祭り(READING LIFE)

誰も知らない、見ていない「祭り」があった《週刊READING LIFE 「祭り」》


2021/05/10/公開
記事:青野まみこ(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
彼女の言葉を聞きながら、涙が出てきてしまった。
 
「お兄ちゃん、一生懸命頑張っていたじゃない。私、見ていたわよ」
 
頑張っていた、その言葉を聞きながら、ああ、そんなこともあったと、思い出した。
一気にその時の映像がフラッシュバックしていた。
 
「……あんなに頑張れるんだから、絶対大丈夫だと思うよ」
 
それまで、ああ、今日は泣くまいと必死に堪えていた涙がこぼれてしまった。
あんまりしゃくりあげて泣くのもみっともないから、やめようと思ったけど、なかなか止まらないかもしれない。
 
「……そうね。そんなことも、あったよね」
 
ああ、そうだった。
あの時、彼は頑張っていた。彼の精一杯の誠意をこめた姿が、そこには確かにあった。

 

 

 

出口のないトンネル、という表現がある。
その時の私はたぶん、トンネルの中を彷徨っていたのだろう。
 
理由は、当時高校2年生だった長男が不登校だったからだ。
 
どちらかと言えば社交的ではなく、人と親しくなるのに時間がかかる子だった。頑張って中学受験をして、中高一貫の男子校に入学して、いよいよ大学受験に向けて本腰を入れないといけない高校2年になった。クラス替えは毎年あったが、高2になった時にそれまで仲が良かった友人たちが同じクラスに全くいなくなってしまった。
 
クラスの中になんとなく居場所がなくなって、理解してくれる人がいなくなって、長男は落ち込むことも多くなった。自分自身が受け入れられていないんじゃないか。誰かが俺の悪口を言ってるんじゃないか。そんな被害妄想に取り憑かれることも多くなっていた。そしてついに夏休み明けの9月から学校に行かなくなった。
 
高校から紹介された心療内科に、長男を連れて通った。しかしそこでの治療はうわべだけのもので上手く行かなかった。どこか良い医者はいないだろうか。家族が心療内科などというところに通うというだけで、もうこの先、日陰でしか暮らせないような引け目を感じていた。でも自分の子どもなんだからどうにかしなければいけない。
 
心療内科に通っている人なんて周りにはいるわけもなく、情報も本当に少ない中、私は専門医を探した。そして数駅行ったところに評判のいい子ども専門のメンタルクリニックがあると聞き、数ヶ月待ちで予約を取り診察してもらった。
 
「君みたいな子は、多いんだよね。頑張って今の学校に合格して、でもそこからつまづいてしまう」
 
それがわかっているから、今ここに来ているんじゃないですか、先生。一緒に話を聞きながら、私はそう言いたかった。
長男から学校生活のことを一通り聞きながら、医師は言った。
 
「思春期以降の人を診ている医者が都内にいるんですよね。そこは診断が独特だけど成果を上げているから、どうでしょう。一度行きませんか? 紹介状を書きますよ。ただし自由診療なので1回の診察につき数万円かかりますが、みなさん飛行機や新幹線に乗ってご遠方から来ています」
 
自由診療かあ。困ったな。私は頭の中で素早くそろばんを弾いた。でも頑張ればできないわけじゃない。これはお金の問題じゃない。この子には、治ってもらわないと。
 
「お願いします。紹介してください」

 

 

 

そうして紹介されたクリニックは、都心のビルの谷間の中にひっそりとあった。
 
(こんなところに、こんな医者がいるんだな)
 
しかし中に入ると患者とその付き添い人で待合室はかなり混雑していた。完全予約制なのに、しかも自由診療なのにこんなに混んでいるとは。飛行機に乗って遠くから通っている人もいるという意味がわかったような気がした。私たちなんてまだ近い。マシな方だ。
 
「どうぞ、お入りください」
 
中に入ると、老境の医師がいた。その医師の著書も読ませてもらっていた。脳と心身の結びつきを書いたその本は、なるほどと思いつつもなんとなく理解していいのかどうなのか、半信半疑だった。長男の脳のMRI画像を見ながら医師は言った。
 
「君は今、大変だと思うけど、まだ若い。きっと良くなると信じていきましょう。まず、なんでもいいから運動をすること。そして興味を持ったことを勉強すること。そうすることで脳のシナプスが繋がっていくからね」
 
そして投薬の指示が出た。投薬と運動を組み合わせる治療法を聞きながら、ゆっくりでもいいからこの子を治していければいいじゃないか、私もそう思えてきた。治そうと思っても簡単に治るものじゃないかもしれない、でも治そうとしなければ何にも進まない。だったらいいと思うことに賭けてみようと思った。
 
こうして1ヶ月に1回通う治療が始まった。
相変わらず長男は学校には行けず、家にこもってはいた。もともとそんなに好きではない運動は、したりしなかったりの日々だったが、薬はおとなしく飲んでいた。
 
考えてはいけないと思いながらも、どうしても私は長男と同学年の子たちの情報が気になってしまっていた。あの子はあの大学を目指すらしい、あの子は学年で何番だ、そんな情報は聞きたくなかった。そんなことが耳に入るたびに、
「どうしてうちの子は、ここに止まっているんだろう」
と思ってしまう。それが嫌で意識的に同学年の母親たちとの連絡を絶っていた。余計なことなんて聞かなくていい。余計なことをもたらす人とは接触しなくていい。そんな方針で行こうと思った。

 

 

 

そんな日々を送っていたのだが、近くに住む長男の高校の同学年の母親と会わなくては行けない用ができてしまった。文化祭の時に使用して私が預かっていた品物を、下の学年の母親に引き継がなければならず、私たちの学年で母親たちの代表をしているNさんにどこかのタイミングでお渡ししなければいけなくなったからだ。できれば同学年のママには会いたくなかったけど仕方がない、手短に引き上げればいいか。そう思って待ち合わせ場所に出かけた。
 
「久しぶり、元気?」
「うん、元気」
 
Nさんは言葉を選びながら話しているように見えた。
 
「お兄ちゃん、どう?」
「うん。今は医者に通いながら、家にいるよ。勉強はしていないけどね」
「そう」
 
ひと呼吸おいて、Nさんは話し始めた。
 
「うちの子も、実は『もう学校行きたくない』って言っていたことがあったのよ」
「そうなの?」
「うちの学校って、ひたすら勉強させるでしょう。なんでもかんでも最後は勉強勉強で。ある日うちの子が言ったの。『お母さん、僕はもう、こんなのは嫌だ』って」
「どうして?」
「『こんなに全て勉強だらけで、まるでこの学校は監獄みたいだ。僕は本当にこういうのが好きじゃない。すごく嫌だ』って言い出して。その時、本当にこの子疲れているんだなって思ったの」
「そんなことがあったんだね。でもよくNくん頑張って学校に行けているじゃない。偉いよ」
「それは、友達がいてくれたからなんだよね。テニス部の友達。みんないい子で、話相手になってくれていて。だからあの子の友達にはすごく感謝しているのよ」
「そうなの。うちは、友達がみんなクラス離れちゃったところからおかしくなっちゃったんだよね」
「そうか。だから、お宅のお兄ちゃんもすごく苦しいんだろうなって思うの。誰も周りに話せる人がいなくなっちゃったってすごく苦しいと思う。でも、誰かしら、話を聞いてくれる人がいるんじゃないかなって思うんだよね。お兄ちゃん部活も一生懸命やっていたでしょう?」
「そうね、その子たちとはよく遊びに行ったりしていたから、連絡はしていると思うけど」
「それなら、いいよね。……私、今日、青野さんとお会いするってなって思い出したことがあってね」
「なあに?」
 
Nさんは言葉を続けた。
 
「去年、高校1年生の時の文化祭あったじゃない? あの時、お宅のお兄ちゃん、美化委員をやってたじゃない?」
「そういえば、そうだったね」
「みんな普段女の子なんて近くにいないから、他校からやって来た女の子を見て興奮したりナンパしたりはしゃいで浮き足立ってたけど、そんな中、あの美化委員の子たちはひたすら校内を掃除してた。出店で食べ物屋を出して、そこで出たゴミがそこらへんにほっぽらかしてあって、散らかしっぱなしのやつを美化委員の子たちは片付けてた。私、見たわよ。お宅のお兄ちゃんも、それはそれは一生懸命お掃除してたわよ。本当に偉いと思ってたわよ」
 
お揃いの緑のTシャツを思い出していた。
泣かないようにしようと思っていたけど、だめだ。私も思い出してしまったから。

 

 

 

そこから遡ること1年前。
一体うちの子は、どこにいるのだろう。文化祭だっていうのに、楽しんでいるはずなのに、何してるんだろう。文化祭を見に行った私は、そう思いながら校内を歩いていた。
 
長男の学校の文化祭はいつもゴールデンウィークにあった。なんでも校長によるとこの時期が一番文化祭をするのにはいいそうだ。4月に入学式があってバタバタして、世間が遊びに向かうゴールデンウィークに一緒に文化祭をやってしまって、そのあとは大学受験に向けてひたすら生徒を勉強させるのが効率がいいのだと言っていた。
 
「お母さん、俺、今度の文化祭は美化委員だから」
「何? その美化委員って」
「校内を掃除するんだよ」
「文化祭なのに? 地味すぎない? もっとエンジョイしたら?」
「いいんだよ、別に」
 
高校1年の文化祭で、長男は美化委員になっていた。何もそんな地味なことしなくてもいいじゃないと思っていたけど、本人がそれでいいんなら仕方がない。
文化祭当日、私は長男がどこにいるのかすごく気になって校内を探した。歩いて歩いて、もう見つからないんじゃないかと思った時に、いた。
 
長男は竹ぼうきで外の掃き掃除をしていた。頭にはバンダナを巻いて、軍手をして、美化委員の印である緑のTシャツを着て。
 
「ご苦労さん」
「ああ、よくわかったね」
「ここでやってるんだね」
「そうだよ」
「記念に、写真撮ってあげるよ」
「いいよ、そういうのは」
「まあそう言わずに」
 
振り返った長男を撮影した。照れくさいような、はにかんだ笑顔が収まった。
 
「頑張ってね」
「ああ」
 
この学校はこんなこともさせるんだ、こういう高校の文化祭も悪くないじゃない。いいことを見せてもらえてよかった。そんな気分で私はそこを後にした。

 

 

 

「……高校生なんてある意味自分勝手だし、本当だったら自分の好きなことすればいいじゃない? 何も年に1度の晴れ舞台の文化祭で、誰もやりたがらないゴミ拾いなんて進んでする必要もないじゃない。それを、誰も見ていないのにやってたお兄ちゃん、本当に頭が下がるわよ。それを思い出したのよ」
「……そうね。そんなことも、あったよね」
「だから、絶対、よくなると私は思ってるの。誰も見ていないのに、誰もやりたがらないことをやれる子なんて、そうそういないよ。青野くん学校に行けていないって子どもから聞いてすごく気になってたんだけど、そういえばすごく頑張っていたなって思い出したから、だから絶対良くなるから。私は信じているからね」
 
まさかそんな優しい言葉をかけてもらえるとは思わずに、私は泣いていた。今までどこにも吐き出せなかったような感情の塊をやっと出せたような気がしたのだ。
 
「……ありがとう」
「絶対、悪い方向に行かないって思うから。だから、見守っていこう」
「そんなふうに思っていてくれて本当にありがとう……」
 
カフェで向かい合いながら、私たちはお互いにいつの間にか涙していた。

 

 

 

あれから何年もの時が流れた。
長男は高校3年になって学校に復帰することができ、その後大学院まで進み、今はなんとか親元を離れて社会人として働いている。あの頃から比べるとずいぶん逞しくなったものだと思う。
 
ゴールデンウィークを迎えると、あの時の長男のはにかんだ笑顔を思い出す。
誰も見ることのない、通りすがりの華やかな会話たちにかき消されてしまっていたかもしれない。でもあれはたぶん、長男にとっては「祭り」なのだ。
誰も気にかけることのない仕事。他の誰かがすればいい仕事。それでも、やっている本人にとっては懸命だったのだろう。そんなことを、親である私も忘れかける。折に触れて思い出していかなければいけないことだ。そしてゴールデンウィークに思い出すたびに、子どものことを最後まで信じてやらなくてはと肝に銘じるのだろう。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
青野まみこ(あおの まみこ)

「客観的な文章が書けるようになりたくて」2019年8月天狼院書店ライティング・ゼミに参加、2020年3月同ライターズ倶楽部参加。同年9月READING LIFE編集部公認ライター。

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