週刊READING LIFE vol.130

いつかまたスーツケースいっぱいに荷物を詰め込んで旅立てる日まで《週刊READING LIFE vol.130「これからの旅支度」》


2021/05/31/公開
記事:田中真美子(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)
 
 
「あー旅行行きたい!」
 
最近の口癖はこれだ。
 
皆さんご存知の通り、2020年以降新型コロナウイルスの感染が世界中で大流行し、世界がまたぐっと遠くなった。鎖国の時代に戻ったみたいだ。
 
それまでは、毎年夏休みには1週間ほど休みをとって、海外旅行に行くことが多かった。
特にビーチリゾートが好きで、日頃溜まった残業の疲れや対人関係のストレスを洗い流すかのように、ずーっと浜辺でぼんやり海を眺め続けるのが楽しみだった。
 
1年のうち、たった1週間程度仕事を忘れる時間があるだけで、心身ともにリフレッシュすることができ、気持ちを新たに仕事に取り組むことができていたのだ。
 
ところが、昨年状況は一変してしまった。
2020年の1月、ちょうど春節(中国など、中華圏における旧暦での正月、旧正月とも言う)前に滑り込みで仕事で中国の大連に出張に行ったのが最後、それから飛行機にすら乗っていない。
 
同じ場所でじっとしていることが苦手な私にとっては、これが苦行だった。
くる日もくる日も、職場への出社すらほとんどすることが無くなって家の中でじっとパソコンに向かって仕事をする。
ゆっくりと、しかし確実に自分の中で何かが蝕まれていく感じがあった。
 
ちょうどコロナが流行り出し、最初の緊急事態宣言が発令された2020年4月に職場の異動があったのも良くなかった。
人と会えない中で新しい仕事に取り組まねばならぬ不安といつ収束するかわからぬ不安が混ざりあって、これから自分はどうなってしまうのだろう、と漠然とした不安をずっと抱え込むことになった。
 
心の不安は体調にも現れ、ゴールデンウィークを過ぎた頃には頻繁に頭痛がするようになった。
幸いにも夜眠れない、といった不眠の症状は無かったものの、テレワーク勤務中に頭痛が辛く、仕事にならないような日がしばしばあった。
 
しばらくの間は、たびたび頭痛が起きたりといった不調があったが、それでもなんとか乗り越えながら日々の生活を送ることができ、今に至る。
 
乗り越えられた理由は何か。
 
今振り返ってみると、遠出ができなくなり単調になった生活の中にも、新たな発見があったからだと思う。
 
ある日夫が真っ赤なトマトを手に帰宅したことがあった。
今まで知らなかったのだが、私たちの住む神奈川県の湘南エリアは海のイメージが強いが、ちょっと北部に行けば畑が多く、野菜の直売所が至る所にあった。
 
私はトマトがあまり好きではなく、生で食べるのが特に苦手だったのだが、地元で取れた新鮮なトマトを口にしてその瑞々しさ、旨みに驚いた。
それからはすっかりトマト好きになった。
近くの農家の直売所や朝市に赴いてはトマトを買い求め、カレーやミートソース、サラダ、アクアパッツアなど色んな料理を作った。
 
トマトは夏のイメージがあったが、夏よりも春先でが旬であることも初めて知った。
季節によって農法が異なるトマトが出回り、それによって味もそれぞれ特徴があることも知った。
 
またある日は夫が養鶏場を見つけて、卵を買ってきた。
早速卵かけご飯にして食べたら、産みたての新鮮な卵は全く臭みが無くこれまた素晴らしく美味しかった。
これも後から知ったのだが、神奈川県の相模原にはたまご街道という養鶏場と卵の直売所が集まるエリアがあり、割と有名だそう。
また移動コストがかからないからか、良質な卵を安価で手に入れることができる。
近くの養鶏場で卵を買うことができることを知ってから、スーパーで卵を買うことは無くなった。

 

 

 

この近所での小さな発見が、私が旅に求めていることが何であるかの気づきを与えた。
 
それは自分の知らない価値観、人、モノ、景色、文化……、それらとの出会いだ。
 
普段、日々の生活や仕事の中で、知らない間に私たちの価値観は凝り固まってしまっている。
同じ価値観の集団の中に長くいると、ふとしたきっかけでこれはおかしいのではないか、と思ってももしかしたら自分が間違っているのかもしれない、と声をあげ辛く感じることがある。
 
昨年、初めての緊急事態宣言が発令された時にも感じたことがあった。
私の会社では、顧客となる企業からシステム開発を受託して開発するビジネスを主な生業としている。
緊急事態宣言下で出た会社からの方針は、極力テレワークを推奨するが、顧客の意向を窺い判断すること、といった趣旨の方針であった。
 
IT業だと、テレワークに移行するのは比較的簡単かと思われるかもしれないが、セキュリティの関係上、業務を行うための開発環境や商用で稼働している環境へリモートでアクセスすることを禁じている場合がある。
 
幸い当時私が担当していたプロジェクトの顧客は理解があり、出社しないとできないタスクはスケジュールを見直しした上でテレワークに移行することができたが、私の同僚のチームにはそう上手くはいかなかったところもあった。
 
誰も予想できない事態に直面しているのに、当たり前のように顧客に「納期厳守でしょ」と言われやむを得ず部下に出社しての勤務を命じる管理職もいた。
そう言った顧客側の企業の社員はテレワークに移行して出社していない場合もあって、商売とはいえ何かモヤモヤした気持ちを抱かずにはいられなかった。
 
自社の社員だけでなく、委託先の社員も含めて健康や安全はビジネスより大事なはずだ、そう思っても何の力も無い私はただただ同情するしか術が無かった。

 

 

 

海外に行って未知の経験をすると、自分のいる世界は広大な世界のほんのごく一部でしかなく、そこで正しい、常識とされていることが必ずしも正しいわけでは無いことを痛感する。
 
例えば、夫婦制度。一夫一妻制の国もあれば、一夫多妻制の国もある。
例えば、大麻。日本では栽培も所持も禁じられているが、合法の国もある。アメリカでもここ数年で複数の州で娯楽大麻が合法化されている。
 
私が過去旅をしている中でカルチャーショックが大きかったのはドイツだ。
ドイツには意外にも温泉大国で、保養のできる温泉のある都市がいくつもある。
中でもバーデン・バーデンは有名な温泉地で、海外の温泉文化に触れてみたいと思った私は過去にバーデン・バーデンを訪れたことがある。
古城や森の中に温泉施設があり、やはり日本の温泉とは趣が違う。
一番驚いたのは、温泉はプールのようになっていて男女一緒に水着を着て入浴するのだが、サウナは全裸で男女混浴なのだ。
うら若きドイツの乙女も全く動じることなく素っ裸になって、大きな毛むくじゃらのおじさん達に混じりサウナを楽しんでいた。
これが衝撃であった。
 
またドイツではこんなこともあった。
ローテンブルクという小さな街へ立ち寄った時のことだ。
ローテンブルクへは、フランクフルトから鉄道にのって向かったのだが、駅に到着してから困った。
どこを歩けば街の中心地へたどり着けるか全くわからなかったからだ。
 
駅前にはタクシーもなく、拙い英語で何人かに尋ねてみるも彼らが何と言っているのか理解ができずどうにもならない。
 
困り果てた私はそばに留まっていた路線バスの運転手に尋ねてみた。
 
「このバスってローテンブルクの街中へ行きますか?」
 
きっと私の拙い英語では何を言っているかわからなかっただろう。
予約していたホテルの住所が書かれた紙を見て運転手は一瞬怪訝な顔をしたが、私をバスに乗せてくれた。
 
しばらくいくつかの停留所で乗客を乗せたり、下ろしたりしていたが、突然大きな駐車場でバスが止まった。
バスの運転手は私以外の乗客に何かを説明しているようだった。
学校の近くを通ったからか、バス内は小学生か中学生らしき少年たちでいっぱいだった。
 
ドイツ語でわからなかったものの、運転手の話ぶりで何となく事情を察することができた。
おそらく、私が乗ったこのバスは普段はローテンブルクの街中へは行かないバスだったのだろう。
 
しかし、行き方がわからず困っている日本人がいる。
 
それを見かねて彼は私を乗せてくれて、今バスの乗客達にこの日本人を街中に連れていくからちょっと寄り道するけど許してね、というようなことを説明しているようだった。
 
おかげで私は無事ローテンブルクの街中までたどり着くことができた。
それでわかったのだが、街の中心地は駅から近く、迷わなければ駅から歩いてすぐにたどり着けそうな距離だった。
今ならGoogle Mapなんかのアプリで調べながら自力で何とかできたかもしれない。
 
私はバスの運転手に多めに運賃を渡し、ありがとう! と何回もお礼を言ってバスを降りた。
 
路線バスの運行ルートを外れてまで送り届けてくれたその運転手に感謝すると共に、もし自分が逆の立場で運転手だったら、運行ルートを外れないのが当たり前なのだから、こんな判断が自分でできただろうか、と今になっても思うときがある。

 

 

 

日本国内にいてももちろん、新たな発見や価値観を揺さぶられることは多くある。
しかし、ガツン! とくるようなカルチャーショックは世界を旅しなければなかなか経験できないであろう。
 
しばらくは長期旅行用に買った大きなスーツケースの出番はなさそうだが、またこのスーツケースにいっぱい荷物を詰め込んで歩き回ることのできる日が来ることを願っている。
 
それまでは近所を散策し、身近な場所の新しい発見を楽しんでいきたいと思う。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
田中真美子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

神奈川県藤沢市在住。IT企業に勤める40代中間管理職。
仕事の疲れをカレーで癒す日々を送る。
ライティングは2020年から勉強中。読んだ人の心を明るくする、そんな文章を書けるようになりたい。

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2021-05-31 | Posted in 週刊READING LIFE vol.130

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