木の葉のようにノルウェーを流れたのは、もしかすると白夜の悪戯だったのかもしれない《週刊READING LIFE 出してからおいで大賞》
2021/08/02/公開
記事:月之まゆみ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「ほら見てごらん。面白いだろう。さっきから彼らは日の当たる場所をとりたくて
デッキの上を右に左に行ったりきたりしながら動きまわっている」
ヨーロッパ最長のフィヨルドをまわる大型クルーズ船のデッキの突端で、ノルウェーの真珠とうたわれた絶景を眺めていた時、一人の老人がそう話しかけてきた。
イギリスから来た老人は数日かけて家族とフィヨルドを見て回る予定だと言った。
彼が指さす方を見ると乗船客が日光浴のベストポジションを取ろうとデッキチェアを日当たりにあわせて移動させていた。
フィヨルドの天候は変わりやすい。急に雨が降ったかと思うと晴れ上がる。
船上を流れる風が思ったより強く雲の流れも2倍速で流れるので、雲で太陽がかげると一気に気温が下がって肌寒い。
「あのなかに妻と息子夫婦もいるんだ。きっと躍起になって動いている。ふふっ。どの場所にいてもじっと座っていれば、船の軌道や天候が変わってそのうち自分にも必ず陽が当たるものさ。
彼らはそれが待てないんだね。少しでも得をしようとして動き回る姿は少し滑稽に見えないかい」
そう言いおいて、混みあうデッキに消えていった。
残された私はその老人が言ったことが本当かどうか、左右のデッキの日照時間を少し計測してみた。確かに多少の誤差はあるが、陽はかげったり晴れたりしながら左右に同じくらいに降り注いでいたので、老人の言葉が正しいいことに驚いた。
フィヨルドはノルウェー語で「入江」を意味し、西ノルウェーに位置するガイランゲルフィヨルドは、2000ものフィヨルドで形成されているので旅行客にはもっとも人気が高い。
冬が長い北欧の初夏の景色は美しい。天をつきあげる断崖のむき出しの岩肌に、頂上に積もった雪解け水が滝となり一気に落下する。
水深500mの海底から標高1kmまで一気にたちあがる崖の景観が空と一緒に波のない鏡のような海に写りこみ、つよい紫外線のせいで空気は澄み切って青みがかっている。
今回は団体しか予約を取らないクルーズ会社と2か月にわたる交渉の末、ようやく乗船できた。そのかいあって複雑な地形にあわせて刻々と変わる景色はいつまで見ていても飽きない。
最新の機能を備えたモダンな大型クルーズ船は、北欧デザインの特徴でもあるウッディさを活かしたインテリアで乗客を気負いなく快適に過ごさせる作りになっている。
ガラスばりになっているサロンの天井からは船室にいながら、高い断崖から流れおちる滝の絶景をあますところなく観れるようになっていた。
数百人が収容できるダイニングから高級フレンチレストラン、軽食の取れるCaféまで用意され、宿泊施設やジムなど観光インフラの質も高い。
私もダイニングでランチを食べながらその壮大で美しいパノラマに喜びに声をあげた。
そして食後はのんびりと家族や友人送るポストカードを数枚書いた後、土産物屋を見て回っていた時のことだ。
船内を数カ国語のアナウンスが流れると、人がやおら立ち上がって動きだした。
不運なことに私はこのとき英語のアナウンスを聞きのがしてしまう。
土産物の店員に聞くともうすぐ、最初の寄港地に着くと言う。
場所を聞くと、自分が降りる港とは違うようだ。
窓の外をみても港に近づいている様子はない。
まだ大丈夫と私は安心しきっていた。
ただ念の為、大きな人の流れについて行き、スペイン人の団体旅行客の最後尾についた。
「ではこれから下船しま~す。前のひとから離れないで後に続いてくださいね」
添乗員の合図で少しずつ人が流れ始めた。
???
「あのぅ、船はどこにも着いていないのに皆、これからどこに向かうのですか?」
「今から全員降りるのよ。こんな大きな客船は小さな港に着けないでしょ。だからここに停泊してツアー客はそれぞれボートに乗り換え寄港地で自由時間を観光したり、別の客船へ乗りかえてクルーズを続けるのよ。で……。あなたは? あなたはどこへ行くの?」
そう問いかけられて、初めて手帳に挟んでいた予定帳を探すが、ない……!
スケジュールを立てた時に全て目的地を書き込んだスケジュールがないのだ。
えっ……。
えぇっ……!!!
おまけに肌身離さず持っていたガイドブックもなくなっている。
最後尾の人がボートに乗るために階段を降りるタイミングで
「ごめんなさい。私も行かないと……」
ガイドは、そうすまなそうに言うと行ってしまった。
その場に取り残された私を最初のパニックが襲った。
自分の降りる場所がわからなくなってしまったのだ。
ノルウェー語の地名はガイドブックを何度読んでもなかなか覚えられなかった。
あわてて船内を走って、最後にポストカードを書いたダイナーに戻るとすっかり片付けられ誰もいない。
たった半時前までは昼食で賑わっていた場所にはもう人影が全くない。
落ち着かないと。きっと大丈夫。
階下に降りるとちょうどそれぞれの団体が順々に用意されたボートに乗り始めている。
取り残されては、船から降りられなくなってしまう。
そこにたまたま通りかかったクルーを捕まえて、どうしたらボートに乗れるかすがりつくように聞いた。
「どこで降りるか場所がわからないって!」
私の返答にクルーも頭を抱える。
「何人のツアー? 日本? 今日は日本人は乗ってないよ。一人で乗った!? 嘘だろう。 この船は団体客しかのれないはずだよ」
私は証拠に、GPSの電子チップの入った腕輪のついた手首をクルーに差しだした。
乗船時に受付のクルーが個人乗船になるので、何かあった時の捜索のためにGPSの腕輪をとりつけてくれたのだ。
しかしそれは何の役にも立たなかった。団体客の誘導を優先させる義務のあるクルーは、謝りながら行ってしまった。
私は船の各階を駆け上がったり降りたりしながら、船底を端から端まで何往復も走りぬいたが自分の乗るボートが判らない。
以前、映画「タイタニック」で船が沈没するシーンでボートに押し寄せる乗客の慌てふためく姿は印象的だったが、自分の人生では絶対、そんなことは起こるはずはないと信じていた。その時までは……。
でもそうなって初めて、乗客がパニックになる気持ちを身をもって知る。
沈没しなくても誰もいない船に残されるのは絶対に嫌だと本能が拒否するのだ。
あぁ、一人でこんなところに来るんじゃなかった。船舶会社の人が言ったことは正しかったのだ。しかも行先もわからなくなってしまったなんてお手上げだ。。
「誰か助けて!」
恥も外聞もなく大声で叫んだ。
窓の外をみると人を積んだボートはどんどん離れていく。
「君も取り残されたの?」
背後から声がして振り返るとフランス人の男性が一人立っていた。
こっちにおいでと手招きするのでついて行った。
階段をおりると船底のようなところに数名の乗客が集まっていた。
国籍もバラバラだった。
「今、僕の奥さんがね、君みたいな人を探しに行って、もうすぐ戻ってくるよ。ボートも確保したからもう大丈夫だよ」
皆、どの顔も心配そうだった。アナウンスが聞き取れずに自分の乗るボートが判らなくなってしまった人たちだった。
やがてジェーン・バーキンによく似た日焼けした女性が現れて、私を一瞥した。
これで最後ね。そういうと皆を率いて、小さなボートに乗りこみ無事最寄りの寄港地についた。
私はまだパニックから抜けきれず、そのとき一時的な記憶喪失になっていた。
フランス人夫婦は自己紹介してくれたが、二人の名前もたどり着いた街の名前も覚えられない。
どこまで行くのかとジェーン似の妻が聞いてくる。
ガイドブックもスケジュールも亡くしてしまった。ノルウェー語は読めない。
だから行く先もわからなくなってしまった。そういうとジェーンは笑った。
夫がかばって笑うなんて失礼だよ。一緒に連れて行ってあげたらどうかと彼女に聞く。
そしてフランス人ばかりを集めた現地ツアーのバスに一緒に乗り込んだ。
乗客数の点呼もとらずにバスは発車してフランス語のガイドが始まるが、さっぱりわからない。
こうなればケ・セラ・セラ(なるようになるさ)だ。
やがて川に美しい滝が何本も流れる街についた。私は助けてくれた彼らに心からの礼を言ってそこで別れる。
私の行く先も予定とは大幅に狂ってしまったが、こうなればもう木の葉のように流されるままにノルウェーを漂うことにした。
そう腹を決めたらちょうど遠距離のバスが入ってきた。色が抜けるように白い若い女性が走り寄ってバスの運転手へ何かを確認している。
「このバスはどこに行くの?」私は彼女に聞いた。
「〇×s%@△〇」
行先を答えてくれるがさっぱり頭に入らない。
父親とバックパックで旅をしているというロシア人の女性は私を見るに見かねたのか、
複雑な山岳地図のようなものを広げて、ノルウェー海に面した町へ向かうと教えてくれた。
北の海か、ここまで漂ったのだから、それもアリかな。
どのみち行くあてなどないのだ。
私は思い切ってそのバスに乗ることにした。出発時間がきて乗客はロシア人親子と私のたった3人を乗せてバスは出発する。何が有名かわからない小さな田舎街をでるとバスは大自然のなかをまっすぐ伸びる一本道をひた走る。
道の両側は高さ1000メートル級の断崖が延々と連峰の壁となって続く。そのふもとは植物の新緑でおおわれ目を見張るほど美しい。
わずかな平地は牧畜や農地になっており羊が群れをなして草を食んでいた。
断崖の頂上を雲が覆うが流れ落ちる白い滝が飛沫をあげながら裾野に美しい虹をつくっていた。
天上界にいるような景色だった。夢の中のようだ。対向車などめったに走ってこない。
車窓の右に左に雪解け水の滝が垂直に何本も流れおちていた。天から流れ落ちる絹のような白糸の滝のその幻想的な清らかさは、これまで見てきた絶景のなかでも群を抜いて美しかった。
ロシア人の女性は一眼レフのカメラでずっとシャッターを切っていた。
どこまでも続く道は私には滑走路に見えた。その上をバスの形をした宇宙船が滑らかに走り別の惑星の景色を見ているような浮遊感を感じた。
ガイドブックを手放し、どこかに行くことをやめてしまうと目の前に現れる自然の造形は純粋な視覚でとらえられ、そこから入る感動はそのまま脳裏に刻まれた。
思えば連日続く白夜で、私の脳は少しも休んでいなかった。身体をめぐる血液がときどき沸騰するような興奮をおぼえ疲れていた。
パニックの後の軽い記憶障害で、情報をシャットダウンしてしまうと今まで見ようとしなかったものを見えるようになった。
そのまま天空の楽園を走るバスの旅が、延々続いてくれればいいと願った。
割けた雲の間から太陽の光が地上に降りそそぐ西洋画のように牧歌的な町に着いてバスの旅は突然、終わった。
そこは町とも呼べないノルウェー海に面した小さな村落だった。
絶景を臨む有名なホテルが1件と数件の民家があるだけだ。景色は絶景だったが、周辺はどこもかしこも天然の肥しの臭いが充満していてバスから降りると鼻をつままずにはいられない程、強烈な臭いがした。
現実の自然は美しいだけではない。臭いを含めて決して生易しいものではない。
ロシア人親子と私は息を止めたり鼻をつまみながら大笑いする。
さてこれからどうしようか。ホテルに飛び込むと、ろうそくの燭台を持ち民族衣装を着た女性がフロントで出迎えてくれる。
私たちの表情を読み取って、ここでは18世紀から生活様式を変えていないと説明してくれた。独特の建築様式で景観も素晴らしかったが、私はあえて名前を聞かなかった。
暖炉のそばで紅茶を飲んでいると、宿泊していたオーレスンの街に戻るボートの予約が入ってまだ空席がある知った。
旅の神様はまだ私を見捨てていなかった。
普段は漁船に使うボートに乗りこんで、もと来た街へ戻る途中、ロシア人の女性とバスで観た景色の美しさを話す。彼女も普段は一人で世界を旅していて、特に自然が好きだと言った。そして本当の自然がのこっているのはもうアイスランドしかないと教えてくれた。
私が世界でもっとも美しいと思った以上に美しい景色がアイスランドにあるという。
そんなことを話していると港についた。
夜も10時を過ぎていたが、太陽は沈まず、水平線に沿うように横に滑っていた。そこに一人の若い男性がベビーカーを押して突堤に立つ姿が見えた。
こんな時間に子守で出てきたのだろうか。
太陽の銀色の光に包まれて、逆光のなかでシルエットしか見えないが男性が孤独なのがわかる。しばらくベビーカーを前後に揺らしながら海に向かって立っていたが、男性はやがてポケットから携帯を取り出すと誰かと話はじめた。うつむきながら話す男性の後ろ姿は何か思い悩んでいるように見える。話相手が妻ではないことが感じ取れた。
彼は誰と話しているのだろう。
私はしばらく立ち止まってその姿に見入る。
そして日本においてきた夫を思い出す。夫も私の知らないところで誰かに心の内を訴えているのだろうか。地球は回るが誰も本当のことを知る人などいない。
まだホテルの名前は思い出せないが、歩いて帰れば足が寝場所を教えてくれるだろう。
かろうじて夫の名前はまだ覚えている。急に夫に会いたくなった。
もし彼がここにいたらクルーズのデッキで日の当たる場所を探すだろうか。
夜遅くに電話をかける若い男をどう感じるだろうか。
そして私は案外、夫のことを何も知らないのではないだろうか。
たった一日に船で遭難しかけ、記憶障害になり、宇宙船に乗ってノルウェーの美しい景色を見てきたことを、さてどうやって話せばいいだろうか。
こんな荒唐無稽な旅の一日を。
でもいつか、この景色を見せに今度は家族を連れてきたいと思う。
名前も知らぬフィヨルドが呼びかける。
いつか……、思い出してからおいで。
□ライターズプロフィール
月之まゆみ(READING LIFE編集部 ライターズ倶楽部)
大阪府生まれ。公共事業のプログラマーから人材サービス業界へ転職。外資系派遣会社にて業務委託の新規立ち上げ・構築・マネージメントを十数社担当し、大阪地場にある派遣会社にて現在、新規事業の事業戦略に携わる。
2021年 ライティング・ゼミに参加。書き、伝える楽しさを学ぶ。
そして「書く」ことで人生の密度がかわったことを実感する。
ライフワークの趣味として世界旅行など。1980年代~現在まで、69カ国訪問歴あり。
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