こうして私は、SNSの日記をやめた《週刊READING LIFE vol.123「怒り・嫉妬・承認欲求」》
2021/04/12/公開
記事:リサ(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)
古いカセットテープを見つけた。
実家の大掃除をしていたら箪笥の引き出しからひょっこりと出てきた。
テープの表面に貼ったシールには、「1977年冬 5歳と3歳」とかかれている。
1977年といえば、私は当時5歳、弟は3歳。
どうやら、母親が、二人の成長の記録を残そうと録音したもののようだった。
カセットテープの再生機器がすでになく、ネットで、およそ3000円のものを買った。
数日後に届くとすぐ、テープをホルダーに差し込んで、再生ボタンを押してみた。
「ねえ、ママ見て! ねえ!」
すぐに、キンキンした甲高い声が聞こえた。
声の主は、私のよう。
キャンディキャンディの主題歌を、歌って、踊っているようだ。
しばらくすると、幼い声がした。近くに大きく聴こえる。様子からして、録音機のそばに、母に抱きかかえられた弟がいるのがわかった。
「うりゅとらの、ままが……」
弟は、ウルトラマンの主題歌を歌おうとしている。
そのときだ。
「ちがう、歌がちがうよ!」
再び、私の甲高い声がした。
どうやら、弟はウルトラマンの主題歌の歌詞の「母」を、「ママ」と覚えてしまったようだ。弟が歌いだそうと声を発するたびに、私が大声で制する。それが何度も繰り返され、しまいに、幼い声はぐずぐずと泣きだした。
そこで、ゴソゴソ音がしてテープは終わっていた。
この時の記憶は、まったくない。
しかし、この時の気持ちだけは、手にとるようにわかった。
ママ、アタシをもっとみて。
もっとほめて。
ママのおひざをとられたくない。
「おいで」ってだきしめて。
あれから何十年も生きてきた。
それなのに、5歳のあの頃と同じ感情が、今でも、ふっと顔をのぞかせることがある。
「綺麗な写真」
「かわいく撮れてる」
はじめてコメントをもらったのは、16,7年前のことだ。
当時、日本でのSNSは、フェイスブックよりも、ミクシィやグリーが主流だった。
形式はフェイスブックとさほど変わらない。
プロフィールを埋め、自分のページをつくる。写真や文章を掲載したり、友達申請をしあった仲間とメッセージのやりとりをしたりする機能がついていた。
私も、友達にすすめられたミクシィに登録。
見よう見まねで、桜の写真をとり、日記という欄に、自己紹介替わりの簡単なエッセイを書いた。
タイトルは「桜、上から見るか下から見るか」
結論は、「どこから見るかより誰とみるかだ」というような内容だった。
リアクションは、すぐにコメント欄に書き込まれた。
「いい文章ですねえ!」
「うんうんうなずきました」
今にして思えば、酔った勢いで書いた歯の浮いたような文体だった。しかし、書き込まれたそれらを読んだ瞬間、なんとも言いようのない嬉しさがこみあげてきた。
それは、子どもの頃にも経験があった。
ピアノの発表会――
たくさんの拍手をもらって、ペコリとおじぎをしたときのあのくすぐったさだ。
もちろんプロのピアニストのピアノのほうが上手いに決まっている。
しかし、発表会のステージは、そこにいるすべての人が盛大な拍手をする前提で、最初から座っている。
ミクシィの日記のコメント欄は、それに似ていた。
私は、「嬉しいコメントありがとうございます」と書き込んだ。
ふと気がつけば、毎晩、日記を更新していた。
近所の焼うどん屋のこと、一緒に暮らしている祖父母のこと……
まるで、学校から帰宅したての子どもの報告のように、今日はこんなことがあった、あんなことがあったと書き連ねた。
コメントをくれる友達は、母親のように受け止めてくれた。
「今日の日記は、ことさら面白いです」
「中身から人柄が伝わったよ。おじいさま、おばあさま思いなんだね」など。
半ば呆れながら感想を書いていた人もいるかもしれない。
しかし、文字だけだから、相手の表情はうかがい知れない。
私は、有頂天になった。
その頃、会社では、中堅に差し掛かり、褒められることなどすっかりなくなっていた。
10年もいれば、一通り、出来て当たり前だ。
むしろ、私が、部下をほめなくてはならない年齢になっていた。
どれだけ部下をほめても、もう上司はほめてくれなかった。
そんなことはわかっていたが、でも。
私は、成長できているのか? 私は、必要とされているのか? そのことを実感したくて、つい自分から上司に話しかける。
「さっきの、あれでいいですか?」
「おう、すごく良かったよ。ありがとう」という言葉を期待する。
しかし、現実は、
「いいに決まってるだろう、いちいち確認するな」
と一喝される。
ある脳科学者によると、人は生きている限り、成長し続けたいと思う生き物なのだそうだ。
成長の証としての「褒められる」「認められる」というのは、生きていることを実感する上でかかすことのできない状態だという。
いわば、その状態を、毎日のように味わえるのがミクシィの日記だった。
それに加えて、私は、あるとき気づいた。
私と似た感情が、実は、コメント欄に書き込みをする友達の中にもあることに。
ミクシィをはじめて数か月たつと、私は、日記などそっちのけで、コメントへの返信に時間をかけるようになっていた。
感想ひとつひとつに、お礼とねぎらいを添える。例えば「ありがとう。毎朝早いのにこんな時間まで起きていてくれて。ゆっくり休んでね」などだ。
それらには、嬉しかったことへの感謝はもちろんだが、無意識のうちに、次もコメントを書いてもらいたいと相手におもねる気持ちも入っていた。
その返信こそが、実はポイントだった。
私自身、友人の日記に感想を書き込んだとき、書き込んだ瞬間から、相手の返信を待っている自分がいた。
お礼のメッセージを受け取ると、なんともいえない嬉しさがあった。
つまり、コメントは、相手を喜ばせて感謝されることで、自分が、相手の役にたったのだという存在意義を確認する、ほかならぬ承認欲求だった。
褒められたい側も、褒める側も、どちらも「認められたい側」だったということだ。
ところが、数か月後、それほどまでにのめり込んでいたミクシィに、私はあっさり別れを告げることになる。
ある出来事がきっかけだった。
ミクシィには、本人について、友達が紹介文を書く欄がある。
私という人間がどんな人物なのか、友達は、印象を書きこむことができるのだ。
そもそも友達なのだから、おのずと褒めちぎった内容になる。
当然、本人にとっては、繰り返し読み返したくなるような気持ちのいい欄になる。
しかし、あるとき書き込まれた紹介文に、思考がとまった。
簡単にまとめると、私という人間は、優しそうにみえて冷たいところもある、つかみどころのない人だと書かれていた。
最初、自分の読解力が低いのかなと思った。
何度も読み返した。
しかし、どう読んでも、それ以上でもそれ以下でもない表現だった。
書き込んだ友達は、親しさのレベルでいくと、中の下くらいだった。
親友ではないが、ただの知り合いというわけでもない同年代の女性で、1,2度、数人で食事をした仲間の中の一人だった。
いったんは、しょうがないと思うことにした。
「優しそうに見えて冷たいところもある」というのは、まあ、誰でもそうだともいえる。
「冷たい」は「冷静」という意味かもしれない。
二人だけでゆっくり話したこともない相手だ。
気にせずに寝ようと、とパソコンを閉じた。
しかし、数分後には、また、ベッドから跳ね起きてパソコンを立ち上げていた。
再び、紹介文をクリックして読みかえした。
むろん、「冷たい」が「冷静」という意味であるわけがない。
なぜ、こんな紹介文をわざわざ書き込むのだろう。
いったい私が、何をどうしたときに、冷たいと感じたのだろう。
考えても、答えは出ない。
かといって、「ねえ、あの紹介文、どういう意味?」などとわざわざ尋ねるのも、はばかられる。
悶々とした気持ちのまま、しばらくやり過ごした。
そして、それまで一度も見たことのなかった彼女のページをおそるおそる見てみることにした。
私とそれほど親しくない彼女には、まったく別のコミュニティがあった。
彼女もまた、毎日のように日記を更新していた。
飼っているネコのこと、近所のラーメン屋のこと、兄弟のこと……
まるで自分のページを見ているかのような更新頻度だった。
ただ、試しにいくつか読んでいくうち、私は、なんともいたたまれない感覚になった。
本人の文章のままには掲載できないので少し変えて書くが、例えば、下記のような内容だ。
「超有能な後輩が、私にはなぜか相談してくる。この企画どうですかね? って、私に聞かれてもなあ……」
「弟の彼女がまた変わった。カナとカコ、今度も名前、呼び間違えそうだ。」
といった具合。
これを読んでどう感じるだろう。
超有能な後輩に一目置かれる自分。
モテる弟に、彼女を紹介されるほどに慕われている姉。
彼女の日記には、ところどころに、実に面倒くさい、遠まわしな自慢が入っていた。
そのことに居心地の悪さを感じながら、コメント欄に目をおとしてみた。
果たして、そこには、発表会の父母たちのたくさんの拍手が鳴り響いていた。
「さすが」とか、「おっしゃるとおり」といった承認に次ぐ、承認の言葉の連続だった。
ふと、私の中に意地の悪い感情が湧き上がってきた。
まだ書き込んでいなかった彼女の紹介文の欄に、カーソルをあわせる。
「1,2度会っただけのペラッペラの関係です。プチ自慢が上手です!」
一度はタイピングした。
しかし、ゆっくりとバックスペースで文字を消した。
私は、何をしているのだろう。
彼女は、人生において、かけがえのない相手では全くない。
それなのに、そういう相手に、何日も心をかき乱され続けている自分が情けなかった。
たぶん、彼女は、私の文章を読んで何かが気に食わなかったのだろう。
私が、彼女のことを気に食わないと思ったのと同じように――
そして、ようやく悟った。
友達は、承認欲求を満たす道具じゃないということに。
コメントの数で、生きている実感を味わおうとするなんて、どうかしていた。
その日、最後の日記に、感謝の言葉をつづって、私はミクシィを閉じた。
あれから、十数年がたった。
世の中は、以前にもまして、承認欲求を満たすことのできるさまざまなSNSであふれている。
この世に生まれてきたことを承認してもらいたい。
それは、おぎゃあと産声をあげ、抱きしめてもらおうと手を広げたあの瞬間から、生きている限り、手放すことのできない欲求なのかもしれない。
仮に、今いる職場や学校などの環境でそれが満たされなくても、さまざまなコミュニティを持つことのできるSNSは、心の駆け込み寺としての役目を果たしている側面もあるのかもしれない。
しかし、しょせん、人は、それぞれのものさしでしか相手を見ることができない。
現実の世界だろうと、SNSの中だろうと、誰からも好かれ、誰からも承認されるなんて無理なのだ。
「いいね」や「リツイート」などを増やすことに必死になりすぎないほうがいい。
友情や愛情だと思ったそれらが、あとで空手形だったと落ち込んだりしないためにも。
無性に誰かに認めてもらいたいと思った時に、おすすめの方法を最後に書いておく。
鏡の中を見る。
そこに映った相手に「いいね」と声をかけてみる。
「素敵だね」と声に出してみる。
騙されたと思ってやってみてほしい。
自分に勝る味方はいない。
心の色が、ふっと明るくなるはずだ。
□ライターズプロフィール
リサ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
立教大学文学部卒。地方局勤務
文章による表現力の向上を目指して、天狼院のライティング・ゼミを受講。「人はもっと人を好きになれる」をモットーに、コミュニケーションや伝え方の可能性を模索している。
この記事は、人生を変える天狼院「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」をご受講の方が書きました。 ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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