はインドなのでは、と思われるかもしれません。たしかにそれはそうで、本場のカレーはさすがに大変おいしいものだと思いますが、その観点から味わうのではなく、よそ行きの視点から考えたい。せっかくなのですからカレーに対する意識が変わるぐらいの体験をしてみてほしい。本格カレーを知ることも大事だけど、どうせ食べるならカレーの概念を打ち破るようなものがいい。眠っていた感覚を研ぎ澄ましてくれるほどのものがいい。本場インドにもたくさん美味しいお店があることは想像に難くないけれど、それらを差し置いてこの、ロンドンにあるインド料理店Dishoom(ディシューム)は、店の雰囲気、バックグラウンド、あり方、テイストなど、どれにおいても群を抜いています。私たちが一般に持つのカレーへの期待を良い方に思いっきり裏切り、オープンしてから何年もたった今でも、毎日店の前には行列ができています。飲食店に対してはあまり並ぶことをしないロンドンっ子すら並ばせるのですから、いかにこの店が人気なのかがわかります。
Dishoomは2010年、インド人の従兄弟同士であるシャミル・タクラー、カヴィ・タクラーにより、イギリスはロンドンの中心地であるコヴェントガーデンにオープンしました。二人はケニアとイギリス両方を故郷にもち、インドへは子ども時代に旅行で通っていたという、非常にクロスカルチュラルな環境で育ちました。二人がインドのムンバイに訪れたとき、そこで体験したイラン風(ペルシャ風)カフェをたいそう気にいり、その雰囲気をそのままロンドンに持ち帰りました。
植民地時代のインド、ムンバイにおける異国情緒あふれるペルシャ様式は、それまでどちらかというとカジュアルなインド料理の概念をくつがえし、エキゾチックでなんともいえない雰囲気に包まれています。Dishoomの店内にはレトロな文字の看板がディスプレイされ、インセンス(お香)の香りが漂い、植民地時代のオピウム貿易を彷彿とさせながらも、壁には「お茶にはオピウムは入っていません」と茶目っ気たっぷりなサインがかけてあります。
地下のウェイティングバーでは黒と白のモダンなタイル張りの床に、暗めの照明、色とりどりのタイルで装飾された壁面に囲まれ、植民地時代のキャバレーのような雰囲気をたたえています。これから案内されるであろうテーブルと食事への期待が高まります。予約はできますが基本的に限られた人数だけなので、たいてい小一時間は待つことになりますが、このウェイティングバーで過ごす時間は待つことのイライラを忘れさせるだけでなく、どっぷりと植民地時代の異国に吸い込まれ、これから起こるであろう至福の食体験に対する前戯のように、目から耳から、鼻から、イラン風インドを堪能させてくれます。
ようやく席にたどり着くと、新聞の1ページのように印刷されたメニューが手渡されます。薄いベージュの紙にブルーのサンセリフ系のフォントで美しくレイアウトされたメニューは、ただ読んでいるだけで気分が高揚してきます。
インドカレー店のカレーといえば、野菜、鶏肉、ラム肉などのカレーが数種類と、ナン、サフランライス、といったメニューを一般的に思い浮かべるでしょう。しかしDishoomのセレクションは、そういう既存のインド料理店のものとは180度異なり、一つ一つのメニューがなんとも色っぽいのです。
スターター(前菜)にはオクラのスパイシーフライ、カチュンバと呼ばれるフレッシュベジタブルのサラダに、キャベツやざくろが加わったオリジナルのコールスロー。メインは生姜やターメリックで下味をつけてマリネしたチキンのグリル、ディシュームチキンティッカ。
ブレックファストメニューの定番はスパイスをふんだんに使ったインド風おかゆ、ベーコンの入ったナン、そしてミルクたっぷりのチャイ。
一人でのんびり、本や新聞を読みながらの朝ごはんにしてもよし、友人とワイワイお酒を飲みながら、スパイスで何千通りにも表情を変える野菜やお肉の料理をつまむもよし。また愛する人とロマンティックな気持ちを最高に盛り上げるような濃厚なディナーもよし。
ここDishoomでは、料理と空間の力を借りて、自分の心を開放し、本当になりたい自分、在りたい自分になることができる場所なのかもしれません。美味しいものは私たちの欲望を、心の奥底から掻き出してくれます。鼻腔をくすぐるスパイスが、食べ物の力をますます増強してくれながら、私たちの奥底にある本能にまで香ってきます。なんとも不思議な異空間であるDishoomでのカレー体験は、まるで植民地時代のオピウムの如く、人を夢心地にさせ、その人生をいとも簡単に変える力があります。
Dishoomは現在ロンドン市内に5店舗、マンチェスター、エジンバラ、バーミンガムを合わせて8店舗あります。このためだけにイギリスに渡航する価値すら感じます。
どっぷりとよそ行きのカレーを堪能したら今度は、毎日でも食べたいほっこり家庭のカレーをご紹介したい。家ごとにその家のカレーがあり、それらの甲乙をつけることは到底できないことですので、それらは”家庭の味”としてひとまず横に置いておきますが、その家庭の味こそをメニューとして提供しているお店が東京にあります。
店の名前はnikko2(ニッコウスクエア)。東京は恵比寿にある小さなお店で、ランチのみ営業しています。
「おかんのカレーは世界一!」
当時57歳だった國友啓子さんは、女手ひとつで育てた一人息子に後押しされて、それまで32年間勤めていた会社を介護を理由に退職したあと、カレー屋を始めようと決心しました。飲食店勤務の経験もなければお店の厨房に立った経験もない。資金も起業の知識も何もないところで、ゼロからスタートされました。
息子からは絶賛されているものの、本当に自分のカレーが一般に通用するのか、全く自信がありません。そのため國友さんは自分のカレーをとにかく誰かに食べてもらおうと、とあるセミナーでカレーを配らせてください、と頼み込みました。
その申し出に驚いたセミナー主催者でしたが、結果はOK。カレーを食べたセミナー参加者は、その美味しさを絶賛し、どんどんとファンになっていきました。そこからコツコツと出向いては人に食べてもらう機会をつくり、地道に一人ずつ、ファンを増やして行きました。
こうして開店前には200人を超えるファンを作り出し、「カレーを作ってほしい」という要望に応えつつ、どうやったらお店を開店できるのかを模索する日々が続きました。
東京、それも都心となれば、家賃が高すぎて場所を借りることは難しい。一皿1000円ぐらいのメニューで家賃を払おうと思ったら、人が大勢来るところでなければ商売は難しい。そして人が大勢来るところの家賃は呆れるほどに高いのです。
またそれ以前に國友さんには、店舗経営の経験どころか、勤めた経験もありません。カレー屋をやるとなれば、カレーを作って販売するだけでなく、仕入れ、会計、接客など、様々な仕事があります。それらの経験が一つもないことが國友さんの大きなネックになっていました。
また経験を積むためにどこかのお店で働きたくとも、当時59歳という年齢では、どこも雇ってはくれません。そんなとき知り合いのつてでカレー屋をオープンした人を紹介してもらい、そこでアルバイトをすることができるようになりました。このアルバイトで國友さんは、カレー屋の運営に必要なノウハウを全て習得していったのでした。
しかしまだ問題は解決していません。
カレー屋をオープンさせるには物件が必要です。また物件だけでなく店の内装、備品購入なども発生しますから、膨大な費用がかかります。融資を受けるという選択もありましたが、都心のカレー屋で借金を返していくのは非常にリスクが高い。
もうどうにもならないという状況になったとき、とある出会いがありました。それは恵比寿で夜だけ営業のバーを運営しているオーナーとの出会いです。夜だけ開けているならば、昼間は誰も使っていないに違いない、と判断し、オーナーに自慢のカレーを持参し、昼間の時間だけお店を貸してくれないかと直談判したところ、結果はOK。こうして無事に店舗も手に入れ、いよいよ2013年、こだわりチキンカレーのお店ニッコウスクエアが誕生しました。
メニューはチキンカレーのみ。サイズがレギュラー、ビッグ、恵比寿盛りの3種類があるだけで、ガチでチキンカレーの一本勝負です。やれポークだ、やれビーフだとメニューを増やさないところに國友さんの決心ともとれる意気込みを感じます。
チキンカレーを選んだ理由は至極簡単で、「美味しいから」だそう。豚や牛と違って、チキンからは滲み出る旨味には格別なものがあります。旨味はあるけれども癖のない鳥の出汁が、カレーの基礎を固めています。
鳥の出汁とはいうものの、水は一滴も使っていません。素材に使っているのは野菜、果物と牛乳のみ。これらの水分だけで鶏肉がとろとろになるまで煮込んでいきます。圧力鍋で煮るため、たっぷりの玉ねぎと鶏肉が混じり合い、とろっとした食感に仕上がっています。
程よくスパイスが効いていて、辛すぎず、甘すぎないちょうど良い辛さ。一度食べるとまた食べたくなる、ほっとする”お母さんの味”が堪能できます。
カレー屋をオープンしようとしたとき、息子のように背中を押してくれる人もいれば、「いまから起業なんて大変だよ」「このまま定年まで働いたほうがいいよ」と、心配して言ってくれる人もいました。そりゃ60歳の一歩手前でやったこともない飲食店経営をスタートさせようというのですから、一般的な感覚であれば無茶だ、無謀だ、やめたほうがいい、になります。
そんな友人からのアドバイスもありがたく頂戴しながら、それでも國友さんが感じたことは、やっぱり自分の人生、最後まで楽しみたい、という思いでした。人はいくつになってもやりたいことをやることができる。無理だと思われることにでもチャレンジできる。國友さんの生き方そのものが、50歳を超える私たちに大きな気づきを与えてくれます。
人はなんのために生きているのでしょう。
この哲学的な質問に、歴代の学者、哲学者、宗教家が答えを与えようとしてきましたが、まだ納得できる答えは見つかっていません。しかし國友さんのカレーのなかに、なんだかその答えが隠れているような気がします。
息子という家族への愛と、自分の人生を楽しみ生ききりたいという熱い思いが、鶏肉や野菜などの素材とじっくり煮込まれ、それが人々を笑顔にします。それが生きることの醍醐味だと言わんばかりの、國友さん自慢のカレーです。
2013年にオープンしたニッコウスクエアは、残念なことに新型コロナウィルスの影響もあり、2020年9月いっぱいで閉店が決まってしまいました。しかし國友母さんの笑顔は消えることなく、また新たなチャレンジをしてくださるのではないかと期待してしまいます。
食は代々受け継いでいくもの。美味しさも、楽しさも、そしてそのスピリットも。
《第4章につづく》
□ライターズプロフィール
ギール里映(READING LIFE編集部公認ライター)
READINGLIFE編集部公認ライター、食べかた研究家。京都の老舗料亭3代目として生まれ、現在は東京でイギリス人の夫、息子と3人ぐらし。食べることが好き、が仕事になり、2015年にゼロから起業。現職は食べるトレーニングキッズアカデミー協会の代表を勤める。2019年には書籍「1日5分!子どもの能力を引き出す!最強の食事」、「子どもの才能を引き出す!2ステップレシピ」を出版。
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